1989年創立 個の出会いと交流の場 研究会インフォネット
HOME 研究会インフォネットとは 会員規約 お問い合わせ
会員専用ページ
過去のINFONET REPORT カレンダー 会員連載エッセイ なんでも掲示板
会員紹介 財務報告
会員連載エッセイ
最近の記事 以前の記事
老舗の店頭から
74 私と村 (Moi et le village)
2007年6月25日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。
























私と村 (Moi et le village)


南フランス、地中海に面してニースという有名な都市がありますね。人口が30万人を越える、あの地域としては大都市です。でもコート・ダジュールの街としては、いささか大きすぎるきらいがありますので、何度かここを訪れた私は実はあまり好きではないのですが、ひとつだけ気に入った場所があります。

それは画家のマルク・シャガール (Marc Chagall 1887 - 1985) の作品を鑑賞できるシャガール美術館 (Musee Marc Chagall) です。シャガールと言えば、パリのオペラ座(Opera Garnier)の天井画、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ劇場を飾る壁画や天井画等を描いた、20世紀の世界的な画家です。この2つのオペラ劇場では、意外な場所で意外なものを見たときの驚きが、しだいに奥行きのある芸術に出会った時の感動に変わり、最後にはその芸術性に圧倒されて、建物を出るという体験を私はした記憶があります。たいへんな才能を持った画家であったことは確かです。

ニース市街のメインストリートは、ジャン・メドゥサン通り (Avenue Jean Medecin) と言います。その通りを海を背にしてマセナ広場 (Pl. Massena) とは反対の方向に進むと、国鉄の線路を越えて、ニースで最も古いスィミエ地区 (Cimiez) に入ります。お城かと見まがうような立派な邸宅が建ち並ぶこの高級住宅地の一角に、シャガール美術館はあります。画家本人の強い意向で、基本的にすべて自然光で画を鑑賞するように作られており、一見の価値があります。

もう10年近く前のことになると思いますが、この美術館で旧約聖書を題材にした17枚の連作をはじめ、この独特な世界を一人で創り上げた孤高の画家の一生を想像することができる作品群を見終わって、前庭の芝生に腰を下ろしながら、妻と私はこのロシア生まれのユダヤ人の人生を思いやった記憶があります。

シャガールが生まれ育ったのは、ポーランドと国境を接する白ロシア共和国のビテブスク (Vitebsk) という町だと記録されています。地図で見たら、モスクワのほぼ真西にあり、距離はモスクワから500Km 前後と思われます。

町には川が流れており、その川は北に向かい、やがてバルト海に注いでいます。シャガールの父親は、塩漬けニシンを運ぶ労働者で、母親は自宅で食料品や雑貨品を売って家計を支えるようなユダヤ人の一家でした。その頃のビテブスクには約4万人のユダヤ人が住み、町の人口の3分の2を占めていたといいます。

「私と村」 (Moi et le village 1911) と題する上の絵をごらんください。シャガールが主に活躍したのは、パリを中心としたフランスです。最初は1910年にパリに移り住み、ロシア革命を前後して一時故郷に戻りますが、やはり居場所を失い、まもなく完全に故郷を捨てて、フランスに帰化永住したのでした。

でもこの絵の中に、フランス的なものはまったく描かれておりません。ルーブルもエッフェル塔もセーヌ川も、ここには登場していないのです。シャガールのパリ時代の絵には、ノートルダム大聖堂やセーヌ川などのパリの姿は、ほとんど登場しません。そうしたものが彼のモチーフとなるのは、後年彼がパリを離れて南仏に移り住んでからのことなのです。それも決してユトリロのような写生的な画像としてではなく、彼の心の中の懐かしい思い出として追憶的に描かれているのです。

「私の芸術の根を養った土地はビテブスクであった。今でも私は、自分の作品を通じて私の故郷に忠実であると信じている」 「私はビテブスクのいくつかの断片が見られないような絵を一枚も描いていない」 と後年語っていたシャガールは、やはりデラシネ (deracine = 故国喪失者、根なし草) だったのではないか、と私は思います。

シャガールの母国語は、イディッシュ (Yiddish) です。イディッシュとはドイツ東部で生まれ、ヘブライ語やロシア語が混じって発達した東ヨーロッパのユダヤ人の独特な言語です。使われる文字はヘブライ語です。

シャガールの絵に度々登場する、宙を飛ぶ人、逆さまになっている人、緑色の顔などは、実はこのイディッシュの表現から来ている、という説を本で読んだときに、私は思わず膝を打ったような気になりました。なーるほど、そういうことだったのか、と。

イディッシュの表現では、家々を訪ねることを「家を飛び越える」と言い、深く感動したことを「私の身体が逆さまになった」、長い祈りの後の状態を「祈りで緑と黄色になった」と表現するというのです。

