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僕の偏見紀行
144 韓のくに迷走記(7)恨(ハン)の五百年
2012年11月7日
時津 寿之 時津 寿之 [ときつ としゆき]

1945年、九州にて誕生。2010年4月65才で長年勤務したメーカーを定年退職。家族は息子2人が独立し、今は配偶者と二人暮し。趣味は読書、散歩、旅行。読む本は何でもジャンルを問わず、旅先も国内外を問わずどこでも、気の向くところへ。
▲ 韓屋村の食堂の中庭。左手が僕が熱々のナベを大食いした食堂。右手は別のお店、カフェだった。韓屋を改修していくつかの店にしている。
▲ パンソリを熱唱する娘と伴奏の若者。ゲストハウスになった韓屋の部屋の前の広縁が舞台。
▲ 激しく切なくパンソリを歌う。
食堂を出ると外はもう夜だった。降り続く雨の中、僕は暗い韓屋の通りをパンソリの会場へ急いだ。折角ならいい席でじっくりと鑑賞したい、そう思い道を急ぐ。ところがチケットの簡略な地図を頼りに歩くものの、一向にそれらしい場所に到着しない。次第に焦る気持ちが強くなる。どうしよう、遅れてパンソリが聴けなかったら。

僕の韓国旅は、偶然テレビでパンソリの存在を知ったことから始まった。それはある日本の女性ジャズシンガーが、仕事に加えて親の介護というストレスに疲れ果てた時、パンソリに出会って救われる、という話だった。

番組で初めてパンソリに接した僕は、言葉は理解できないものの、思いのたけを激しく訴える歌声に、感動した。なんとしても、本場でじかにパンソリを聴いてみたい、そう思った。

パンソリについて調べるうちに、「恨(ハン)の五百年」という言葉に出会った。そして長い歴史の韓国文化の母胎ともいうべきものが「恨の文化」なのだ、ということを僕は初めて知った。


{恨の五百年からは、いくつかの物語がすぐにも浮かびあがる。南北に分断された国家における離散家族の悲哀、日本の植民地支配時代における強制連行や強制労働、独裁的政治権力と儒教的家父長制という二重の抑圧構造、・・。

日本語では、うらみは「怨」と「恨」があてられ、ほぼ同じ意味に用いられるが、韓国ではその二つは区別されなければならない。すなわち「怨」というのは他人にたいして抱く感情であり、外部の何ものかについて抱く感情の塊である。これにたいして「恨」はそうではない。むしろ自分の内部に沈殿していく情の塊なのだという。怨みは熱っぽく復讐によって晴れる。だが恨は冷たく、解くことが出来ない。怨は憤怒であり、恨は悲しみだ。}

前段は「山折哲雄、日経コラム」より、後段はそこに引用された李御寧著「恨の文化論ー韓国人の心の底にあるもの」からの孫引き。


韓国の人々の心の底にある溶かすことの出来ない哀しみの塊、恨(ハン)。悔いと自責に満ちた哀しみの塊を抱き続ける庶民の心に、パンソリは歌いかける。自己犠牲を厭わぬ親子の情愛、世間の掟に引き裂かれる男女の切ない愛、様々な情の塊を抱く人々は、パンソリに自分の人生を重ねる。こうしてパンソリは、庶民の伝統芸能として、名も無い芸人達によって歌い継がれてきた。

しかし何故、言葉を理解できない僕が、一度聴いただけのパンソリに、こんなに惹かれるのだろう。ありふれた人生を、漫然と過してきた僕にも、僕なりの「恨」があるからだろう。勿論、過酷な歴史に翻弄された韓国の人々の抱えるものとは比べるべくもないが。

早朝に目覚めた時など、過ぎ去った事柄について悔恨めいた情がわくことがある。愚かなことに、僕は自分が年老いて、子や孫を持ってようやく、亡き両親の苦労に思いをいたすようになった。年老いて気弱になった両親に、もっとやさしくすればよかった、そんなことを考えると辛くなる。

暗い雨の韓屋村を探し回り、ここだと思って着いた所はレストランだった。あたりを見回したが食事中の人しかいない。仕方なく僕は、チケットを購入したボランティアの詰め所へ戻った。幸いに僕にチケットを売った少女がいた。

僕を覚えていた彼女はすぐに案内に立ってくれた。会場は僕が行ったレストランとは全く異なる方角の、入り組んだ路地奥のゲストハウスだった。

古い韓屋のゲストハウスの中庭にテントが張られ、パイプイスが並んでいる。もうかなりの人が座っている。幸いにも、正面の前から2列目が空いていた。イスに腰をおろすと、強い雨足にテントから時おりしずくが落ちた。

韓屋の暗い中庭を囲む広縁の一角に照明が当たっている。マイクが立てられ、そこが舞台のようだ。テントの周りにも人が立ち、暗い広縁にも人が座り込んでいる。ボランティアスタッフは、半ば濡れながら軒先に立っている。暗い空から落ちてくる雨粒はやむ気配が無い。

舞台に司会者が現れ、出演者を紹介する。歌い手は女性、伴奏の太鼓は男性だが、どちらも若い。司会者がパンソリについて話しているようだが理解できない。

ただ、途中で掛け声をかけて欲しい、といっているのは、なんとなく分かった。歌の節目に、客席から合いの手を入れるのがマナーらしい。その掛け声は、アイシゴー、チャング、アイシグナー等々、他にもあったが聞き取れなかった。

大きな扇子を片手に、チマ・チョゴリ姿の若い娘が舞台中央に立った。伴奏の韓服に身を固めた若者は舞台の端に太鼓を前にして座った。それから娘はほぼ1時間半、殆ど休みなく立って歌い続けた。

