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コンテンツ(6) |
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2004年3月31日 |
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 | 中山 俊明 [なかやま としあき]
1946年4月23日生まれ。東京・大田区で育つが中2のとき、福岡県へ転校。70年春、九州大学を卒業後、共同通信に写真部員として入社。89年秋、異業種交流会「研究会インフォネット」を仲間とともに創設、世話人となる。91年春、共同通信を退社、株式会社インフォネットを設立。神奈川県・葉山町在住。 |
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コンテンツを直訳すれば「内容物」だ。缶コーヒーのコンテンツは「コーヒー」、デパートやスーパーのコンテンツは「陳列された商品」、本のコンテンツは「印刷された活字や画像」。では人間のコンテンツとは。「脳」だろうか。「性格」だろうか。それとも「顔やスタイル」だろうか。「コンテンツ」の話を人間に喩えてみれば話はシンプルになるのだが、どんな存在であっても中核をなすコンテンツおよびそれに関連付随するすべてのものが大事だ、ということだろう。どれが欠けてもいけない。
商品も人間と同じで、「コンテンツ」がいくらすぐれていても、それだけで売れる商品になるわけではない。僕は1日にいちどは缶コーヒーを飲むが、これ紙パックだったらたぶん飲まない。コインを入れる。自動販売機からコローンと出てくる。プルトップをプシュッと鳴らし、クイと飲む。飲み終わった缶をゴミ箱にカラーンと放り込む。いわばこの一連の行為を愛するがゆえに缶コーヒーを飲む。もっとも大事なのはブランドでもコーヒーの味でもなく、あのプルトッププシュッではないかと思うのだ。
とはいえ、味がまずければそのブランドには2度と手を出さないし、缶のデザインもやはりその気にさせるものとさせないものがある。自動販売機のお釣り計算機能がもしバカで、お釣りが正確に出てこないとしたら、少なくとも販売機では買おうとしないだろうし、販売機というものが存在しなければ、わざわざコンビニの店内まで行って人間の手から買ってまで飲もうとはしないだろう。
コンテンツは内容そのものの良さもさることながら、それをふさわしい容器にパッケージし、ふさわしい手段で移動・流通させ、ふさわしい方法でお客の目に触れさせ手にとらせ、そしてここが肝心なのだが、そのコンテンツに価値を認めたお客から確実に「お代」をいただいて初めて「商品」になる。商品も人間と同じでどれが欠けてもいけない総合力で成り立っている、といってよい。
新聞という商品をかたくるしく分析していくと以下のようになる。僕のいいかげんな定義づけなので、専門家からは異論がでるかもしれないが、ざっと羅列すると、
1)世の中で起きるできごとを、一定の知識、経験、技能、センス、手段・道具等をもった取材者(記者やカメラマン)がこれら情報を文字や画像に置き換えて可視化したものを 2)一定の知識、経験、センス、技能、手段・道具等をもった編集者が編集・校閲・デザインして客観性、正確性、閲覧性を高め、 3)上記を一定の知識、経験、センス、技能、手段・道具等をもって紙に印刷し、 4)一定の手段をもって、流通させ 5)求める読者に手渡し、その代価を得る商品を
「新聞」という、ことになろうか。
今回の「記事見出しに著作権なし」判決は、2)の編集作業の一部「閲覧性を高める作業」を「著作権なし」と判断した。
判決は
「(見出しというのは=中山注)記事で記載された事実を抜きだして記述したものと解すべきであり,(この見出しを被告のデジタルアライアンスが引用した見出しは=同)著作権法10条2項所定の「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」(著作権法10条2項)に該当するものと認められる。」
とし、記事そのものには著作権が発生するとしても、その記事に書かれた文字を抜き出しただけの「見出し」には著作権はない、と断定したのだ。研究会インフォネットのアメリカ在住会員によれば「米国では本のタイトルには著作権は発生しない」とある。つまり、著作権概念も万国一律ではない。
判決というのは一種の合意、決め事であるから、裁判官が「こうです。そいうものとして理解してください」といえば、それは法律に具体的な書き込みがなくても、判例は法律と同等の拘束力を帯びる。私見をいえば「記事見出しには著作権がある、とは言い切れないものの、まったく創造性がないとも言いきれないのでは…」ということにはなるのだが、この判決に不満があるわけではない。それはそれで許容限度内の妥当な判断だと思う(これは僕が元マスコミ人で、その世界に愛着を持っているせいかもしれないが)。
それよりも、「争いごと」というのはすべて「結果として、争点になったことが原因でだれが得をしたのか」という視点でみることが必要だと思う。文春出版差し止め事件で原告の田中真紀子さんのお嬢さんは果たして「トク」をしたのか。この思考法で考えていくと、デジタルアライアンス社は「読売記事見出しを『タダ』で使うことによって、果たしてトクをしたのか」の方が僕には関心がある。訴えられたデ社がトクをせず、訴えた読売がソンをしていなければ、ではこの提訴の意味はいったいどこにあるのか、ということになってしまうだろう。
原告の読売の提訴理由のなかに次のような文言がある。文中YOLとあるのは「ヨミウリオンライン」の略称。
「被告は,自己の営業のために継続的にYOL見出しを複製し,公衆送信しているが,このようなYOL見出しにただ乗り(フリーライド)する行為は,インターネットにおける原告の営業に極めて多大な損失を与えるものであり,今後も被告による継続的な複製行為等が行われると,原告の損害額は巨額なものとなり,被告の支払能力を遥かに超えるものとなることは明らかである。したがって,被告の前記不法行為に対しては,単に損害賠償のみをもってしては,原告の営業の侵害に対する法的救済としては不十分であり,その救済手段として事前の差止請求が認められるべきである。」
気になるのは「ただ乗り(フリーライド)」という言葉だ。この言葉の背景には「デ社は、われわれの記事をコピーペースト(複製行為)するだけで、利益を得ている。それに比して、コンテンツホルダーたる読売サイドは、巨額の損害が発生している」という意味が込められている、と思われる。
コンテンツビジネスに関心をもつひとであれば「読売は損害どころか、多大な利益を得ている」と思うであろう、というのが僕の考えだがどうだろう。理由は、前号で書いたとおり、「読売サイトは出来るだけ多くの読者が閲覧することによって間接利益を得ることを目的として運営されるものであり、デ社は不特定読者を読売記事の閲覧へ誘導することに多大な貢献をしている」と思われるからだ。そもそも、読売が目の敵にするその事業「ライントピックス」自体からはほとんど収益が発生していないと考えられる。
デ社のウェブサイトの現状サービスと広告料金表をみて僕なりに分析してみたのだが、「ライントピックス」の営業収入はたぶん月数万円レベルだろう。20代の社長を含め若者4人の小さな会社には弁護士費用もばかにならないだろう。さらに被害甚大なのはむしろ「風評被害」だろう。「大メディアにさからう危険かつ過激な会社」「ただ乗りで儲けるベンチャー」というという無形のウワサのほうが営業活動に与える影響は大きいのではないか。被告となった裁判をかかえた会社には大手広告クライアントもつきにくい。
この裁判は、著作権問題というより、インターネット時代に新しい事業を起こそうとするベンチャーたちを萎縮させてしまう要素の方が大きい、と僕は危惧している。読売さん、控訴はしないほうがいいと思いますよ。 (続く)
※前々号でデジタルアライアンス社の資本金を300万円と書きましたが、その後の調べで600万円ということが分かりましたので、ここで訂正します。
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