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縁の下のバイオリン弾き
62 Xのこと
2012年12月15日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ ドン・キホーテ(ギュスターヴ・ドレの原画による)
中国の新しい最高指導者は習近平という。日本ではこの名前に「シージンピン」とふりがなをふるから、読み方にこまることはない。また実際には「しゅうきんぺい」という日本語読みにしていることのほうが多いようだ。 

アメリカなど英語国ではこれをXi Jinpingと書く。書きたくてそうしているのではない。中国が自分たちでつくりあげたローマ字をぜひ使ってくれというからやむなくそうしているだけだ。本音をいえば、あんな読めないローマ字はまっぴらだといいたいところだろう。

Xiと書いて「シー」と読む。Qiと書いて「チー」と読む。中国語を習った事がない人に読めるはずがない。こんなつづりは英語にないからこれを使ってくれというのがどだい無理な注文だ。「クシー」とか「キー」とか読む人が跡を絶たない。

「シー」「チー」ならShi, Chiと書けばいいではないかという声が出そうだが、
Shi, Chiは中国語独特の舌をまいて発音する別の音の為にとってあるから使うわけにはいかないのだ。それで無理でもなんでもXi, Qiで押し通しているのである。

Qiのほうは知らないが、Xiを「シー」と読むことはしかしまったく根拠のないことではない。英語にこんな書き方はないけれど、ポルトガル語にはxiというつづりがある。そして発音は「シ」だ。多分中国人はこの辺からかれらのローマ字の発想を得たのだろう。

***

16世紀に南蛮人(ポルトガル人、スペイン人)が日本にやってきた。その中心となったイエズス会(カトリックの布教団体)はローマ字で日本語の本を出版した。そのローマ字はポルトガル語に基礎を置いた書き方だ。たとえば「うるし」をvruxiと書いた(昔はuとvは同じ字だった)。うるしは日本の特産だったから翻訳できず、ポルトガル語で書いた著作の中でもそのままローマ字を使っている。

その書き方では「さしすせそ」は「sa,xi,su,xe,so」になる。

英語読みをもとにしたいわゆるヘボン式(19世紀にできた)では「sa,shi,su,se,so」だ。どうして日本語として自然な「sa,si,su,se,so」にしないかというとsiと書いた場合の発音は英語のseeのような音になりがちで、日本語の実際とはかけはなれてしまう、という欠点があったからだ。Shiと書けばsheとの連想でまだしも「し」に近い音が得られる。

ローマ字というのはもともとはその国の人の為に作られるものだから、その国の人が書き方を決めていいはずのものである。だからこそ、中国のローマ字は他国人が読めそうもないようなつづりに固執する。

日本人も日本人が作ったローマ字方式を使っていっこうにかまわないはずだ。しかし実際には日本人はローマ字を使う事が少ないし、その目的は外国人に便利なように日本語の読み方を提示する、という使い方が多い。電車の駅名のローマ字がいい例だ。コンピューターの入力にローマ字を使うケースもあるけれど。

こまった事には日本人が作ったローマ字体系にはいろいろ種類があって混乱している。中国語と同じように外国人の助けにならない場合も多い。だから現在でもヘボン式は力をもっている。

もっとも「shi」と書いたら「し」と読め、というのはあくまで英語からの立場で、「shi」というつづりそのものに「し」という音の音韻的な根拠があるわけではない。そう考えれば中国語の「xi」も英語の「shi」も勝手な思いつきにすぎない。ちなみに中国でのローマ字つづりを認めない台湾ではxiの音を「hsi」と書く。どっちもどっちですね。

***

話をもとにもどして、16世紀のポルトガル人は日本語の「しゃ、し」の音をxa,xi と書いた。たとえばお釈迦様 のことをXaca(シャカ)と書いている。ただ、「せ」の音がxeと書かれるのは少しおかしい。Xeなら「しぇ」になるのではないかと思われるが、ひょっとしたらこれはイエズス会が布教をはじめた九州の方言が影響しているのではないかと思う。九州では「先生」を「しぇんしぇい」と発音するから。

昔のスペイン語にもこのxa,xiがあって、読み方はやはり「シャ、シ」だった。それなのにスペイン語ではその後発音が変化した。Xは「さしすせそ」をあらわす字から「はひふへほ」をあらわす字になった。現在ではxiと書いてあれば「ひ」と読む。そう読むのだけれども、実はスペイン本国のスペイン語ではもうxという字そのものをあまり使わなくなった。19世紀のはじめに「はひふへほ」の音はすべてjであらわす、と決めたのだ。

メキシコという国がありますね。あの国名はMexicoで、もともとはその国のある部族の名前だった。そして読み方は「メシコ」だった。その後スペイン語の発音が変化したため、現在では「メヒコ」と呼ばれている。「メキシコ」というのは英語読みだ。

メキシコではMexicoという書き方が今でも使われているのに、スペインではれっきとした独立国であり国名の書き方が定まっているメキシコという他国の国名をMejico(メヒコ)と書く。自分のところで使わないからxが気に食わないのだろう。めちゃくちゃな話だ。そう思いませんか。それはたとえば中国で「本」という字が使われなくなったために、あの国では日本のことを「日元」と書く、というようなものだ。メキシコがよくがまんしていると思う。

***

私とリンダが2008年にはじめてスペインを訪れた時は最初にバルセロナに行った。バルセロナは地中海に面した都市で、カタルーニャ自治州の首都である。カタルーニャは昔は英語風にカタロニアと書かれることが多かった。スペイン内戦を扱ったジョージ・オーウェルの「カタロニア讃歌」という本がある。現在では経済のどん底にあるスペインに嫌気(いやけ)がさして独立したいという気分が強まっている土地だ。