つまりシャガールは故郷の言葉、母国語で絵を描いたのです。デラシネの哀しみを、芸術性の高みにまで持っていくための手段の一つとして、彼は限られた人しか使わない母国語、イディッシュを用いたのですね。

後年世界的に名が売れてから、ビテブスク出身のロシア人がフランス駐在のソ連大使になり、彼から一緒に故郷の街を見に行きませんかと誘われた時も、シャガールは「私のビテブスクは心の中にしかありませんから」と言って訪問することを断ったといいます。

天性のデラシネなのかもしれないなあ、と私はこの画家のことを思っています。そう言えば私自身にも、どちらかというとデラシネ的な素質があることを、一番よく知っているのは私自身ですから、とりわけ共感するものがあるのかもしれません。

こんな雑知識を持って、どうですか、もう一度あらためて、マルク・シャガールの画をご覧になりませんか? 宙を飛ぶ人間や、不思議な色使いのことが、これまでとは違った感覚で理解できるかもしれませんよ。

最近の記事 ページトップへ 以前の記事
ボーダーを越えて
雨宮 和子
かくてありけり
沼田 清
葉山日記
中山 俊明
寄り道まわり道
吉田 美智枝
NEW
僕の偏見紀行
時津 寿之
老舗の店頭から
齋藤 恵
ぴくせる日記
橋場 恵梨香
縁の下のバイオリン弾き
西村 万里
やもめ日記
シーラ・ジョンソン
徒然.... in California
明子・ミーダー
きょう一日を穏やかに
永島 さくら
ガルテン〜私の庭物語
原田 美佳
バックナンバー一覧
166 京都名刹めぐり その30 梨木神社 Part 2
165 京都名刹めぐり その30 梨木神社 Part 1
164 優れた作家の感受性のすごさ
163 「アウトドア般若心経」
162 紫紺の闇 (しこんのやみ)
161 言論を奪われ、異論を排除した時、戦争は止められなくなる。
160 法の精神(8月15日に際して)
159 戦争は、防衛を名目に始まる。
158 平泉 澄(きよし)
157 アンビグラム (Ambigram)
156 白虹事件
155 山崎と大山崎 その4 (ニッカウヰスキーと大山崎山荘 後編)
154 山崎と大山崎 その3 (ニッカウヰスキーと大山崎山荘 前編)
153 山崎と大山崎 その2 (大山崎山荘の誕生)
152 山崎と大山崎 その1
151 修学院離宮 Part 2
150 修学院離宮 Part 1
149 「漢詩のリズム」
148 最澄と空海 その3 (まとめ) 両雄並び立たず
147 最澄と空海 その2 薬子の変
146 最澄と空海 その1 還学生と留学生
145 桂離宮と豊臣秀吉
144 「漱石枕流」
143 忘れられない写真
142 松方コレクションと国立西洋美術館
141 カタロニア讃歌 (Homage to Catalonia)
140 「乱」と「変」
139 パナマ運河疑獄事件
138 水晶栓 (Le bouchon de cristal)
137 シュール・リー (sur lie)
136 「斉藤」、「斎藤」、「齊藤」、「齋藤」
135 宋靄齢・宋慶齢・宋美齢
134 マカオ今昔 その4 (最終回)
133 マカオ今昔 その3
132 マカオ今昔 その2
131 マカオ今昔 その1
130 四神(しじん)
129 森 恪 (読みにくい名前を、もう1件)
128 大給 恒
127 ローマの休日 (Roman Holiday)
126 ラファエル前派
125 京都名刹めぐり その29 大覚寺
124 京都名刹めぐり その28 金戒光明寺
123 京都名刹めぐり その27 清閑寺
122 京都名刹めぐり その26 山科の毘沙門堂
121 京都名刹めぐり その25  正伝寺と圓通寺の借景
120 BYO ワインクラブ
119 「懐石料理」と「会席料理」
118 ナイト・ホークス
117 景徳鎮・有田・マイセン
116 瑠璃光院の不思議
115 葭と葦 (永源寺にて)
114 「プラハの春」、「ベルリンの秋」、「ウィーンの冬」
113 アルクイユ (Arcueil)
112 カンパリ (CAMPARI)
111 耕論 「ミシュラン、おいでやす」
110 美術展作品の輸送について
109 エトルタの針は空洞か? 
108 「無縁社会」
107 秋艸道人
106 白毫寺(びゃくごうじ)
105 2人のラ・トゥール
104 ブラジリアン・マジック
102 ジュール・シュレ美術館の盗難事件
101 シャントルイユの「空」
100 白凛居へ行って参りました。
99 イコン異聞 (日本人イコン画家 山下りん)
98 新たな気持で
97 セザンヌ、その光と陰
96 「マキシミリアン」の謎解き
95 マキシミリアン (Maximilian)
94 土佐派
93 カトリーヌ & マリー
92 真珠の 「耳飾り」 と 「首飾り」
91 ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル
90 私と絵画
89 八点鐘 (はちてんしょう)
88 五山の送り火クイズ
87 白い送り火
86 春 (La Primavera)
85 カラバッジオ (Caravaggio)
84 一度は消えた画家
83 マニュエル・ゴドイ (Manuel Godoy)
82 フリーダ・カーロ (Frida Kahlo)
81 ジョージア・オキーフ (Georgia O’Keeffe)
80 ラ・リュッシュ (La Ruche)
79 マルディ・グラ (Mardi Gras)
78 接吻 (Der Kuss)
77 ワイエス
76 ラス・メニーナス (Las Meninas)
75 オールドホーム (The Old Home)
74 私と村 (Moi et le village)
73 メデューズの筏
72 破戒僧と尼僧
71 遠近法とパオロ・ウッチェルロ
70 オシュデ (The Hoschede)
69 アプサント (L’absinthe)
68 草上の昼食 (Le dejeuner sur l’herbe)
67 オランピア (Olympia)
66 ジオットとEU
65 オルナンの埋葬
64 フェルメールの魅力
63 レカミエ夫人の肖像
62 コタン小路
61 上七軒(かみひちけん)
60 祇園のお座敷便り その1
59 サント・ヴィクトワール山 (La Montagne Sainte-Victoire)
58 ワインのホワイト・ホース、シュヴァル・ブラン
57 京都花街概論
56 ネゴーシアン (negociant)
55 オノレ・ドーミエ (Honore Daumier) のカリカチュア
54 AOC
53 世田谷美術館へ出かけませんか?
52 シャトー・ラトゥール
51 セーヌ川をはさんで
50 グランド・ジャット島の日曜日の午後
49 ムートン・ロートシルト
48 ポール・デュラン−リュエル (Paul Durand-Ruel)
47 イケーム (Yquem)
46 タリスマン (Le talisman)
45 アリスカン (Les Alyscamps)
44 月と六ペンス (The Moon and Sixpence)
43 京都名刹めぐり その24 古知谷 阿弥陀寺
42 オルセー美術館にある方が模写なのです (ガシェ医師の肖像)
41 シャトー・マルゴー (Chateau Margaux) 本編
40 シャトー・マルゴー (Chateau Margaux) 前置き編
39 パリ市民とバリケード (barricade)
38 シャトー・ペトリュス (Chateau Petrus)
37 返却されなかった名画 <アルルの寝室>
36 真夏の夜のワインの夢 in ロンドン   
35 ヴィンセント・ファン・ゴッホとオーヴェールの教会
34 Ullage (アリッジ)
33 複雑な素朴派、アンリ・ルソー
32 フランス・ワイン通史 その2
31 フランス・ワイン通史 その1
30 風の花嫁
29 カナの婚礼
28 切り分けられた名画、ショパンとジョルジュ・サンド
27 「都会の踊り」 と 「田舎の踊り」
26 京都名刹めぐり その23 高台寺
25 京都名刹めぐり その22 法然院
24 京都名刹めぐり その21 平等院(宇治)
23 京都名刹めぐり その20 東福寺
22 京都名刹めぐり その19 泉涌寺
21 京都名刹めぐり その18 智積院
20 (突然ですが・・・)ドレフュス事件とエミール・ガレ
19 京都名刹めぐり その17 六波羅蜜寺
18 京都名刹めぐり その16 実相院
17 賀茂一族
16 京都名刹めぐり その15 正伝寺
15 京都名刹めぐり その14 六道珍皇寺
14 閑話休題 「I have a reservation.」 
13 京都名刹めぐり その13 狸谷山不動院
12 京都名刹めぐり その12 安井金比羅宮
11 京都名刹めぐり その11 圓光寺 (えんこうじ)
10 京都名刹めぐり その10 金福寺 (こんぷくじ)
9 京都名刹めぐり その9 東山大文字の火床はこうなっておりました。
8 京都名刹めぐり その8 五山の送り火異聞
7 京都名刹めぐり その7 大河内山荘
6 京都名刹めぐり その6 京都五山の送り火(大文字焼き)体験記
5 京都名刹めぐり その5 上賀茂神社の斎王代
4 京都名刹めぐり その4 祇王寺
3 京都名刹めぐり その3 光悦寺
2 京都名刹めぐり その2 善峯寺
1 京都名刹めぐり その1 西山光明寺
ページトップへ
Copyright(C) FORUM INFONET, All rights reserved. Copyright(C) FORUM INFONET, All rights reserved.
掲載の記事・写真・イラスト等、全てのコンテンツの無断転載・複写を禁じます。
0 7 6 0 7 4 6 9
昨日の訪問者数0 4 4 6 3 本日の現在までの訪問者数0 2 0 0 3