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72 破戒僧と尼僧
2007年6月10日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。


























破戒僧と尼僧


もうかなり前のことですが、フィレンツェのウフィツィ美術館で、上の絵の現物を見た時に、私は上の画像ではとうてい伝えきれないほどの生き生きとした情感を、この絵から感じたことを今でもよく覚えています。聖マリアが、なんでこんなに生々しく、女性的なみずみずしい魅力を持って描かれているのだろう、と感嘆したものです。聖マリアと幼子イエスは、教会絵画の中ではもっとも一般的なテーマですから、ヨーロッパの美術館や教会へ行けば、どこにでも、いわばゴロゴロあるわけですが、その中でもこの絵は、女性と子どもの情感表現と言う点で、抜きん出ていると思います。

この絵は「聖母子と天使」 (La Madonna col Bambino e angeli 95cm × 62cm 1465年頃 Fra Filippo Lippi 作)という15世紀、ルネッサンス期の名画のひとつで、作者はフィリッポ・リッピという修道士です。 Fra は、Frate (修道士)の略で、そう言えば同じフィレンツェのサン・マルコ修道院の壁画「受胎告知」を描いたのも、フラ・アンジェリコという修道士でした。ただ、この2人の修道士には、たいへんな違いがあり、一生を敬虔な修道僧としてまっとうしたアンジェリコに対して、フィリッポ・リッピの方は、けっこうな、なまぐさ修道士であったらしいのです。

そもそもフィリッポ・リッピは、自分で望んで修道院に入ったのではないようです。1406年に、フィレンツェの下町の肉屋に生まれた彼は幼くして孤児となり、修道院に拾われて育ったために、とりあえず修道僧になったわけで、本人としては、その職業には不満があったとしても、これは仕方がないことだと思います。

ともかく絵が好きで、画僧への道を歩んで、しだいに頭角をあらわしていきました。その過程では、ずいぶんと大勢の女性達と、にぎやかな交渉があったようなのですが、尼僧のルクレツィア・ブーティをモデルにしてこの絵を描いたのは、60歳近くになってからのことです。実は2人は、その10年以上前に出会い、駆け落ちして子どもをもうけていたのです。幼子イエスのモデルは、当然2人の間の子ども、フィリッピーナ・リッピと考えてよいと思います。

この子、フィリッピーナは、その後、父の弟子であったボッティチェルリの弟子となり、画家として成功して美術史にも名を残していますので、人生は面白いものですね。ということはつまり、フィリッポ・リッピは、あのボッティチェルリの師匠だったということになります。

昔、面白い資料の話を読んだことがあります。フィレンツェの国立公文書館に保存されている「夜と修道院の監察官」という古文書の中に、フィリッポに対する告発状があるというのです。当時のスキャンダル告発状です。差出人は匿名でした。

その手紙は1461年5月8日付で、「フィレンツェの町の『夜と修道院の監察官』に申し上げます。・・・僧フィリッポは、女性との間に男児をもうけています。この子は僧フィリッポの家で育ち、フィリッピーノと呼ばれています」

その当時、フィリッポはサンタ・マルゲリータ修道院の司祭の職にありましたが、さすがにおおらかなこのルネッサンスの時代でも、この告発状は問題になり、彼は司祭の職を解かれて修道院への出入りも禁止になったとあります。この手の匿名の密告をする人は、いつの時代にもいるのですね。

その後、フィリッポの絵の才能を認めていたメディチ家の当主、コジモのとりなしで、法王ピウス2世が、ふたりの還俗と結婚を許した、という後日談もありますので、ここらあたりは、まあ極めてイタリア的な裁定だったのだと思います。まあ、あのイタリア人ですからねえ! 

と、こんな背景を知ると、どうしてこの絵がこんなに、現世的で、みずみずしい情感にあふれているのか、少しわかってきませんか? 弟子のボッティチェルリの聖母像は、この師匠、リッピからの影響が強いと思います。髪飾りやコスチュームの描写は繊細さを極め、当時のファッションにしたがって、前髪を抜いて額を高く見せ、真珠の首飾りをつけています。マリアの衣装の襞や、椅子、クッションの浮き彫り的肉付け模様などは、少し前のフランドル絵画の影響も見て取れたりして、見ていてあきません。

抱いてほしいかのように母に手をさし伸べている幼子イエス。イエスを支えながら、いたずらっぽく微笑する天使。この2人の子ども像は、いずれもフィリッピーノをモデルにしているように私は思います。この絵を描いた頃、フィリッピーノはすでに8歳くらいのいたずら盛りであったはずですから。

匿名の告発状に出てきた子ども、フィリッピーノは、父とは異なり、いたって堅実な人生を歩み、画家としても名をなしたといいます。また大いに母思いで、父の死後、母のために思い出深い、サンタ・マルゲリータ修道院の真向かいに家を買ってあげ、終生大切にしたと記録にあるのだそうです。

こんなありふれた題材の1枚の絵の背景にも、本当にいろいろなことがあるものですね。どうぞもう1度、上の絵をご覧ください。駆け落ち当時、リッピは50歳前後で修道院の礼拝堂付き司祭でした。本来なら分別ざかりの年齢の彼は、娘のような年齢(23歳)の修道女ルクレツィア・ブーティを祭礼の混雑にまぎれて誘い出し、自宅に連れ去ってしまったのです。でもそれ以後は、63歳で人生を全うするまで、妻と子供を大切にして生きたといいますから、りっぱなものですよね。そんな画家の愛情があふれているから、この絵には特別な情感が作り出されているのではないでしょうか? 今回はちょっと変わった1枚についてのおしゃべりでした。

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