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複数たち |
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2012年8月1日 |
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 | 西村 万里 [にしむら・まさと]
1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。 |
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▲ ジュリアス・シーザー |
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引退してからは大学の図書館に行って読むほかはなくなったけれど、以前は教材として使っていたから日本の新聞を学部で買ってもらっていた。新聞はオンラインでも読める。けれど、私は現実の紙の新聞を学生に読ませる事にこだわっていた。
紙の新聞を読む事にはいろいろなメリットがある。広げるといろいろな記事が目に飛び込んできて、自分が興味がない領域の記事だと思っても読んでしまう。それで結果として思わぬ情報を得られることが多い。
中でも私にとっておもしろいのは広告だ。本の広告にはたいてい目を通す。どんな広告でも自分が金を出してその商品なりイベントなりにかかわる事はないのだけれど、広告を読むと記事だけではわからない日本の息吹に触れる感じがする。週刊誌の広告に「あの・・・さん」と書いてあるだけで、「ああ、彼はもう過去の人になったんだな」とわかる。
しかし、つい最近見た広告にはまいった。松田理奈というバイオリニストのリサイタルの広告で「愛ある楽曲たちに囲まれて」と銘打ってあるのだ。
「ここまで来たか」というのがいつわらざる感慨である。でも「これのどこがおかしいんだ」とお思いの方も多いにちがいない。
おかしいのは「楽曲たち」の「たち」である。なんでここに「たち」がでてくるんだ。どんなものに「たち」をつけられても驚かない今日このごろだが,「曲」にまで「たち」をつけるとは思いもよらなかった。皆さんはカラオケにいって「演歌2曲たちを歌った」というだろうか。
日本語は特定の場合をのぞいて複数をあらわす必要がない。その特定の場合というのは人間をさす場合だ。「私ども」「あなた方」「あの人たち」という。しかし机たちとも自動車たちともいわない。
もちろん擬人法というものはある。ものを人間と見立てる、ということで、この「愛ある楽曲たちに囲まれて」もそうみなせないことはない。でも「たち」を使わず「愛ある楽曲に囲まれて」で全然不自然ではないはずだ。一曲では「囲む」ことはできない。複数であってはじめてこの言葉を使うことができるのだから「楽曲」といっても一曲でないことは明らかだ。だから「たち」を使う必要はないのだ。
日本語はこういうふうにいわゆる「複数」を使わないで、ほかの要素で複数であることをそれとなく知らせる言葉だ。
「東京日本橋の三越本店の前には2頭のライオンの銅像がある」という文章があるとする。ごらんのとおり、「2頭のライオン」と書く。「2頭のライオンたち」とは書かない。
ヨーロッパの言語だとみな複数単数の区別がある。その代表として英語を例にあげると「2頭のライオン」は “two lions”だ。しかしこれは日本の伝統的な考え方からするとくどい。何頭いるか分からない時にlionsというのは筋が通っている。でもいったんtwoと言ってしまえばもう複数だということはわかっているのだからlionsとわざわざ複数にする必要はない。
と、そう考える(はずの)日本人は合理的だろうか。 複数などにわずらわされることのない日本語は簡単だ、と言えればいいのだが、そこには思わぬ落とし穴がある。Twoとだけ言う単純さにくらべて日本語の数え方はめったやたらに複雑なのだ。 「2頭のライオン」は「2頭のライオン」であって「2ライオン」ということはできない。同様に「みっつの虎」とも「4個のくま」とも言えない。
カテゴリーごとに数えることばがきまっている。例えば動物は一匹あるいは一頭,鳥は一羽、機械は一台、本は一冊、鉛筆は一本というように数え方が決まっていてほかの言葉に置き換える事ができない。これは日本語を教える方も習う方もひとしく苦労するところなのだ。
「二羽の鳥」という場合を考えてみよう。英語でいえばtwo birdsだが、「羽」ということばをきけばそれだけで「鳥」だとわかるから、実は「二羽」といっただけでtwo birdsの意味になる。その後の「鳥」はその広い範囲のbirds の中からある特定の鳥を選んでいるわけではなく、鳥一般をさしているのですよ、ということだ。それを特定したい時には「二羽のすずめ」「三羽のからす」という具合に鳥の名前を付ける。
「二羽」といっただけでtwo birdsの意味だとしたら、もうそれだけで複数なのだから、すずめやからすに複数の記号をつけることはない。だから「すずめたち」「からすたち」と言わないのだ。
つまりあのややこしい日本の数え方の体系は一面から見るならばどうやって「複数」の記号つまり「たち」をいわずにすませるか、という努力のあらわれだと言える。「三台」といえば機械のことだし、「四冊」といえば本に決まっている。たとえ細かいことはわからないにせよ、これだけで何をさしているかおおよそのことはわかる。
人間だって原則としては動物と変わらない。「十人の学生」「二百人の従業員」ですむ。ただ人間の場合には社会に生きている関係上、夫婦、家族、学校、職場などのグループをあらわすことが時として必要になってくるので、それで例外的に複数の記号が存在するのだ。
その規則がやぶられるようになったのはいつ頃の事なのだろう。1974年にフレデリック・フォーサイスの小説“Dogs of War”が出た。日本語訳のタイトルは「戦争の犬たち」である。私は当時この日本語訳を見て違和感をおぼえた。これではいかにも英語の直訳くさい。
