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78 接吻 (Der Kuss)
2007年7月24日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。






















接吻 (Der Kuss)


オーストリアの首都ウィーンに毎年のように足繁く通ったことがありました。もう何年前のことになりますか。

ウィーンは、東京などと比べたら、それはもう小さな街ですが、見るべきもの、味わうべきものはたくさんあります。どこの大都市にも街を手っ取り早く見るための、たとえば <はとバス> のようなサービスがあるものですが、ことウィーン市内に関しましては、資料さえあれば、そういうものに乗らずに、市電の環状線に乗ることをお奨めします。この環状線(環状道路に敷設されているですが)のことを、リング (Ring)と言い、まさに環状というわけです。

この道路は1857年、当時の皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世の提唱で旧市街を囲む城壁を撤去して、その跡地に約30年をかけて、強大な(当時の状況は、強大であったと言うべきだと思いますが・・・)オーストリア・ハンガリー帝国の威光を示す多くの建物が造られました。ヨーロッパ中央部を支配するハプスブルグ家の600年に及ぶ支配の最後の炎とも言うべきものでした。

リングは1周約40分ほどで回れますので、時計回りと反時計回りの両方向の市電に乗れば、道路の両側の建物がよく楽しめます。「1日チケット」を買っておけば乗り降り自由ですから、これでほとんどの主要な見所には行けます。しかも自分のペースで。

国立オペラ劇場、市立公園、ウィーン大学、市庁舎、ブルク劇場、国会、王宮、自然史博物館、美術史博物館等々、この街を代表する建物の多くがこの環状道路に面して建てられています。

上の絵「接吻」(180cm×180cm 国立オーストリア美術館蔵)を描いたグスタフ・クリムト (Gustav Klimt 1862 〜 1918)は、ちょうどこの帝国最後の繁栄を担うアーティストとして、リングに沿って建てられる建造物の天井画や装飾画を多く手がけ、若くして名声を獲得していました。

この絵もそうですが、彼の作品の多くは人間の官能を極めて大胆に描きながらも、不思議とみだらさを感じさせないと思いませんか? それは彼の描く放逸な快楽の先には、必ず強烈な終末 = 死のイメージが色濃く出ているからだ、と私は思います。放逸だけで終わっていないのです。

<接吻> の中で、恍惚の表情の女性は、つま先を花園の端にかけ、かろうじて現世に踏みとどまっているように見えます。花園が途切れる先に広がっているのは底知れぬ奈落、しかも金色の奈落です。それは帝国とウィーンの将来を象徴していたのではないかと私は思います。

当時のウィーンは華やかな衣装や舞踏会の下で、死に至る病の末期を迎えていました。帝国の各地では民族主義が噴き上がり、新興の産業国が力をつけつつある一方で、産業革命に乗り遅れた帝国の首都には貧民があふれ、社会全体として道徳の退廃が進んでいました。

面白いことに、売春がはびこり、さまざまなエロティシズムが社会に深く広く蔓延していた当時のウィーンでは、性に対する意識が明確に2つに使い分けられておりました。上流階級の間では、性が強い禁忌となっていました。女性は体の線を隠すために厚い衣装を身にまとい、パーティ・ドレスなどは他人の力を借りなければ着脱できないほどで、会話からも性を連想させる言葉はすべて追放されました。

この極端な <性の2重基準> こそが、実はあのフロイト (Sigmund Freud 1856 〜 1939) の精神分析学を生み出す原動力のひとつであったのではないか、というのは私の勝手な想像ですが、あなたはどうお感じですか?

そのフロイトが、性の衝動という人間精神の一面を明らかにして、当時の保守的な層から激しい非難を受けたように、すでに名声を得ていたクリムトも、ウィーン大学の壁画の注文に対して裸の妊婦や官能的な裸婦を描き、社会から攻撃を受けることになりました。その後、クリムトは公的な仕事を断ち、アトリエに引きこもることになりました。そして第1次世界大戦終結 = 帝国崩壊と前後して56歳で世を去りました。

一般に画家は早い、と私は思います。何が早いのかと申しますと、社会の流れをとらえ、その行き先を予言するような作品をクリエイトすることがです。音楽家は一般に画家よりも遅い、とも私は思っています。小説家は画家と並ぶくらいか、画家の方が少し早いかな、一般的には? あなたはどうお考えですか?

そう言えばクリムトは、ウィーンの貧しい彫金師の家に生まれたのだそうです。上の絵も含めて、彼の作品には金色や金箔が多く使われていますが、このことは彼の生まれ・育ちとも関係があるのかもしれません。

クリムトが活躍していた時代とほぼ重複して、同じウィーンでフロイトは革命的な精神分析の研究を行い、当時、画学生であったヒトラーはウィーンの美術学校に入るべく受験勉強中であったことを考えると、歴史の面白さを感じてしまいますね。

クリムトはこんな言葉を残しているのだそうです。「私の自画像はない。私について何かを知りたいと思うなら、私の絵をじっくりと観察して、そこに私の人となりや、私の意図を探し出して欲しい」と。

あなたは、上の一枚の絵からどんなことをお感じですか? 天才クリムトの人となりや意図をどんなふうにお考えですか? 1枚の絵からこんなことを考えることができるから、やっぱり私は美術史が大好きなのです。


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