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115 しあわせな1日
2007年10月18日
雨宮 和子 雨宮 和子 [あめみや かずこ]

1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。
▲ 太平洋の彼方に日は沈む。ニックはこの風景を眺めに、毎日崖の上まで出かけて行く。
今年の夏は異常に蒸し暑かった。日中は日射しが強くて犬たちが歩くのには大変なので、私は太陽が傾いてから犬たちを散歩に連れて行った。それが半ば癖になって、大分涼しくなってからも、犬の散歩は夕方になることが多い。ニックの「家」の脇を通って潟沿いに歩くこともあるが、彼は留守のことが多い。帰り道に、反対方向から歩いて来るニックとばったり出会うこともある。彼は毎日ビーチの上の崖へ行って、太陽が水平線の向こうに沈むのを見て来るのだという。

ニックは高速道路の下にある木製コンテナに住んでいるホームレスだ。(ニックについては、2004年12月27日に掲載した「34 番外編:クリスマス・ディナー」↓で紹介しました。 )
http://www.kenkyu-kai.info/cgi-bin/forum/essay/detail.php?num=80&name=amemiya
 
出会うと私たちは少々立ち話をする。その間、犬たちは私たちの足元でおとなしくしている。
 
ニックと話をするようになって3年ちょっとになるが、その間、高速道路の拡張工事が続いて、高速道路の下は大きな機材や建設資材でいっぱいになった。それでもニックの「家」は数メートル移されただけで、建設会社は彼を立ち退かせることはしなかった。工事が終わったいま、高速道路の下はすっかり片付けられ、ニックの「家」だけがポツンと残っている。

この3年間に変化があったのは、ニックの「家」の周辺だけではない。ニック自身も変わった。彼の状況が良くなったわけではない。勤務していたという海軍からはどうも免職になったらしく、年金のようなものは一切ないというから、収入がないのは変わっていない。前歯も相変わらずない。でも、娘に助けてもらうのを待っているということは一切言わなくなった。何もしてくれない国に対する不満も言わなくなった。毎日図書館に通うのは変わらなかったが、読んだ雑誌の記事に触発されて物を書くようになった。そのいくつかを私に見せてくれたが、どれもいたって抽象的で、いったい何を言わんとしているのかよくわからないのだけれど、彼が誰かに助けてもらうのをただ待ち続けるのは止めたのはわかる。彼の心の中はかなり平穏になってきたのが感じられ、彼の顔にはなんとなく悟りが開けたような雰囲気さえ漂うようになってきた。

9月末のある日の夕方、犬の散歩の帰り道に、夕日が沈むのを見て帰る途中のニックと出会った。なんだか暗い顔をしている。「どうしたの?」と聞くと、その日はちょっといやなことがあったのだと言い、「世の中にはチッポケな権利を振り回す人間がいるもんだよ」と付け加えた。それ以上詳しいことは言いたがらない。以前、高速道路の周辺の土地管理責任者が彼に嫌がらせを言うのだと話してくれたことがあるから、またその男にいやなことを言われたのかもしれない。
「とにかくトラブルはご免だ」とニックは言い、「あんたの方は大丈夫かい?」と私に聞いた。いつも彼は私にそう聞く。
「ありがとう、無事にやっているわ」と私もいつものように答えた。彼と比べると、私はあまりにも恵まれた境遇にいる。それを強調するようなことはできるだけ避けたい。その日はあまり話したくなさそうなニックに、私は「またね」と言って家に向かって歩き出した。

その2日後にまた夕方ニックと出くわした。その日は私の方が少々落ち込んでいた。親しくしているメキシコ人女性から深刻な家族問題の相談を受け、どうにもしてあげられなくて気分が沈んでいたのだ。ところがニックは私の顔を見るなり、「きょうはしあわせな気分でいっぱいだ!」と叫んだ。そして、うれしさが言葉となって口から溢れ出るように彼は話し始めた。

不動産会社のオフィスで働く身体障害者の友だち、図書館で彼に親切にしてくれる司書のキャロリンさんという人、15年間も飼っていた犬が死んでしまって悲しいと彼に話してくれた全く見知らぬ人。そういう人たちのことをニックは次から次へと語った。誰かに話すのが待ちきれなかったのかもしれない。そして、「きょうはね、ちょっとお金があったから、買い物をしたんだ。もちろんたいした額じゃないよ」と言い、うれしそうにクスクス笑いながら、「最近、文章より絵を描いているから、クレヨンのセットを89セントで買ったんだ。それからマジックペンも65セントで」と付け足した。

