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縁の下のバイオリン弾き
57 シャーロック・ホームズとカレー
2012年10月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 「ストランド・マガジン」のさし絵。シドニー・パジェット画。1893年。
シャーロック・ホームズの人気はあいかわらず高い。ロバート・ダウニー・ジュニアの映画は若い人たちに人気があるようだ。いつまでも霧のロンドン、インバネスにディア・ストーカー帽でもあるまいということで若々しいホームズのイメージをつくりあげた戦略はみごとというほかはないけれど、私にはなじめない。私はがんこにその濃霧やガス灯を見たいと思い続けているので、アクション・ヒーローとなったホームズにはとまどってしまう。

特に問題だと思うのはホームズがジェントルマンとして描かれていない、ということだ。女性に対して礼儀正しくふるまう、という意味でもホームズはジェントルマンだけれど、私がここで問題にしているのはその意味のジェントルマンではなく、階級としてのジェントルマンだ。19世紀のイギリスは階級社会だからホームズのようにオックスフォードかケンブリッジかのどちらかの大学を出ている者は(どちらかを出ていることは確実なのだがどちらかということになると論争に決着がついていない)それだけで「身分がある」ということになる。父親は地方の地主だったようだし、兄のマイクロフトは外務省の重鎮だ。

原作で「ホームズ」「ワトソン」とよびあっているのは友達だからだけど、たとえばスコットランドヤードの警部たちに対してホームズはけっこう尊大だ。警部のレストレードを「レストレード」と呼び捨てにしている。レストレードのほうも「ホームズ」というのだったら、これは対等の関係だ。でも警部はいつも「ミスター・ホームズ」と呼んでいる。日本語訳では「ホームズさん」となっている。

以前「刑事コロンボ」というテレビのシリーズがあった。主人公のコロンボ警部はいつも「警部」と呼ばれていて、一度もファーストネームで呼ばれたことがない。主演のピーター・フォークが「コロンボのファーストネームは『警部』です」と冗談をいっていたぐらいだ。

あれは現代のアメリカの話だったが警察官に対してはその職責で呼ぶのが礼儀というものだろう。その点はイギリスでも同じだと思いたい。「警部」と呼ばず、「レストレード」と呼び捨てにしているのはホームズのほうが「階級が上」だからだ。だから「ホームズさん」なのだ。

ホームズの活躍が世に知られるようになったのは1881年にワトソン博士が彼に始めて会ってからだ。明治になってやっと13年、という頃だ。

ホームズとレストレードの関係は私立探偵と警視庁の警部というより、徳川時代の奉行所の与力と岡っ引きを思わせる。「ホームズさん」というよりあれは「ホームズのだんな」というニュアンスなのではないだろうか。もちろんそんな訳をつけるわけにはいかないことはわかっているけれど。

そのような古い社会制度がいいと思っているわけではない。けれどホームズ物語をホームズ物語にしているのはそういう背景であって、それをなくしてしまってはホームズの魅力は半減する。ホームズは葉巻の灰や自転車のタイヤなど、今となってはほとんど役に立たない捜査のてがかりの研究をしているけれど、それは当時においてはそれなりの意味があったのだ。

そのホームズ物語の中に「海軍条約文書事件」というのがある。ワトソンのもと同級生で今は外務省の若手官僚になっているパーシー・フェルプスが上司であり伯父でもあるホールドハースト卿から条約文のコピーを命ぜられる(なんてところが19世紀ですね。コピーをとるのに手で書かなければならなかった)。ところがフェルプスがちょっと部屋をはずしたすきに何者かによって条約文書が盗まれてしまう。この条約が敵国政府の手にわたれば英国は非常に困難な立場に立たされる。名誉も職も失いそうになったフェルプスはショックのあまり自宅で寝たきりになる。彼の要請に答えてホームズが出馬するわけだ。

この事件は文中にワトソンが結婚してまもなく起こった、と書いてある。1880年代の後半である。

ホームズは事件を解決するのだがすぐにはフェルプスに答えを教えない。ベイカー・ストリート221Bのホームズの下宿にワトソンとともに一晩泊まったフェルプスは朝起きてきてもげっそり憔悴している。ホームズのほうは一晩中家をあけていて、帰ってくるなり朝食のテーブルにつく。

下宿の主婦ハドソン夫人手作りの三通りの料理が出てくる。保温のためにいずれも丸い金属製のおおいがかけてある。ホームズが開けたのはチキンのカレー料理、ワトソンが開けたのはハム・アンド・エッグズ。「どちらにしますか」というホームズの問いにフェルプスは「なにも食べたくないんです」と答える。「おやおや、じゃ、そのもう一つの皿をとってくれませんか」とホームズがいうので、フェルプスはしかたなく残った皿のおおいをとる。そのとたん、かれは「きゃっ」とさけび、部屋の中をおどりまわり、あげくは失神しそうになってしまう。皿の上には盗まれた条約文書がおいてあったのだ。

