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縁の下のバイオリン弾き
60 爪紅(つまべに)
2012年11月13日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 歌磨
▲ 抱一
▲ モンドリアンに想を得た洋服
香港にいたころ、機会があれば中国劇を見た。いわゆる京劇、つまり北京語でうたわれる劇はなかなか見られなかったが、広東劇(粤劇=えつげきという)は割とお祭りなどで見ることができた。

京劇は背景を使わない。すべて観客の想像力にまかせるので、日本の能と同じような一種の高級感がある。それにくらべて粤劇はすべてに泥臭く、どぎつい背景を使うし、音楽も洗練されていない(ような気がした)。いうまでもないことだが香港人は粤劇を愛していた。熱烈に愛していたといっていい。

中国の劇は歌劇である。俳優が歌い手だという点は西洋のオペラと同じだ。歌舞伎好きの人が声色を使うように、芝居の歌をひとくさりうたえるファンはいくらもいた。

当時の香港はそれだけで独立したコミュニティだったから、歌劇団のメンバーはたいてい香港で生まれ育った人々だった。主役を演ずる男女は若い人が多かった。豪華な衣装を着けて舞台にあらわれ、立ち回りや愁嘆場(しゅうたんば)を演じた。頭のてっぺんから出すような声をはりあげて歌をうたう。私はそれを楽しんだけれど、ひとつだけ気にくわないことがあった。女優がマニキュアをしているのだ。

女優と言っても普段は若い女性で流行を追う生活をしているのだからむりもない。爪をのばして赤く塗っている。

でもそんな手をして出てきて漢だの唐だの大昔の女性を演じるというのが私には納得できなかった。昔の人間がマニキュアなんかしているはずはないじゃないか。

香港在留中、ずっとそう思っていたのだけれど、後になって唐代には宮廷で女性がホウセンカの花をもみしだいて爪に赤い汁をぬりつける風習があったことを知った。つまり昔の中国女性はマニキュアをしていたのだ。だからといって香港歌劇の女優が今ふうの毒々しいマニキュアをしていることが許されるとは思わないが、ともかくマニキュアというものが西洋だけのものではないことを知っておどろいた。

ところがさらにおどろいたことには日本にもこの風習があったのだ。「爪紅」(つまべに)という。

なぜそんなにおどろいたかというと、古来の日本女性の化粧やアクセサリーは世界の大勢にくらべて一種独特なものがあるとずっと思ってきたからだ。

近代以前の日本の女性はネックレスをつけない。指輪をつけない。イヤリングをしない。これは実に不思議なことだ。指輪のない文化がほかにあっただろうか。

西洋との比較だけでこういっているのではない。これらの装飾品は中国にはすべてあった。女性が力を持っていない社会で、なにか資産になるものといったら金や宝石でできたこれら装飾品しかなかった。万一のためにこれらを身につけておくことは単なる装飾ではなく、一種の投資だった。香港で重い金のイヤリングの為にピアスの穴が大きくなって耳がちぎれそうになっているおばあさんをよく見かけたものだ。

そういう考え方は日本にあったのだろうか。日本の昔の女性の装飾品といえばすべて髪飾りだった。簪(かんざし)、櫛(くし)、笄(こうがい)だ。べっこう(亀の甲羅=こうら)なんかでできている物はぜいたく品だったには違いないが、中国・西洋のものとくらべてはるかにつましいような気がする。第一どうして髪飾りしか身につけなかったのか、それがわからない。

なぜ私がこんなことを知っているかというと妻のリンダが彫金家だからだ。今はもうやっていないが、彼女は長い間金銀のアクセサリー作りを仕事にしていた。あるときサンディエゴ州立大学でクラスをとった。すると課題としてなにかアクセサリーを作るように教授に言われた。リンダは日本の装飾品をテーマにして作品を作りたいといい、私にその関係の本を図書館で探してほしいと頼んだ。まだインターネットなんかなかった時代のことだ。

それで私は生まれてはじめて日本女性の装飾品のことを学んだのだ。

かんざしは「髪挿し」ということでヘアピン。日本の昔のくしは単に髪をすくだけではなく、常に髪にさしておくものだった。こうがいは二つの部分からなり、一方がさやのようになっていて、その中にもう一方の部分のピンが入っている。私はそれまでこうがいなんて名前を知っているだけで実物を見たこともなければその構造も知らなかった。

形状、材質ともいろいろなものがある。かんざしはヘアピンとしてだけでなく耳かきとしても使われた。ピンの反対側が耳かきになっている。これが発達して大型のかんざしにおおきな耳かきをつけたものをさすことがはやった。浮世絵をみるとわかるが、遊女などは耳かき付きの大かんざしを何本もさしている。もちろんこの耳かきは実用にはならない。あまりに巨大なので「鬼の国の耳かきじゃねえか」などと悪口を言われた。

