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69 アプサント (L’absinthe)
2007年5月13日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。












































アプサント (L’absinthe)


決して好きというわけではないのですが、なんとなく気になっている絵ってありますよね。上の絵が私にとっては、そういう絵の中の1枚なのです。エドガー・ドガ (Edgar Degas 1834 - 1917) が 1885 年から翌年にかけて描いた「アプサント(カフェにて)」という絵です。

19世紀末のパリのカフェで、グラスを前にして隣り合って座っていながら、精神的にはお互いにまったく関わり合うことなく、それぞれの孤独に沈んでいる女と男の姿は、当時のパリに充満していたであろう孤独や憂愁の雰囲気を見事にあらわしていると思いませんか?

この絵のモデルになったのは、女優とドガの友人の版画家です。それにしても、思わず見ているこちらが、ため息をついてしまうような、もの悲しい絵ですね。

この絵、技法的にもなかなか面白いのです。2人の人物が画の右上に片寄って描かれています。普通だと人物を中央に置いて、左右にバランスよく物を配置し、左右対称的にまとめるということをするはずですが、ドガは意図的にバランスをくずした構図にしたのです。手前から左下にかけては、ほとんど何もない空間で、2つのテーブルとその上に置かれた新聞とテーブルの線が作り出す、鋭角的なジグザクのラインが登場人物の心の中の不安感と絶望感を表現しているような気がします。

このような構図は、ヨーロッパ絵画の伝統からは出てくることはまずないと思います。これは、日本の浮世絵から取り入れられた技法だと思います。ドガ、ロートレック、マネ、ゴッホ、モネ等々、ルネッサンス以来のヨーロッパの伝統絵画をうち破ろうとした画家達は、彼らにとってはまったく斬新であった浮世絵の技法から、極めて大きな影響を受けています。

ところでこの絵をよく見ていただくとお気づきになると思いますが、2人の人物の表情が面白いですね。女性の方はボヤーッと宙を見つめ、男性は目をそらすようにソッポを向いています。2人の間にはあたたかな心の交流がまったく感じられません。でも、こんなに近接してカフェのテーブルに座っているわけですから、2人がまったく無関係だとも思えません。

また、左下に描かれているテーブル上の新聞のことですが、当時は夕刊は存在せず、新聞と言えば朝刊だけでしたから、このシーンは、朝から男女が並んでカフェで酒を飲んでいるというシーンなのです。ということはつまり雰囲気からしても、この2人は娼婦とその客で、時間は1晩を共に過ごした次の日の朝だということを暗示しているわけです。

それから画面上でいささか不自然なのは、2人が座っているテーブルとその隣のテーブルに足がないことです。不自然だとお感じになりませんか? テーブル2台がなんだか宙に浮いたような不安定な感じです。ドガはこれを計算して描いているはずです。決して描き忘れたわけではありません。

私見ですが、この不安定な空間と構図は2人の心理と対応しているのではないかと思います。2人の宙に浮いたような不安定な意識を強調しているのです。朝から強いお酒を飲んで、ソッポを向き合っている、1夜を共にしたはずのこの2人。なんともやるせない雰囲気をよく表現していると私には思えます。

ところでアプサント (absinthe) とは、この絵の中の女性の前に置かれたグラスの中の白濁した緑色の強いお酒のことです。その退廃的な雰囲気がうけて、当時のヨーロッパ各国で好んで飲まれていました。アルコール度数が68度といいますから、火を近づければ完全に燃えたことでしょう。

ニガヨモギという薬草を混ぜたもので、麻薬のような酔い心地がしたのだそうです。もちろん、現在は生産も販売も全面禁止で、現物を見ることはできませんが、この幻の毒酒にはなにか、人を惹きつけるものがあったのでしょう。(実は近年、ヨーロッパの一部地域で、成分を少し変えた同名の酒が、限定的に売られ始めたと聞きました。下段の写真はそのひとつです。当時もこの酒を造っていたメーカーの1社が現在製造しているものです。いいのでしょうかねえ、こういうの?)

アルコール度数68度のわりには、きつい香りというよりも、清冽な針葉樹林のような香りで、何よりも魅力的なのは、その色なのだそうです。冷水で割ると、淡い緑色が徐々に白濁し、光にかざすと、極上のオパールのような乳白色の色合いに見える、という記録があります。

ただ他の酒とは明らかに異質の中毒症状が発症するケースが増えるにつれ、各国の研究者達がこの毒酒の成分について、くわしい研究を始めました。パリ郊外のオーヴェール・シュール・オワーズ村でピストル自殺した画家ゴッホ (1890) も、この酒の愛飲者でした。単なるアル中になるだけではすまない、なにか特別の毒性があるのではないか?という疑惑は、その後だんだん明らかにされてきました。アブシントールの精油成分ツヨン (C10H16O)という毒物の構造式が突き止められたのは1900年のことでした。

かたやペルノー社をはじめとするアプサントの多くのメーカー達は、生き残りをはかるために、アプサント・エッセンスの混合比率を下げる等の策をとったのですが、この魅惑の毒酒の販売禁止のとどめは、粗悪乱造アプサントの出現でした。この酒の特徴である、加水後のオパール発色をより強く、より早くおこすために、硫酸銅、三塩化アンチモン等の薬品を混ぜた粗悪品が出回ったのです。きれいな緑の乳白色は、アペリティフ(食前酒)やダイジェスティフ(食後酒)としては、ひとつの大きな魅力だったのです。(でもこんな強い酒を食前酒として飲んだ人が本当にいたのでしょうかね?)

ここまでくると、ついに1905年にスイスとベルギーが製造や販売の禁止、ついでアメリカ、イタリアが禁止令を制定。本拠地フランスも、とうとう1915年に禁止せざるをえなくなりました。当然、莫大な酒税の収入は減り、製造側には失業者も出たのですが、この緑の妖精の毒は、それほどに強かったということですね。

と、こんな雑学的知識を持って上の絵をもう一度ご覧ください。アプサントのグラスを前にした女性の気の抜けた雰囲気が、もう少しよく理解できると思いますが、いかがでしょうか?

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