ホームズの芝居気がよくあらわれた場面だが、私に興味があるのはその時出てきた「チキンのカレー料理」だ。Curried chickenと書いてあるから、カレーライスではなく、チキンをカレーソースで煮たものだと思う。

カレーが英国の食事に現れるのはインドが英国の植民地だったからだ。インドを統治していた官僚や軍人が持ち帰ったものだろう。インドでは料理のつどスパイスを調合するけれど、英国人にはそんなめんどうなことはできなかった。18世紀の終わりには、もうカレー粉が売られていたという。

したがってハドソン夫人が作ったカレー料理は本格的なインド料理ではなく、市販のカレー粉を使ったものだっただろう。英国の家庭料理としてのカレーだ。日本人がカレーライスをつくるもととなったカレーだ。

ホームズはハドソン夫人の料理を「レパートリーの点では今ひとつ」と評している。つまりいつも同じような料理を作っているということで、朝食にこんな料理を出してくるぐらいだからハドソン夫人はカレーをよく作っていたにちがいない。

ワトソンは軍医としてアフガニスタンに行っていたから本場のカレーの味はよく知っていただろう。ハドソン夫人の作るカレー料理をどう思っていただろうか、というのが私の興味を引くところだ。「ちょっとちがうんだがなあ」と感じていたのではないだろうか。

それが19世紀の英国のカレーだ。しかしカレーはその後100年を経て、まったく別の形で英国の「国民食」になった。

2011年10月28日づけの朝日新聞に「求む英国カレー調理師 移民規制で不足し国民食ピンチ」という記事がのった。私はこれを大学で教材として使ったからよくおぼえている。カレーは英国で大人気の料理なのに移民法の改正でインドやパキスタンからカレーのコックを呼ぶことがむずかしくなった、そのためにカレー調理師の深刻な不足がおこっている、という記事だった。

2001年に当時のロビン・クック外相が「チキン・ティッカ・マサラは英国の真の国民食だ」と演説した。チキン・ティッカ・マサラというのは英国に移住したインド人やパキスタン人のコックたちが作りあげた「あまりからくない」カレーだ。それをだれもが好むようになったのだ。

クック外相はこの演説の中で多民族が融合している現在の英国を高く評価し、「チキン・ティッカ・マサラが真の国民食だという意味は単にそれが最も人気があるから、ということにとどまるものではありません。英国が外からの影響を受け入れ、それに適応できるということを最もよくあらわしているからです」と言っている。古き良き英国を懐かしむ人々にむかって、実は英国の歴史は常に新しい力を外から取り入れるということで維持されてきたのだ、と説いた。

これでわかるように現在の英国のカレー調理師はほとんどがインド・パキスタンから来た人々だ。日本でもカレーは「国民食」といっていいだろう。例外はあるものの日本のカレーの作り手はおおむね日本人だ。レストランでも食べるけれど、家庭でもしょっちゅうカレーを作る。作る人間が日本人なのだから家庭でもレストランでも味はあまり変わらない。しかし英国では「国民食」といいながら、それを作るのはネイティブの英国人ではないのだ。

英国はインド、パキスタン・バングラデッシュ(昔はインドの一部だった)、ビルマなどなどを植民地として領有していたせいで、第二次世界大戦後これらの国が独立してから数多くの移民をその地域から受け入れた。これら移民が故国の料理を売り物にするレストランを開いたのが「国民食カレー」のもとだ。つまり、英国のカレーはもはや家庭料理ではなく、レストランに行って食べるものなのである。

要するにそれは帝国主義の遺産なのだ。あれだけの大帝国をきずいた英国に残ったものはカレーだけ、と考えるとちょっとおかしくもあり、かわいそうでもある。

でもそれを他人事と見過ごせないのは日本ではむかしからカレーはインド料理ではなく、「洋食」の代名詞だったからで、その縁で日本と英国はつながっている。第二次世界大戦中に「敵性語」(英語のこと)を使わないという風潮があって、軍隊ではカレーのことを「辛味入汁掛飯」(からみいりしるかけめし)と呼んだそうだ。そんなこっけいなことをするぐらいならカレーを出すのをきれいさっぱりやめてしまえばよさそうなものなのに、それができなかったのは「洋食」にあこがれを持つ兵士たちの期待を裏切ることができなかったからだろうと思う。その「洋食」の中身をただしてみればハドソン夫人が作ったような「カレー粉」を使った料理だった。インド人からみれば、あるいはワトソンのような「インド帰り」からみればいかにもインチキな料理だったが、日本人があこがれの「洋食」のむこうに見ていたのは「大英帝国」で、インドではなかった。

ハドソン夫人がつくっていたような英国の家庭料理としてのカレーはどうなってしまったのだろうか。もうその伝統は消えてしまったのだろうか。

インドやパキスタンの調理師がいなければカレーができない、という英国はシャーロック・ホームズの英国ではない。そういえばロバート・ダウニー・ジュニアの映画にはどうやらチキン・ティッカ・マサラのにおいがただよっているようである。
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