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75 オールドホーム (The Old Home)
2007年7月1日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。
オールドホーム (The Old Home)


毎日の殺伐とした社会情勢を見ながら、心の元気さを保ち、または回復させる方法として、あなたはどんなことをされますか? 現在は率直に言って、ほとんど何ひとつとして心を豊かにしてくれるニュースなどない時代のように感じます。そんな中で、心のバランスを保ち、元気になるための方法のひとつは、私の場合、「美しいもの」や「美しいこと」にふれることです。

最上段の1枚の絵は、モーゼスおばあさん (Grandma Moses) と呼ばれた、アメリカ人のアンナ・マリア・ロバートソン・モーゼス (Anna Maria Robertson Moses 1860 〜 1961) が最晩年の101歳で描いた絵です。繰り返しますが、彼女が亡くなった歳、101歳の時に描いた1枚です。

1860年といいますから日本では明治維新の7年前、つまり幕末に、米国東部、ニューイングランドの農村に生まれ、やっと小学校教育を受けただけで、その頃のごく普通の農村での生活を苦労や喜びとともに淡々と続け、通常なら人生の晩年にあたる70歳になって初めて油絵を描き始め、80歳で初めての個展を開き、以来101歳で亡くなるまでに、約1600点もの作品を残したという素朴派のアーティストです。

「素朴派」といえば、私の場合まっさきに思い出すのは、税官吏ルソーの名で親しまれているフランスの画家、アンリ・ルソー (Henri Rousseau 1844 〜 1910) です。この人については、当エッセイの記事番号33番に、「複雑な素朴派、アンリ・ルソー」と題して、書かせていただきましたので、よろしければご参照ください。

20世紀になってからですが、正規の美術教育を受けていない、それゆえアカデミックな技術や理論とは無縁の、いわば素人画家達が絵画の世界に登場してきました。一般的には「素朴派」といわれる画家達のことです。

ひとつの派として呼ばれる画家達、たとえば「印象派」などは、個々の画家達が、ひとつの芸術活動に参画しているという意識を持っていたと思いますが、「素朴派」の多くの画家達は、ひとり1人がバラバラに制作活動を続けただけでなく、おそらくは芸術運動をしていることの意識など持っていなかった人が多かったのだろうと私は思っています。アンリ・ルソーは、パリ市の入市税関吏でしたし、モーゼスおばあさんは、平凡な農婦としての人生を全うしかかってから、絵筆を取り始めたのでした。

この人々の作品に共通していることのひとつは、遠近法とか明暗法とかいう絵画技術を一切無視して(多分、知らなかったと言った方が正しいのかもしれません)、 自分にとって大切な世界やモノを、心を込めて精細に、丹念に描いていることです。まさしくひとりの個人としての「こだわり」を心を込めて、ていねいに表現しているのです。

その結果として、伝統的な絵画技法を否定して新しい芸術を求めていた芸術家達の注目と共感を得ただけでなく、私のような一般の人間にも、日々の忙しさの中で忘れかけていた、美しさ、素朴さへの郷愁を思い出させてくれる「癒し」の効果をもたらしているのかもしれません。

モーゼスおばあさんが作品を描き続けたのは、ニューヨーク州北部の、バーモント州、マサチューセッツ州との州境に近い Eagle Bridge という村で、その作品にしばしば登場するフージック・フォールズ (Hoosick Falls) もすぐ近くの村です。残念ながら私が持っている程度のアメリカの地図には載っていない小さな村のようです。ニューヨーク州の州都、オルバニー (Albany) からもそう遠くないようです。

1940年、80歳の時にニューヨークの画廊で人生で初めての個展を開き、それが大きな反響を呼び、人々の心をつかんだことが、このおばあさんの晩年を大きく変えたのでした。でも、画家として全米に名が知られるようになった後も、モーゼスおばあさんは質素な生活と素朴な生き方をまったく変えず、そのこともまた多くの人々の共感を得ることにつながったのかもしれません。

上段の絵は、おばあさんが亡くなった年に書いたものです。オールドホームと題されています。いかがですか、みずみずしいと思いませんか? 中段はその村の実景写真です。荒らされていない自然と共生している村の様子が描かれていますが、そのみずみずしさと素朴さに胸を打たれてしまいます。ことに現在の日本やアメリカの政治、社会状況に辟易しているものですから、人間の心のこんな清らかさが余計にうれしく思われてしまいます。

上段の絵を描いた年、1961年、今から46年前の12月13日、クリスマスを前にして、モーゼスおばあさんは、Hoosick Falls の病院で101歳の大往生を遂げました。

「昔はもっとゆっくり時代が過ぎていたのに、今のこの時代の忙しさは私の性に合いません。それに昔は、人々は人生をもっと楽しんでいました。少なくとも私にはそう思えます。思い返してみると、私の生涯は、一生懸命働いた一日のようで、それ以上のものを望まなかったし、人生がくれたものを最大限に受け入れました。私の人生は幸福です。今になって思えば、人生というのはどうやら私達自身がつくるもので、その過程の中に幸せがあるのでしょうかね・・・」

有名になってからの様々な騒ぎについても、自分の性に合わないと感じていた彼女は、毎朝6時に起きて、自分でコーヒーを入れ、綿のドレスにセーター、エプロンを着けて、制作に取りかかり、キリのよいところで、台所に行き、自分で朝食を作る、という生活を最晩年まで続け、こんな単純な1日が大いに気に入っていたようです。

でも彼女の誕生日がニューヨーク州の祝日になってしまった有名人として、避けられないおつきあいの場では、老後に自分の生き甲斐を見出すことのすばらしさを人々に説き続けました。上のひとことも、そんな中でモーゼスおばあさんが93歳の時に、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙に懇請されて、ウォルドルフ・アストリア・ホテルで開催されたフォーラムで語った言葉です。おそらくこんなことでもなければ、自分からは決して行くことはなかった場所だったと思います、あの豪華さで有名なウォルドルフ・アストリアなどには。

カエデの紅葉が美しい風景も、モーゼスおばあさんはたくさん描いています。Hoosick Falls の山の向こうは、バーモント州の Bennington です。私は残念ながらこの地域にはまだ1度も足を踏み入れたことがありませんが、ヒッチコックの映画「ハリーの災難」の中で見たバーモントの紅葉の心を打たれるような美しさ、あの映画の中に出てきた愛すべき人々、そんなことが、モーゼスおばあさんとその作品ともダブってきて、この絵を見る度にとってもよい気分になることができます。

いつでしたか、知人に調べてもらったことがあるのですが、長寿をまっとうした著名な画家にはこんな人達がいます。高齢の順に、

グランマ・モーゼス        101歳
マルク・シャガール         97歳
表現主義のココシュカ       94歳
パブロ・ピカソ             92歳
ホアン・ミロ              90歳
フォビズムのルオー         87歳
新古典主義のアングル       86歳
クロード・モネ             86歳
アンリ・マティス            85歳
サルバドトール・ダリ         85歳
シュルリアリスムのエルンスト   85歳
エドガー・ドガ             83歳
ロココのゴヤ              81歳
エドヴァルド・ムンク          81歳
ピエール・ボナール          80歳

どうですか、こんな実例を見ると元気が出てきませんか? 美術鑑賞にはこんなオマケも付いてくるのです。こんなことも、私が美術鑑賞にはまっている理由のひとつです。下段の写真は、グランマ・モーゼスの晩年の写真ですが、いきいきとしていますねえ! 誰しも一生は1回限りです。2回目はありません。少しでも、こんな先人にあやかりたいと、私は真摯に思っています。

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