娘は扇子を掲げ、身をよじり、時にこの世の苦労をその身に負ったかのように、苦しげに顔をゆがめ歌う。それは叫ぶようであり、ささやき、語りかけるようだ。ある時は、身をかがめて扇子で舞台を打って嘆いた。時には何か滑稽な事をいって客席を沸かす。伴奏者は歌に合わせて太鼓を打ち、励ますように合いの手を入れる。

舞台の熱気が会場に広がり、客席が盛り上がってくる。いきなり僕の後ろから、アイシゴー!、と声がかかる。振り向くと老齢のご婦人だが、舞台をはたと見つめて聴き入っている。つられるようにあちこちから声が飛ぶ、アイシゴー!、アイシグナー!、男も女も、老いも若きも、思いのたけをぶつけるように。

僕の胸にも様々な想いが去来する。70年近く生きて、悔いることの多い、つまらぬ人生だが、僕にはそう生きるしかなかった。娘の激しい歌声が、僕を責めるようにも、慰めるようにも聞こえてくる。

念願のパンソリを堪能した僕は満ち足りた思いで会場を後にした。人通りが少なくなった韓屋村の大通りでタクシーを拾い、市内のホテルへ向かった。

ソウルの観光公社で予約したホテルは、公社指定ということだったが、新しいだけがとりえの宿だった。だだっ広い殺風景な部屋に落ち着いてまもなく、我が家から連絡が入った。現在沖縄付近の超大型台風が、そのまま北上して朝鮮半島を縦断しそうだ、というニュースだった。

急いでテレビをつけると、韓国でもそんなニュースが流れている。しかもこのまま行けば、僕が向かう予定の慶州方面を直撃しそうだ。僕はまだ慶州のホテルも決めていない。台風の中での宿探しはちょっとしんどい話だ。見知らぬ土地でホテルに缶詰も楽しくない。

念願だったパンソリも聴いたし、今回はこれで一旦帰ろう、そして出直そう、僕はそう決めた。これが気楽な一人旅のいいところだ。明朝、早いバスに乗れば仁川空港に昼前には着けるだろう。そうすれば午後の便に間に合う。

かくして、今回の旅は終わった。しかし、迷子になった水原、見損なったソウルの伝統音楽ミュージカル「美笑」、千年王国新羅の都慶州、まだまだ心残りが多い。全州の韓屋村も忘れられない。近いうちにもう一度この国を旅したい。(終わり)
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78 シルクロードの旅(1)タシュケント到着
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72 小笠原の旅(2)BONIN ISLANDS
71 小笠原の旅(1)波路はるかに
70 インド紀行(7)タージ・マハルの光と影
69 インド紀行(6)ガンジス川の夜明け
68 インド紀行(5)夜行寝台「ハウラー・カルカ・メイル・2311号」
67 インド紀行(4)ダージリン滞在
66 インド紀行(3)ダージリンへの道
65 インド紀行(2)コルカタにて
64 インド紀行(1)遠かったインド
63 暮れの浅草昼酒
62 雨の東北、芭蕉と紅葉旅
61 南会津の旅◆扮の尾瀬沼)
60 南会津の旅 弁愡浚村)
59 奥日光戦場ヶ原
58 スコットランド紀行(5)いくつかの思い出
57 スコットランド紀行(4)偉大なり、ピーター・ラビット
56 スコットランド紀行(3)ネス湖からスカイ島へ
55 スコットランド紀行(2)ウォールフラワー
54 スコットランド紀行(1)エジンバラ大学でお茶を
53 風に吹かれて八丈島(3)
52 風に吹かれて八丈島(2)
51 風に吹かれて八丈島(1)
50 イリオモテヤマネコに逢いたくて(4)
49 イリオモテヤマネコに逢いたくて(3)
48 イリオモテヤマネコに逢いたくて(2)
47 イリオモテヤマネコに逢いたくて(1)
46 秋空の下、いくつかの再会
45 白神の森の宝
44 挑戦!乗鞍岳
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42 北東北ローカル線の旅(3) 雨の下北恐山
41 北東北ローカル線の旅(2) うみねこレール
40 北東北ローカル線の旅(1) 春のうららのドリームライン
39 50年の時を超えて
38 知床の秋(2)、ウトロにて
37 知床の秋(1)、鮭遡上
36 風に吹かれて尾瀬ケ原
35 白神山地「ブナの学校」
34 初夏の山形、サクランボとそばの旅
33 ハワイ島滞在記(2)
32 ハワイ島滞在記(1)
31 春の予感、鹿沢(かざわ)高原にて
30 嗚呼!還暦大同窓会
29 年の暮れ、奥那須で想う
28 ラムネの湯「長湯温泉」はいいぞ
27 また「再会の時」道後温泉にて
26 大自然の力、姥湯温泉
25 知床の青いそら、光と風 その
24 知床の青いそら、光と風
23 春の東北ローカル線の旅
22 春の東北ローカル線の旅
21 春の東北ローカル線の旅
20 上海点描
19 やさしかったチェジュの人たち
18 さらば、災の年よ。
17 僕たちのセンチメンタルジャーニー
16 台風を避けて信州へ
15 青島印象記
14 よるべない孤独にみちた宿
13 海があまりに碧いのです
12 安曇野の光と水、そして高瀬川渓谷葛温泉
11 鞍馬山の向こうへ、大悲山峰定寺
10 雪の会津鉄道トロッコ列車の旅
9 初春初旅救急車
8 年の暮れ、峩々温泉再訪記
7 東北紅葉旅峩々温泉
6 蔦温泉、蔦沼、ブナの森
5 雨の幕川温泉再訪記
4 憧れのフルム-ン法師の湯
3 信州塩田平別所温泉
2 信州信濃路
1 東北紅葉雪見風呂
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