原題はシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」のセリフから来ているそうだ。そのセリフは“Let slip the dogs of war.”というものでその訳は「戦争の犬を解き放て」となっている。さすがにシェークスピアを訳す時には「戦争の犬たち」などとは言わないようだ。
フォーサイスの小説はアフリカで戦う白人の雇われ軍人を描いたものだからこの「犬たち」は本物の犬ではなく人間をさす。したがって「犬たち」といいたい気持はわかる。でもそれをいうなら「戦争の犬ども」だろう。
人間を犬とよぶことはシェークスピアにかぎらない。日本でも人をおとしめるために犬とよぶことはある。たとえば新撰組のことを「幕府の犬ども」と呼ぶような時だ。これは犬を人より下のものと見下げた上での呼び方だから「犬たち」などと対等に扱っては混乱する。
本物の犬の場合は複数でも「犬」、人間をさす場合は「犬ども」というのが日本語の約束である。
「戦争の犬たち」というタイトルはそういう日本語の語感に鈍感なのだ。原題がdogsと複数になっているからというので機械的に「犬たち」にしたのだろう。もうまるで英語でものを考えている。
「こども」の「ども」は犬どものどもと同じで、このことばはもともと複数だった。「子」が単数であり、複数になって「子ども」になる。大人から見てこどもは半人前で下のものだから「子たち」ではなく「子ども」なのだ。そういう意識が薄れるとともに「子供」という言葉が単・複を問わず使われるようになり、ついには「子供たち」と対等によばれるようになった。
関西では他人の子供を今でも「お子たち」という。どもを使わないことで敬意を表しているのだ。関東ではそういう時単数複数に関係ない「お子さん」を使う。どっちが日本語として正統なのだろう。
昔は「三匹の侍」というタイトルで複数の浪人のもつ雰囲気をよくあらわすことができたのに、80年代になると「ふぞろいの林檎たち」といわねば気がすまなくなった。
今では「たち」は何につけてもいいことになったらしい。以前は「彼」「彼女」の複数は「彼ら」「彼女ら」に決まっていた。もともとこれらは翻訳用語で性の区別をつける西欧語を訳すために新たに考え出されたものだ。そんな言葉ができる前は「あの人」ですんでいたし、たとえ性別をださなければならない時でも「あの男」「あの女」だった。そして複数は「あの人たち」だった。「彼ら」「彼女ら」はそういう口語ではない文章語だったから「たち」ではなくもっとかたくるしい「ら」を使ったのだ。でも今では「彼たち」「彼女たち」というほうがふつうだろう。「彼ら」ではいかにも距離を置いている感じがする。「彼たち」というともっと親密な関係が予想される。
この「ら」と「たち」の対立はおもしろいと思う。
「彼ら」というと「消費者」「一般大衆」などという感じだが、「彼たち」というと「うん、中学の同級生だったんだ」みたいな語感だ。
そういうふうに「たち」は自分に身近な何人かの人々、という気持をあらわすことができる。そしてそこにこそどんな物にも平気で「たち」をつける今のトレンドの理由があるのだろう。
敵対しているものには「ら」をつける。「てめえら」「おのれら」「きさまら」といったぐあいだ(「てめえたち」という言い方がないわけではない。それはやくざの親分が子分によびかける親しみをこめた言い方だ)。
「あなた」や「わたし」の場合にも、「ら」を使えば距離感が出る。「あんたらねえ、こんなことしてもらっては困るんだよな」「わたしらの言い分も聞いてほしい」など。
「ら」はたった一語で複数をあらわすことができるので 新聞では大活躍する。「会長らは業績が伸びているとしている」「元信者らはそう主張している」などといくらでも使える。その「ら」のあらわす人々についていちいち説明しなくてもいいから簡単だ。読む方からすれば、「いったい会長や元信者にくっついてそういっているのは誰だ」といいたくなる。そういう漠然とした複数が「ら」なのだ。
それにくらべると「たち」は自分目線だ。自分が親しいと感じている者たちが「たち」でくくれるグループなのだ。
「愛ある楽曲たちに囲まれて」といえば、松田理奈さんのまわりを「楽曲たち」が取り囲んでかろやかに踊ってでもいるようなイメージがある。もしこれが「愛する楽曲たちに囲まれて」なのだったら、「愛する」主体は松田さんだけど、「愛ある」というからには擬人化された楽曲たちが愛を心のうちに抱いている、ということだろう。松田さんは「楽曲たち」から愛されているのだ。というのが「愛ある楽曲たちにかこまれて」というフレーズが伝えたい究極のメッセージである。この雰囲気は「愛ある楽曲に囲まれて」では出せない。この「楽曲たち」は確信犯なのだ。
松田理奈さんのコンサートを担当した広告会社の社員が「華ある楽曲らにみちびかれて」などというコピーを作ったら、たとえそれが本当でも広告としては失格だっただろう。
「親近感がある」といえばきこえはいいが、別の見方をすれば甘ったれた言い方ではないだろうか。動物だろうが単なる物だろうが、すべてのものを自分に親しいものとそうでない物とに2分してその「親しい」方に安住する、親しくないものはきっぱりとこばむ、というのが「たち」から読み取れる態度だ。
などということ自体が実はやぼな話なのかもしれない。「愛ある楽曲たちに囲まれて」というフレーズには実体がなく、ただある種のムードをあらわしているだけなのだ。実際、これが具体的にどういう意味なのか説明してほしいといったら当の松田さん自身ことばにつまるのではないだろうか。
「楽曲たち」といいたい、という気持がある以上それが悪いということはできないし、またこの表現で今までになかった感覚をあらわす事ができるのもたしかだ。
でも数え方の複雑さとひきかえに「たち」の使用を人間だけに限ってきた日本語が(たぶん英語の影響のもとで)本来しなくてもいい変貌をとげていると感じるのは私だけであろうか。あなたたちはどう思いますか。
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