お上(かみ)が「ぜいたくは厳禁」というので、「いえ、これはかざりではありません、耳かきです」といいのがれるために耳かきをつけたのが始まりだそうだ。

私は版画で見なれていたものが耳かきだと知っておどろいた。耳かきは西洋にないようだ。現在でも耳の掃除は綿棒を使うぐらいで西洋人は耳かきの快感を知らないらしい。

かんざしも日本髪にゆったとき、かゆいところをかくのに必要なものだった。髪型をくずさずにかけるからだ。

同じ目的で西欧では「孫の手」を使った。あれは18世紀にものすごく丈の高い髪型が流行した時に、かゆい頭をかくのに使われたのだそうだ。当時の女性は孫の手を腰からさげていたという。

洋の東西を問わず、髪型にこりすぎるとそういうものが必要になるのでしょうね。

それにしても日本の女性の簡素さはおどろくべきものだと思う。中国では結婚式に花嫁はそれこそ京劇にでてくるような派手な髪飾りをつける。着物は赤いものに金糸の刺繍(ししゅう)をつける。金持ちの家だと金で地の赤がほとんど見えなくなってしまうことがある。

なぜ赤と金かというとそれが中国人のもっとも好む色だからだ。おめでたいときにはかならずその色を使う。中華人民共和国の国旗が五星紅旗なのは偶然ではない。5つの星は黄色いけれど、彼らの心の中ではあれは金なのだ。

中国の派手さにくらべると日本の花嫁衣装は顔もみえない「つのかくし」だ。綿帽子(わたぼうし)だなんていって顔そのものをかくしてしまうものをかぶることもあった。着物だって白無垢(しろむく)か、刺繍があるものでも節度がたもたれている。

何年か前に東京国立博物館で「大琳派展」というのを見た。「琳派」というのは尾形光琳をはじめとする日本画の流派だ。大がかりな豪華な展覧会だった。その中でもっとも私の記憶に残ったものは酒井抱一(さかいほういつ、1761―1829)だったかが直接筆をふるって模様を描いた女の着物だった。絹の着物をキャンバスにして風景が描いてある。考えようによってはこれにまさるぜいたくはない。その着物は洗い張りもできないだろう。つまり、だれかが着たことがあるとしてもただの一度きりだったろう。

ピエト・モンドリアン(1872―1944)というオランダの画家がいる。格子模様の抽象画を描いた。その意匠が洋服にとりいれられて20世紀後半におおいにはやったことがあった。それを考えたデザイナーは頭がよかったと思う。でも画家が直接洋服にデザインし、それだけが世界でただ一着の服であったならその高級感はいかばかりだろう。抱一のデザインした着物はまさにそれだった。

金糸の刺繍で地の赤が見えなくなってしまうという花嫁衣装は大変な金をつぎこんではじめてできるぜいたくだ。でもそういうぜいたくはこういっては何だがありきたりのぜいたくだ。

当代一の人気画家に模様を描いてもらうという発想こそがそんじょそこらにころがっているぜいたくとはケタのちがうぜいたくなのだ。「しろがねもこがねもたまもなにせむに まされるたから子にしかめやも」(金銀も宝石もなにほどのことがあろうか 子にまさる宝はない)と歌ったのは山上憶良(やまのうえのおくら)であるが、世の中にはほんとうに「しろがねもこがねもたまも」かなわない価値というものがあるのだ。

酒井抱一は大名の次男坊かなんかで一生を風雅の道にささげた。俳句をつくり、絵を描いた。その絵は純粋に日本的なものだ。「日本的」ということは装飾的だ、ということで抱一の絵をみると思想なんかなんにもない。ただただきれいな絵だ。だから着物の柄にぴったりなのだ。

日本の女性が指輪やイヤリングをしなかったのは金にあかせたぜいたくをきらったからだろうか。それとも着物や帯(それから帯じめなんかも)にぜいを尽くしているから、それで十分だと思っていたのだろうか。

16世紀にポルトガル人やスペイン人によってキリスト教がもたらされ、いわゆる南蛮風俗が流行した。そのころには信者でなくとも首から十字架をかけたものだ。指輪もはやった。しかしキリシタン厳禁になってその風俗もすたれた。キリシタンと見られまいという心遣いは髪飾りだけに集中する古来の日本女性の傾向をさらに強めたかもしれない。

爪紅はたぶんほんのりと赤くする程度だっただろう。私はそれを見たことはないが、西洋のマニキュアよりもずっと奥ゆかしい、洗練された化粧法なのではないかとひそかに考えている。


(注) 中国人が好む色は赤と金だと書きましたが、その反対に嫌われる色は白と青です。白は日本でも西洋でも純潔をあらわしますが、中国では葬式の色なんです。むかし香港で日本のたばこ専売公社がハイライトを売ろうとしたことがありましたが、あの白と青のパッケージのために全然売れなかったそうです。アメリカ人の旦那さんにきれいだからと髪に白い花をさされ、縁起でもないとむくれていた中国女性を知っています。中華民国(台湾)の国旗は「青天白日旗」(せいてんはくじつき)といい、青空に輝く太陽をあらわしています。デザインも名前も悪くないと思うのですが、白と青の配色がわざわいして中国人には気に入らず、それを片隅におしこめて周りを赤で囲むことになってしまいました。
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