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縁の下のバイオリン弾き
61 琴棋書画(きんきしょが)
2012年12月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 古琴(上が表、下が裏)
妻のリンダと一緒に日本に2週間滞在した。私は大学で教えていたときには秋に日本に帰れなかった。ようやく自由になって、リンダに日本の紅葉を見せてやりたいと思った。私自身、40年も秋の日本にはごぶさただったのだ。

東京、横浜、広島、姫路、神戸、京都と6都市をまわった。JRの「レール・パス」といってそれさえあれば一週間の間日本国中どこにでも何度でも行けるパスを買っておいたのでこのように広い範囲を歩き回ることができたのだ。このパスは外国人と海外移住者しか買うことができない。日本に住んでいる方にはお気の毒だが、われわれには実に役に立った。

秋の京都は掛け値なしにすばらしかった。旅のポスターには「このお寺のもみじが一番」みたいなことが書いてあるが、あまた訪れたどの寺院の紅葉も美しかった。新聞には「10年に一度」の紅葉だと書いてあった。我々はほんとうにラッキーだった。

銀閣寺では庭を観賞するだけでなく、東求堂(とうぐどう)という建物の中に入った。案内の女性がその部屋々々の意義を解説してくれた。与謝蕪村(よさぶそん、1716-1784)と池大雅(いけのたいが、1723-1776)のふすま絵があった。

「この部屋のふすま絵は池大雅の手になるものです。琴棋書画といって中国の文人はお琴、碁、書、それに絵ができなければならないのですが、この部屋の四面にそれぞれをテーマにした絵が描いてあります。お琴はちょっとわかりづらいかもしれませんね。どの絵がお琴だかおわかりでしょうか」という。私はすぐにわかったから指さすと「おや、早いですね」と驚かれた。

私がすぐにわかったのは中国の琴を知っていたからだ。その絵は中国の文人が布でつつんだ琴を抱いて歩いている図で、中国の絵にはよくでてくるテーマだ。彼女は解説しなかったが中国の琴(きん)は日本の琴(こと)とは全然ちがう。

といっても何のことだかわからないかもしれないが、琴という楽器は中国独特のものでほかの国にはない。日本でお琴(こと)と言っている楽器は実は琴(きん)ではない。お琴でひく曲を箏曲(そうきょく)というが、あの箏(そう)という字が正しい名称だ。箏は共鳴箱の上に琴柱(ことじ)を置いて弦を張る。韓国を代表する楽器、伽耶琴(カヤグム)も箏で琴ではない。

中国の琴は日本に入ってきたのだが、早くにすたれた。すたれたのも無理はないと思う。その楽器はちょっと湾曲した2メートルぐらいの一枚の板でできていてそれに弦が張ってある。裏側に木をくりぬいた穴がふたつあるが、お琴のような共鳴箱がついていない。共鳴箱がついていないということは音がほとんど聞こえないということで、さらに問題なのはお琴でいう琴柱(ことじ)つまりブリッジがない、ということだ。

ブリッジというのは緊張を与えるために弦を下から支えるものだ。バイオリンを考えてみればわかるがブリッジがないと弦はたるんでしまって鮮烈な音を出すことができなくなる。

これを要するに、中国の琴はほとんど楽器と言えるかどうかもわからないほど音が小さい。だから現在琴を演奏する場合にはアンプリファイアーを用いて音を電気的に大きくして演奏する。そうでないと演奏者のすぐそばにいる者にしか音が聞こえないのだ。

ところがこの原始的な楽器が中国では最高の楽器として尊ばれた。そもそもこれは他人に聞かせるものではない。演奏者自身に聞こえればそれでよいという楽器だ。その音はブリッジがないために低く、そのため奥が深い印象を与える。

弾く時には楽器をひざの上にのせて演奏する。演奏者は爪を長くのばしてそれで弦をはじく。とてもむずかしい楽器でマスターするのは容易ではないとされている。

日本のお琴のような大きな楽器を持って歩き回ることはできないが、中国の琴はずっと小さいから文人たちはこれを布に包んで好きな所に出かけ、花や紅葉や月を愛でながら琴を弾いた。これができないと文人としては失格だ。つまり、中国の知識人は字がうまく、絵が描けて、碁に強く、音楽がひけなければならない。文章と詩は本業であるからできて当然でそんなことは言うまでもないことだ。

考えただけでもむずかしい。

この琴棋書画というのは私の理想だが理想のつねでとても到達できそうにない。バイオリンは中国語で提琴(ていきん)という。提という字は「ひっさげる」と読む。つまりどこにでも持っていける琴、という意味で、字面(じづら)の上だけ一応琴の仲間とされている。だから私は琴を弾くと言えるのだ。また私は絵を描く。うまくはないが文人は絵が描ければいいので、うまいへたは関係ない。でも書と碁ということになるともうまったくだめだ。お習字は苦手だったし、碁とか将棋とか緻密な精神力が必要なものには全然才能がない。