スペインはもともといくつかの国々に分かれていたのを統一してなった国でいまでも地方によってそれぞれ独立した文化を持っている。カタルーニャは文化だけでなく言葉もスペインとははっきり違う独特のことばを持っている。「カタラン」という。どこでもスペイン語に並んでカタランの表示がある。

私はスペイン語はかじったことがあるが、カタランはもちろん全然わからない。レストランに入るとレジのところにcaixaと書いてある。これはたぶんスペイン語のカハ caja、つまり「レジ」にあたる言葉だろう。なんて読むんだ、ときいたら「カイシャ」という答えだった。つまりxa を「シャ」と読んでいるのだ。

私は内心こおどりしましたね。カタランはスペイン語よりも昔のおもかげをたもっているのだ。

なぜそんなことに興奮したかというとこういうわけだ。私たちはバルセロナから北部のビルバオ市まで行った。ビルバオはバスク自治州の都市である。バスクというのはカタルーニャよりももっとスペインばなれしている土地で、かれらの使うバスク語はスペイン語はもとより、どんなヨーロッパ語にも似ていない。ほかに似ている言葉がないという点で日本語に似ている。また学ぶのがむずかしいという点でも日本語に似ている。神様が悪魔をこらしめるためにバスク語の学習を命じたら、さすがの悪魔も三日で音(ね)をあげ、涙を流してあやまった、という小話があるぐらいだ。たぶんヨーロッパ語よりもずっと古い言葉なのだろうと考えられている。独立運動も昔からほかの地方に増して盛んだった。

私は以前からバスクにあこがれを持っていた。サンディエゴの名づけ親セバスチャン・ビスカイーノがバスク人だと思っていたし(どうもちがうらしい)、日本にキリスト教をもたらした聖フランシスコ・ザビエル(イエズス会の創設者のひとり)がバスク人だったからである。彼らの生まれた土地を見てみたいという思いだけで、観光客がこぞって行く南部に向かわず北に行った。

そのザビエルという名前だが、Xavierと書く。これをザビエルと読むのは英語読みが影響しているのだと思う。英語では「ゼイヴィアー」と読む。でも昔のスペイン語では「シャビエル」だったはずだ。そのはずなんだけど、当然の事ながら今のスペイン人がxaを「シャ」と発音するのを聞いた事がない。メキシコ人だってそんな発音はしない。彼らが読めばそれは「ハ」だ。それでバルセロナで「カイシャ」という発音を聞いて、うん、xaはシャなんだ、シャビエルだったはずなんだ、とひとりで力んだ、というわけなのだ。

その名前は現在のスペイン語ではJavierと書かれる。ハビエルと発音する。この名前のスペイン人はたくさんいる。「ノーカントリー」でアカデミー賞をとったスペインの俳優、ハビエル・バルデムはそのひとりだ。

***

スペインから帰ってしばらくたったある日、ラジオを何気なく聞いていたら、当時サンディエゴで上演されていたジュール・マスネのフランス・オペラ「ドン・キホーテ」の出演者がインタビュー番組に出ていた。私はオペラは苦手で興味がないのだが、この公演には知人が衣装担当として加わっていたので聞いてみるつもりになった。

「ドン・キホーテ」はスペインが誇るセルバンテスの小説で、17世紀初頭に書かれた。風車に突進して空高く投げ上げられる彼の話は子供でも知っている。いや、知っている、と思っていた。ところがある日私の日本語のクラスで「ドン・キホーテを知っているか」と聞いたら、日本に行ったことのある学生が「お店の名前でしょう」と言ったのにはくさった。もっとも私だって全巻読んだことはない。知っているのはさわりだけだ。

そのドン・キホーテはDon Quixoteと書く。これが原題で、そのため英語でもそう書くし、発音も「ドン・キホーテ」だ。ところが本国のスペインではメキシコの国名を勝手に変更したように、Don Quijoteと書き変えている(発音は同じ)。 セルバンテスが聞いたらなげくのではないかと思う。

マスネのオペラはもちろんフランス語で歌われる。そのインタビューではちょっとアリアが流された。そのなかで「ドン・キショット」と歌っているから私はびっくりした。

サンディエゴでは英語の“Don Quixote” という題名で興行したが、調べてみるとフランス語の原題は“Don Quichotte”つまり「ドン・キショット」なのだった。なるほど、セルバンテスが書いたころのxoは「ホ」の音ではなく「ショ」だった。すなわちセルバンテスがつけた題名は「ドン・キショーテ」だったのだ。私は度肝(どぎも)をぬかれた。その時まで「ドン・キホーテ」という発音が原題ではない、とは思いもかけなかったからだ。

あの小説はヨーロッパ中でベストセラーになった。各国語に訳された。フランス語の題名はその当時のスペイン語の発音をうけついでいる。スペイン本国で発音がかわり、xが「シャ、シュ、ショ」の音をあらわさなくなっても外国ではそんなことにおかまいなく昔の発音を維持しているのだ。

調べてみたらヨーロッパ各国で「キショーテ」の発音を守っているのであった。ポルトガルではつづりはDom Quixoteで発音は「キショーテ」だし、オランダではDon Quichot (キショット)、イタリアではDon Chisciotte(キショッテ)というぐあいだ。

***

もうすぐクリスマスだ。Christmasは「キリストのミサ」という意味だ。クリスマスをXmasと書く事がある。「キリスト」をギリシャ語で書くとChristのChがXになるのでそれで「キリスト」を全部書かず、Xに代表させているのだという。

考えてみるとアルファベットの中でこれだけたくさんの違った読み方がある文字はほかにあるまい。その実像はまさにX(=?)だ。
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