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縁の下のバイオリン弾き
63 パイについて
2013年1月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
高校一年生のとき一年だけ私は横浜で下宿をしていた。父親がたまに名古屋から上京してくると外に食事につれていってくれた。あるとき銀座のドイツ料理屋に連れて行かれた。そこで何を食べたかは忘れてしまったが、料理のサンプルが並べてあるガラスケースの中に実に不思議なものがあった。それはたぶん高かったからなのだろう、注文しなかったのだけれど、そのせいでいっそう印象が深く、忘れられない物になった。

大型の陶器のビールジョッキの上にパンが乗っている、というのが適切な描写だろう。料理の名前はたしか「若鶏の壷煮」とか「壷焼」とかいうのだった。しかしどこにどう鶏が入っているのかわからないし、なによりなぜ容器の上にパンが乗っているのかわからなかった。どうやって食べるものなんだろうと思い悩んだものだ。ほかに思い悩むことはなかったのかと問われたら赤面するほかないけれど。

先ごろ日本に帰った時に妻と銀座を歩いてその店を探したが、見つからなかった。50年たっても執念深くあれを食べてみたいと思っていたのである。


私がアメリカに来たとき、それまで知らなかった物にいろいろぶつかった。その中に「TVディナー」というものがあった。これはファーストフード店が普及するのと同じころにアメリカで家庭に浸透したもので、オーブンにいれて30分から40分ぐらい温めればそれで夕食ができる、という冷凍食品だ。いくつかに区分けされたアルミの容器に肉、野菜、ポテトか米、デザートが入っている。うまい物ではないが、料理をする時間がないとか、料理をするのがいやだという時には便利なもので、テレビを見ながら食べられる、ということから「TVディナー」という名前がついた。テレビの前でTVディナーを食べるための専用の小さな簡易テーブルまで売られていた。

現在ではTVディナーといってもみんな電子レンジ対応になってしまったけれど、そしてそのために料理の上に張ったプラスチック・シールに穴をあけたり一部をはがしたりすることが必要になったけれど、私がためしたころは電子レンジなんかまだ存在せず、オーブンだけが食品の解凍に活躍していた。そしてTVディナーの名前に恥じず、何の手もかけずオーブンに放り込むだけ、という料理だった。そのことを頭にいれて以下をお読みください。

TVディナーのなかでも一番安い物にチキン・ポット・パイというのがある。ビーフ・ポット・パイというのもあるけれど、チキンのほうが人気があると思う。

これはチキンシチューがパイ皮に包まれているもので、オーブンで温めるとパイ皮が黄金色に色づき、食欲をそそる。食べる時にはフォークでパイ皮を突きくずして食べる。最初私はこの料理に感銘を受けた。単にシチューを供するだけでなく、パイ皮に包んであるというのがいい。パイにしてあるというだけで、格が一段階上のような気がしていた。

けれど、何度も食べるうちにこの考えはちょっとおかしいのではないかと気がついた。この料理よりも格が下がるはずの「チキンシチュー」というメニューがTVディナーにはないことに気がついたからである。比べる相手がないのに「一段階上」と勝手にきめているのはひとりですもうをとっているようなものだ。

むしろ、これはパイにせざるを得ないやむを得ない事情があってそうなっているのではないかと思った。消費者のことを考えてけっこうなものを作っているのではなく、会社側の都合でパイにしているのだ。

その都合というのは「オーブンではシチューを解凍することはできない」という事情だ。

その事を解明するためにはまずスープのことから話をはじめなければならない。スープはTVディナーのメニューにない。なぜかというとスープをオーブンに入れると熱しているうちに水分が蒸発してしまってひからびたスープになってしまうからだ。現在電子オーブンが使えるようになってもスープのインスタント料理は缶詰が主流だ。スープがアメリカの家庭に浸透したのはアンディ・ウォーホルの絵で有名なキャンベルという会社が濃縮スープの缶詰を売り出してからということになっている。これは同量の水かミルクを加えて鍋で煮る。

オーブンでスープを作ることは不可能ではないが、水分を蒸発させないための重いふたのついた陶器が必要だ。そんなものがなくてもレンジで鍋を使えば簡単にスープはできる。

オーブンというのはその昔野外でたき火をして料理をしていたのを家の中に取り込んだものだ、と理解すると話が早い。日本でもいろりというものがあってそれは家の中で火を使うためにできたものだ。

いろりはわれわれ都会人から見るとたいへんロマンチックだけれど、実際は不便なものだ。煙がまっすぐ上に立ちのぼってくれている間はいいけれど、いったん風向きが変わるとまわりの人間は煙にまかれてゴホゴホとせきこむ。顔だってまっくろになってしまう。

ヨーロッパではいろりのように平面に炉を切る事をせず、暖炉を作った。暖炉があれば煙突で煙を外に出す事ができる。昔の暖炉はたいへん大きな物で暖房用でもあり、料理用でもあった。いろりと同じように上から鍋をかけて料理をした。

