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縁の下のバイオリン弾き
55 野蛮な茶
2012年9月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 「真夜中のカウボーイ」のジョン・ヴォイト
夏目漱石の「我輩は猫である」の主人公、苦沙彌(くしゃみ)先生は中学の英語教師だ。生徒に「先生、番茶は英語でなんといいますか」と質問され、苦しまぎれに「サヴェジ、チー」(Savage tea)である、と言ったためにみんなからバカにされる、というエピソードがある。

これは今ではちょっとわからなくなってしまったシャレだ。番茶を英語にすることはできない。今アメリカではコーヒーショップに行くとSenchaを売っている。煎茶のことだ。番茶もBanchaとしか言いようがないのではあるまいか。

番茶をなぜ番茶というか。番傘、御番菜(おばんざい)などというように番には「洗練されたもの」に対する「日常的な、ごくふつうの」という意味がある、だから番茶は毎日ふつうに飲む茶だ、ということだ。

それはわかったが、ではなぜ番が「日常的」という意味になるのだろうか。漱石は「番」を「蕃」だと解釈した。番でも蕃でも同じ発音でどっちを書いてもかまわない。そして蕃は「野蛮」の「蛮」の異体字だ。蕃を使っても蛮を使っても同じ意味だ。だからがさつなもの、洗練されていないもの、という意味になる。漱石のような漢籍の素養のある人にとって、「番」は「蕃」だ、したがって「蛮」だ、と考えるのはごく自然なことだ。

くしゃみ先生は「蛮茶」だからSavage tea(野蛮な茶)だとこじつけて訳したのである。(漱石はほんとうに英語ができる人だったから、Savage teaをちゃんと発音していたにちがいない。Teaをチーと書いているのは当時まだティーという書き方がなかったからだ。)

このシャレは実は今の人にとってだけでなく、明治時代の読者にとってもちょっとわからなかったかもしれない。漱石は自分と同じ東大出の知識人を読者として想定し、その人々のために冗談を言っているのであって、そういう知識のない人のことは頭になかったのだろう。

蕃が野蛮の蛮をさす、という事にはほかにも例がある。古くは中国の宋の時代に 「諸蕃志」という本ができた。当時中国に知られていた外国の情報を集めた本だ。志は雑誌の誌と同じで、あることについて書いた、という意味。「諸蕃」は「いろいろな野蛮人」ということだ。外国はすべて野蛮という考えで、これが中華思想というものである。

徳川幕府は幕末になって西洋の知識がこれからの日本にはなくてはならないものだということにおそまきながら気がついた。そこで蕃書調所(ばんしょしらべしょ)という学校をつくった。蕃書というのはつまり洋書のことだ。当時のことだから洋書は「野蛮人の本」だったのだ。蕃書調所はその後発展して現在の東京大学になった。

日本が台湾を植民地として領有していたころ、台湾の先住民(漢民族ではない)のことを「生蕃」と呼び、その部落を「蕃社」といった。

もっとも「生蕃」ということばは日本人が来る前に中国人(漢民族)が使っていたことばだ。中国人に反抗するものを「生蕃」といい、漢化したものを「熟蕃」と呼んだ。いずれにせよ先住民を野蛮人扱いにしたことばだ。

前置きが長くなったが、これからが本題だ。実は私はケチャップについて書こうとしているのである。

ケチャップはアメリカになくてはならない調味料だ。世界中のケチャップの半分以上をアメリカ人が消費するという。アメリカ人の中にもケチャップがきらいな人はいるかもしれない。でも大部分のアメリカ人はケチャップの味に郷愁をおぼえるようだ。ちょっと日本人が醤油に寄せる気持ちに似ている。実際、なじみのない食べ物を目の前にしたらまずそれにケチャップをふりかけて食べる、というアメリカ人は少なくない。

「真夜中のカウボーイ」(1969年)というふるい映画を覚えている人はどれだけいるだろうか。その映画の中でテキサスからニューヨークに来た主人公が空腹に耐えかねてどの食堂にもただで置いてあるクラッカーにケチャップをかけて食べようとすると、ケチャップのびんのふたがはずれてズボンにしたたかケチャップをかけてしまう、という場面がある。せちがらいアメリカでケチャップはどこでもただ、というぐらいアメリカ社会に浸透している。

トマトはアメリカ原産だからアメリカ人がトマト味を愛する、というのはなんとなく筋が通っている(ような気がする。)

ケチャップをなぜケチャップというか。香港の中国人は広東語が語源だと考えている。トマトは広東語で「番茄」(ファンケイ)という。字のとおり、「野蛮なナス」つまり「西洋ナス」という意味だ。トマトの汁が「茄汁」でこれを広東語では「ケイジャップ」と発音するから、これこそがケチャップの語源だ、と主張する。