1ドル以下の買い物で、こんなに楽しい気分になれるのか…と、私は感心しながらニックの言葉に耳を傾けた。

「それから図書館でね、紙をじっと見つめていたらね、自然と手が動く感じで、紙の上にアザラシの顔が浮かんできたんだ。どうしてアザラシの顔が描けたのかわからん。まるで神様が手を動かしてくれたみたいだった」
あまりに上出来だと思ったので、身体障害者の友だちにその絵をプレゼントしたら、その友だちはとても喜んでくれたという。そう話すニックは本当にうれしそうで、目は輝いていた。

そうだったのか。ニックが喜んでいるのは、買い物ができたからではなかったのだ。自分が専念していることがうまくできた。それを分かち合える人がいる。友だちや図書館司書や全く見知らぬ人とすら心が通って、自分はひとりぼっちじゃないと確認できた。そういうことが連鎖反応を起こして、彼の心をしあわせ気分でいっぱいにしたのだろう。

「おかしいね、いま悪いことがいっぱい起こっているのに、こんなにしあわせな気持ちになるなんて」と言って、ニックは申し訳なさそうな顔をした。
「悪いことって?」
「きょうのニューヨークタイムズで読んだんだけど、南部の小さな町でアフリカ系の若者たちが不当に扱われていることだよ」
「あぁ、『ジーナの6人』*のことね」
「うん。それにイスラエルがシリアを爆撃している」
「本当に、中近東に平和はなかなか来そうもないわね」
「ほかにも憤慨させられることがいっぱいだ。『ナショナル・ジオグラフィック』を読んでいても腹が立ったよ。アフリカの黒人や動物を見下したような記事を載せて、すぐその次のページには宇宙のことかなんか、まるで無関係のことを隣り合わせているんだ。無神経なんてもんじゃない。命あるものに対する侮辱だよ」

ニックの言葉に頷きながらも、私は内心驚いていた。なんという変貌だろう。3年前の彼は、私がアメリカの侵略戦争に反対だと言ったら、「何の戦争のこと?」と聞いたくらい、自分が直面している問題以外のことに関心を持つ余裕など全くなかったのだ。が、いまは世の中の動きに関心を持っているだけでなく、自分以外の人々(それが他の人種であれ、他国人であれ)が受けている不正義に怒っている。彼のしっかりした判断力と正義感に私は心を打たれた。

「いいこともあり、悪いこともある。これも神様が作った人間社会、っていうことかな」と、ニックは照れくさそうに言うと、ふと、私の顔を見て、「あんたの方は大丈夫かい?」と聞いた。大丈夫よ、といつもと同じ返事をしようと思ったのだが、心を開いてくれるニックは私の友だちだ、本当のことを言おう、という気になった。
「実はね、きょうは知ってる人のことが気になっていて、沈んでいたの」と、知り合いのメキシコ人のことを話した。

ふんふんと聞いていたニックは、「友だちは大事にしなくちゃな」と独り言のように言った。「あんたはわたしの友だちだ。あんたには哀しい思いをさせたくないな」と言って手を差し出した。その手を私はしっかりと握った。
「そうだ、いつか、あんたにもなにか描いてあげようか? うまく描けたら、の話だけど」そう言って、ニックは 身体を揺すって笑った。
「本当? おかげできょうは私にもとってもいい日になったわ」
私の心の底からそういう言葉が飛び出した。ニックはまた屈託なく笑いながら、犬たちの頭をなでた。

ニックのおかげでしあわせ気分でいっぱいになった私は、家に向かって足早になった。ニックのことを連れ合いに話すのが待ちきれなかったのだ。


[註]*「ジーナの6人」(Jena Six):
昨年、アメリカ南部ルイジアナ州のジーナ(Jena)という小さな町で、白人と黒人の高校生同士の間で暴行事件が起きた。問題はその後始末で、黒人生徒だけが殺人未遂という不当に厳しい罪状で留置され続け、司法制度の中では黒人差別が依然として存続していることが暴露された。それに対する抗議集会にアメリカ各地から主としてアフリカ系指導者や若者たちが集まり、メディアでも大きく取り上げられたのだ。事件の内容については以下のサイト↓をごらんください。
http://100voices.wordpress.com/2007/09/15/jena-six/
http://mucsf.exblog.jp/6199880/
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