|
|
|
45 |
|
 |
|
コンテンツ(7) |
|
2004年4月10日 |
|
|
|
 | 中山 俊明 [なかやま としあき]
1946年4月23日生まれ。東京・大田区で育つが中2のとき、福岡県へ転校。70年春、九州大学を卒業後、共同通信に写真部員として入社。89年秋、異業種交流会「研究会インフォネット」を仲間とともに創設、世話人となる。91年春、共同通信を退社、株式会社インフォネットを設立。神奈川県・葉山町在住。 |
|
|
流行りすたりがない、景気に左右されない、そういった意味でもっとも安定したビジネスとはなんだろう。そう、電気、水、ガス等の日常生活に不可欠の「コンテンツ」を提供する「ライフラインビジネス」だろう。
これら事業の特徴は、生産から配送、そして集金までのすべての流れをいち企業がおさえている、という点だろう。実質的独占事業だといってもいい。初期投資が莫大だが、それは参入障壁となって他社の参入を妨ぐ要因ともなる。つまり世の中がどう変わろうと、ちょっとやそっとのことではつぶれない超安定事業である。
どんなに貧しくても生活インフラを止められては人間生きていけないから、ユーザーは借金苦にあえいでいても最低限、電気、ガス、水道料金だけは払う。まんいち払えなくなった未納者へのサービスストップが、スイッチやバルブひとつでいとも簡単というのもこれら生活インフラサービスの特徴だ。
新聞もこれら「生活インフラ事業」に近いビジネスだといえる。国内。海外に張り巡らされた一定の知識と経験を必要とする取材網。印刷用輪転機は1台最低でも数億円。刷りあがった新聞を全国の販売店に運ぶ輸送網。そして各家庭に定刻に配達し、集金する販売店網。コンテンツ生産→配送→集金一貫体制という意味では電気・ガス・水道ビジネスと似ている。だからこの事業も新規参入が非常にむつかしい。
しかし新聞が電気・ガス・水と違う要素もある。まず「必ずしも生活になくてはならないもの」とはいえない。新聞を読まなくても死ぬわけじゃないから、収入が減ればひとは購読をやめる。テレビのニュースをみれば世の中の動きはつかめるから、新聞がなくても別に困らない。それに加えて新たな「ライバル」が出現した。インターネットである。新聞記事と同じものがインターネットでタダで読めるのだから、なおさら新聞を買ってまで読む必要はない、という流れが加速する。
電気・ガス・水の流通・配送手段は時代がどう変わろうが基本的にはなにも変わらない。送電線、ガス管、水道管の代替手段はない。ところが新聞配送の代替手段が20世紀末にとつぜん出現した。紙、印刷機、販売店すべてなしでも、「コンテンツ」がユーザーに直接届けられる道具の出現。新聞があわてるのはとうぜんだろう。いわゆる「中抜き」効果がもっとも効率よく実現できるのが新聞を主体とする情報産業だといえる。
そこであらためて新聞とはなにか、と考えてしまう。コンテンツ(情報の内容)さえおさえていれば、21世紀も新聞の重要性、優位性は揺るがないだろう、というのが新聞側の考えだ。しかし、このエッセイでなんども考察してきたように、いくら優秀なコンテンツの供給者であっても、生産→パッケージ→流通→代金回収、という一連の流れをおさえてはじめて「うまみのあるビジネス」は成り立つ。新聞はまさにそういう産業であった。しかし、インターネットの出現で「うまみのあるビジネス」の地位を失うかもしれない状態に追い込まれたのが新聞だとも言える。
これとおなじことが電話にもいえる。電話事業者は別名「キャリア」と呼ばれるように、言ってみれば情報の運搬業者である。音声やデータを運搬し、その運搬料をいただいて代金を得る。有料道路屋さんといってもいいだろう。交通量が増えれば増えるほど通行料が増える。これだけで20世紀はじゅうぶん「うまみのあるビジネス」ができた。しかし、ここもインターネットの出現で大慌てである。データ運搬事業ばかりか、音声運搬事業でさえもインターネットにどんどんシフトしつつある。これまで巨大な資金と汗水たらして張りめぐらしてきた自分たちの道路のわきに、格段に道幅が広く、通行料も圧倒的に安い道路がばかすかと建設されていくようなものだ。
ライフライン事業や新聞事業がもっていて、電話事業がもっていないもの、それが「コンテンツ」である。つまり、売るべき中核商品=コンテンツがない。そのことがインターネットの出現によって明らかになった。「うまみのあるビジネスが継続できない!」−その危機感は、もしかすると新聞以上のものがあるに違いない。(続く)
|
|
|
|