暖炉で料理をするといろりのように下から火で熱するだけではなく、壁があるからその反射で四方八方からの熱で料理ができる。これがオーブンの起源だ。オーブンは「四方八方から熱する」というのが基本概念だ。

オーブンがないとパンができない。だから西洋料理ではオーブンは絶対に必要なものだったわけだが、しかしあれはパン専用ではない。火があるからにはどんな料理にもその火を利用するのが当然で、だからオーブンはすべての料理に使われた。ところがその中にただ一つオーブンではできない料理がスープだった。暖炉だったらスープを作るのは簡単だ。いろりでみそ汁をつくるようなものだ。しかし、いったん密閉式のオーブンというものができてそれがスタンダードになるとスープだけはオーブンには向かないことが明らかになった。スープはレンジで煮なければならない。

シチューもスープと同じで、オーブンでは作るのがやっかいだ。TVディナーとなればなおさらで、簡便をむねとするTVディナーに重いふたのある容器を使うわけにはいかない。そこでパイ皮でつつんだチキン・ポット・パイができた。これが「会社の都合」だ。

チキン・パイとかビーフ・パイとか言えばすむことなのになぜポット・パイというのだろう。私が考えるにこれはポット・ローストという料理と関係がある。

ローストといえばオーブンで焼いた肉のことだ。ポット・ローストはそうではなく、固い肉を鍋で長時間煮たものをいう。だから「ポット・ロースト=鍋焼き」というわけだ。ローストとはいうものの、実態はシチューなのである。

それをパイ皮で包んだからポット・パイというのだろう。「ミートパイ」というと汁気のない肉をパイ皮で包んだものになる。

パイというと日本ではデザートのパイを考える人が多いと思う。たとえばアップル・パイ。アップル・パイこそはアメリカを代表するパイで、「アップル・パイのようにアメリカ的な」という形容句があるぐらいだ。

でもお菓子のパイはパイ本来の姿ではないと思う。

その事を考えるにはアメリカ、ひいてはヨーロッパの「残り物文化」を考えなければならない。オーブンを使う料理は一度に大量の食べ物を作るのが特徴だ。どうせ火をおこして料理を作るのであればできるだけたくさんの食べ物をいっぺんに作るほうが合理的だ。

日本ではなによりも鮮度が尊ばれるから残り物がでるような料理をそもそも作らない。再生料理というと天丼かカツ丼ぐらいのものだろう。中国では中華鍋を使うから家庭では一定量以上の食べ物を作る事はできなかった。オーブンがなかったわけではない。たとえば北京ダックのようなものはオーブンがないとできない。でもそれは家庭で作るものではなく、専門店に行かないと食べられなかった。

オーブン文化では必ず残り物が出る。またそれをかんじょうにいれて料理をするのである。七面鳥のような大きな鳥をオーブンで焼くと全部一度に食べきることはできないから、次の週は来る日も来る日もターキーサンドイッチを食べる、という事になる。

その時に活躍するのがパイだ。器に七面鳥と野菜を刻んだものをいれ、ホワイト・ソースをかけてそれをパイ皮でおおう。オーブンに入れる。パイ皮が黄金色に焼けた頃合いを見計らって取り出し、ターキー・パイとして食卓に出す。そのパイ皮をくずしながら中のシチューを楽しむ、というわけだ。

これがパイ本来の姿だと思う。つまりパイというのは残り物の肉をおいしく食べるための工夫なのだ。

イギリスにシェパード・パイというものがある。アメリカでもイギリス流のパブなどではメニューにのっている。これはひき肉のシチューの上にマッシュポテトをのせてオーブンで焼くものだ。シェパードは「ひつじ飼い」という意味で、田舎のひつじ飼いにはパイ皮なんか手が出ないから芋をつぶした物をかわりに使うだろう、という勝手な想像による命名だ。シェパード・パイというのは要するに「山家焼」(やまがやき)ということなのだ。

マッシュポテトをのせただけのものでも「パイ」と名づける。それはパイというものが残り物を食べきるためには欠かせないものだったせいだ。

アップル・パイのような果物をいれたデザート・パイはそういう「残り物文化」の系譜の中に必然的に生まれた物だと思う。果物が大量にとれた時にそれを生で食べられるだけ食べたあと、ジャムやジュースにし、パイにして食べる、という事を考えるのは自然なことだった。

昔食べそこなった「若鶏の壷焼」のパンは今から考えてみるとパンではなく、パイ皮だったのだろう。鶏のシチューをジョッキにいれてその上をパイ皮でおおう。それをオーブンにいれて焼くとパイ皮はふくらんであたかもパンであるかのような形になり、その下ではシチューが煮上がっている、という寸法だ。 今なら納得できるそのような料理も1960年代の日本の少年には神秘そのものだった。

実は先日はじめてチキン・ポット・パイを自作した。アメリカに来たばかりの頃、知人がターキーを使ってパイを作ってくれたのを思い出しながら作った。リンダの助けもあって、結果は成功だった。彼女はベジタリアンなのでマッシュルーム・パイを作った。 簡単な料理だからうまくできないほうがおかしいようなものだが、私はあのドイツ料理を懐かしく思い出していた。
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