これは残念ながら事実ではないようだ。辞書を見ると中国語は中国語でも福建語が語源だとある。そのことば「鮭汁」(鮭は日本でいうサケではない)はケチャップに近い発音で、もともとの意味は魚を発酵させてつくるソース、つまりナンプラーやニョクマムのような魚醤だった、ということだ。それがマレーシア、インドネシアを経てヨーロッパに伝わっていろいろなソースがつくられた。現在でもウスターソースの中にはイワシを発酵させたアンチョビーが入っているものがある。そのうちにトマトを原料とするソースができた。これがトマト・ケチャップで、今でこそケチャップといえばトマトを連想するけれども、それまではケチャップはトマトとは関係のないものだった。これが致命傷で、「トマトの汁」を意味する「茄汁」はケチャップの語源という名誉を担いそこねた。

香港人にはおあいにくだったけど、ケチャップの語源が中国語なのはたしかなようだ。ケは「茄」ではないが、チャップの方は確実に「汁」だ。この字の日本語読みは「じゅう」だけれども、昔の書き方は「じふ」だった。そして更に大昔(奈良時代以前)の日本語ではハヒフへホはパピプペポと発音したからこれは「じぷ」だったはずだ。表記は「じふ」だけれども実際の発音は「じっぷ」や「じゃっぷ」だったかもしれない。日本語はそんな細かい所まで書き表せるようにはなっていなかった。要するに「じふ」はチャップに対応しているのである。旧かなは今では不便になってしまったけれど、中国語の原音をうまく残している。

ケチャップについてはこれで終わり。

13世紀にモンゴルのジンギス汗の子孫が中国を征服し、元王朝をたてた。このため北方の中国語はモンゴル語の影響をうけ、大変化した。今の北京語はそういう経過をたどった中国語である。そのために日本語の漢字音とはかならずしも関係があきらかではない。でも南方の中国語、広東語や福建語はその影響が少なかったので、昔の中国語の特徴をのこしている。日本人が漢字を中国から学んだのは元代よりはずっと前だったのだから、たとえば唐の時代の中国の漢字音と日本の旧かなは北京語などとはくらべものにならぬぐらい関係が深い。広東語で「汁」をジャップと読むのはそのあらわれだ。(北京語では「ジー」と読む。)

たとえば「王」という字は旧かなで「わう」と書き、「湾」は「わん」と書く。北京語では(とここで北京語を出すのはちょっと矛盾していますが)それぞれwang, wanだ。このangを「う」であらわす、という日本語の原則は徹底していてまず例外がない。たとえば「方」fang は「ほう」、「唐」tang は「とう」、「黄」huang は「こう」といった具合だ。

大昔の日本人は「王」を中国人がするようにちゃんとngの発音をしていたに違いない。しかしそれを正確に書き表すすべがなかった。Ngは鼻にぬける音で、たぶん「わうng」のように発音していたのだが、書きようがなかったために「わう」だけにとどめたのだ。それにひきかえ、「湾」のほうはnで終わっている。これは舌の先を上の歯の裏にくっつける発音で、「ん」と書くのに何の問題もなかった。これを「わう」「わん」と書き分けたのは古代日本人の耳のよさを示している。

「わう」はそのうちに「おう」と発音されるように変化した。でも旧かなは語源をしめす書き方を維持していた。

昔の中国語には語尾が p,t,k でおわることばがたくさんあった。ところが上の事情で現在の北京語ではこれが消えてしまっている。しかし、南方の中国語と日本語読みには残っていて、旧かなでは「ふ」「つ」「く」であらわされていた。たとえば「発達」は広東語ではfat datだ。古代の中国語にはこのtがあった。その語尾のtをあらわすために「つ」が使われ、「は『つ』た『つ』」になっている。「博学」は広東語ではbok hok、日本語では「は『く』が『く』」と言った具合だ。

「チョプスイ」というアメリカ中国料理がある。Chop Sueyと書く。 たぶん広東語から来たことばだと思う。アメリカの中華料理屋で出されるもので中国にはない。現物はもやしのいためものなのだがこれの語源は「雑炊」である。日本の雑炊とはちがう料理だが、字は同じだ。

「雑」はふつう「ざつ」と読まれるけれど、実はこれは慣用読みで、本来の読みは「ぞう」だった。「雑煮」は「ぞうに」、「雑炊」は「ぞうすい」、 「悪口雑言」の「雑言」は「ぞうごん」、「雑兵」は「ぞうひょう」だ。その「ぞう」の旧かなは「ざふ」だった。「ふ」は大昔は「ぷ」と読まれたから、これは「ざぷ」だったろう。広東語ではzapという。それがチョプスイのchopになったのだ。

広東語で鴨(かも)のことをngapというが、そのくずれた発音にapがある。日本語では「おう」だけれど、旧かなでは「あふ」だった。

といった具合で旧かなと古代中国音との関係はまことに深い。例をあげていけばきりがない。

ロンドンに留学していたころの漱石は本場の紅茶をどんな風に思っていたのだろうか。あれこそは正真正銘の「野蛮な茶」ではなかったろうか。
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