中国人の学者の家を訪れるとよく琴が壁にかけてある。弾けるかどうかはともかく、一応琴を持っていますよ、とみえを張っているのだ。

日本で文人というと粗飯淡茶(そはんたんちゃ)、つまり貧しい食事に出がらしのお茶というイメージがあるが、中国ではそんなことはない。中国の文人としてもっとも有名な蘇軾(そしょく)という人がいる。日本ではあざな(別名)の蘇東坡として知られている。この人は宋の時代の政治家だったが、皇帝にうとまれて海南島に流された。現在海南島は中国のなかでも最も将来に見込みがあるリゾートだが、その当時は日本の鬼界が島のような辺境だった。しかし彼はそんなことにとんちゃくなく、詩や文章を書き続けた。その蘇東坡が好んで食べたのが東坡肉、つまり豚の角煮だ。これはベーコンにする三枚肉をこってりと煮込んだものであぶらっこいことでは無類の料理だ。こんなものを食べて元気いっぱい、書に画に存分に才能を発揮した。こういうのが中国の文人なのだ。

日本には音楽ができなければ一人前ではないという観念はないだろう。むしろ音楽なんてものは芸人のやることで知識人からは軽んじられていたのではないだろうか。それは確かに笛の奥義を授けたり授けられたり、ということが貴族や武士の間にあったけれど、それは特殊な場合で、お琴や琵琶や三味線が教養のうちだという考えはなかったと思う。

中国ではそうではない。孔子は音楽を重んじた。孔子がそうなのだから後世の知識人はいやでも音楽に素養を積まなければならなかった。音楽は人格を高めるのに必要不可欠なものだと考えられていた。しかしだからこそ、音楽は自分のためにやることで、人の前で演奏するなどということははじめから勘定に入っていなかった。自分だけにしか聞こえない琴が尊ばれたゆえんである。

現在でも中国には琴を弾く人がいる。バイオリンやピアノなども琴という字を使うから、区別するために古琴(こきん)といっている。その古琴の曲の中でも有名なのが「陽関三畳」(ようかんさんじょう)だ。これは唐の詩人王維(おう・い、701〜761)が作った送別の詩を琴を伴奏として歌うものだ。

王維の原詩は「送元二使安西」(元二の安西に使いするを送る)という長い題名だ。友人の元二が唐の首都長安(今の西安)から遥か遠くの安西(現在のウイグル自治区にある)という所まで公用で行かなければならないのを、渭城(いじょう)という町まで見送った王維が作った詩で送別詩として古来もっとも有名なものだ。

渭城朝雨浥輕塵   渭城の朝雨軽塵(けいじん)をうるおす
客舎青青柳色新   客舎青青(かくしゃせいせい)柳色あらたなり
勸君更盡一杯酒   君にすすむさらにつくせ一杯の酒
西出陽關無故人   西のかた陽関をいずれば故人なからん

「渭城の朝の雨がほこりをしずめている。旅館の柳はそのためにいっそう青い色があざやかだ。さあ君、もう一杯酒を飲んでくれ。西のはずれの陽関という関所を出てしまえばもう知っている人はいないのだから」というのが大意だ。故人は日本では「死んだ人」だが、中国では「友人」という意味だ。

これを歌う時には最後の「西のかた陽関をいずれば故人なからん」を三度歌うのがきまりだった。それで「陽関三畳」という。三畳は「三べん歌う」ということ。

中国では詩の主題として最も重要なのは男の友情だった。この詩はその典型的なものだ。それに比べれば恋の歌なんぞほとんどない。あっても正統な「詩」ではなく、小唄に類する「詞」や、もっと俗な歌謡にしかなかった。

日本では和歌の主題として「恋」が最も尊ばれる。恋の歌がなければ日本の文学は成立しない。「しのぶれど 色に出にけり 我が恋は ものや思ふと人の問ふまで」などと、ひたすら隠したい恋まで歌にしている。

中国と日本の文学はこれほど違う。「恋」が人間にとって大切なのは言うまでもない。これは世界どの国をとっても同じだろう。でもそれを正直に言葉にあらわすか、かっこうをつけてだまっているかの違いだ。中国は男性的な原理が社会の隅々まで支配した国だった。孔子が「女子と小人は養いがたし」(女とだめな人間はどうしようもない)と言い切った国だ。

日本で中国の琴がはやらなかったのも当然だと思う。文人の観念からして大違いなのだ。「男の友情」なんぞ恋の前にはかすんでしまう。琴を弾くひまがあったら三味線で「三千世界のからすを殺し、主(ぬし)と朝寝がしてみたい」(世界中のうるさいからすを殺してあなたと心ゆくまで朝寝がしてみたい)という高杉晋作の都々逸(どどいつ)を歌うほうがはるかに性に合っている。

池大雅は日本の文人画を完成させた人だ。文人画というのは中国の圧倒的な影響のもとに描かれた。だから「琴棋書画」などという中国的なテーマを選んだのだろう。日本の秋を象徴する紅葉の中、ふすまに描かれたその絵に私はかすかな違和感をおぼえた。



古琴の演奏はこちら。

http://www.youtube.com/watch?v=B8F0G4QEQYg


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