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チャルマーズ・ジョンソンと沖縄 |
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2016年1月1日 |
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 | シーラ・ジョンソン [Sheila Johnson]
1937年、オランダのハーグに生まれるが、10歳のときからアメリカに在住。大学で人類学、大学院修士課程で英米文学を学び、人類学博士号を取得。高齢化問題や日本について書籍や記事を出版し、夫が創設した日本政策研究所の編集者を10年間務めた。チャルマーズ・ジョンソンが他界するまで彼と53年の結婚生活を続けた。現在サンディエゴ在住。 |
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1996年2月、亡き夫、チャルマーズ・ジョンソンは最初で最後の沖縄訪問をした。といっても、厳密には初めてではなかった、と彼はよく言っていた。1953年から55年まで米国海軍の揚陸艦で通信将校を務めていたとき、当時バックナー・ベイと呼ばれていた中城湾に停泊した。船員の中には上陸した者もいるようだが、夫はかわりに沖縄の穏やかな海で泳ぐことにしたという。
夫と私が出会ったきっかけは、1956年、カリフォルニア大学バークレー校で当時大学院生だった彼が、師事するロバート・スカラピーノ教授の講座「極東における米国の役割」で助手を務めており、私は学生としてその講座を受講したときであった。それが翌年の結婚につながった。
1995年、『フォーリン・アフェアーズ』誌(7・8月号)で、夫は、かつて教え子であったE・B・キーンといっしょに書いた「条約の平和的解体を」という論文で、日米は安保条約を書き換えるか、あるいは平和的に解体するかして、日本が自国の防衛について「普通の国」になるような段階を踏むべきであると主張した。そのためには、米国が書いた日本の戦後憲法を修正する必要が生じるかもしれないとも論じた。夫とキーンはそのとき、岸信介の孫が、岸が日米安保条約を1960年に改正したときと同じような強圧的な方法で憲法を変えていこうとするとは想像もしなかっただろう。それも夫たちの意図とは反対に、日米安保条約はそのままで、自衛隊の役割を拡大し、米国との軍事同盟を強化するために利用しようとしているのだ。
夫が1996年に沖縄に行ったのは、当時の大田昌秀知事の招きを受けてのことだった。前年の9月に、3人の米兵による少女暴行事件があり、大規模な公衆の運動が勃発していた。沖縄と、多くの日本本土の人たちも、米国が沖縄のおおかたの基地を閉鎖するよう要求しており、1996年の2月24日、当時の橋本首相は、この緊張した状況について話し合うためクリントン大統領に会った。
、もし橋本首相が米国に沖縄の米軍基地を返還するよう率直に要求していたら、クリントンはそうせざるを得なかっただろうと夫は見ていた。しかし、両者は沖縄の米軍基地を削減するという曖昧な約束をしただけだった。1996年12月、日米特別合同委員会(SACO)は、普天間基地の閉鎖と、沖縄県東海岸沖に代替の海上施設の建設を提案した。
この提案は沖縄における米国のフットプリントを減らすものではなく、環境に対する新たな脅威だった。建設予定地の大浦湾は、絶滅が懸念されるジュゴンの餌場であり、数々のサンゴ礁の生息する場でもあった。基地建設計画は埋め立てによる滑走路を造る計画を伴い、これらの生物が脅かされることとなる。地元の名護市を含む沖縄の人々は、この基地建設に繰り返し選挙や市民運動で反対を表明してきた。来年の2016年、この闘いが始まって20年にもなるとは私自身信じられない思いでいる。
20年前の沖縄訪問は夫に多大な影響を及ぼした。1996年2月16日に『ロサンゼルス・タイムズ』に寄稿した記事では、「このように欲深く広がる米軍基地と、露骨な植民支配の象徴に衝撃を受けた」と書いている。彼は日本政策研究所の所長として、大学のキャンパスや他の会合でも自分が沖縄で見てきたことを伝え始めた。
その後夫が2000年に出した本は『Blowback』(ブロウバック)といって、CIAが作戦の事後レポートをつくるときの用語である。海外における米国の行いが原因となって、加害者である米国に戻ってくるしっぺ返しのことだ(集英社2000年刊の日本語版は『アメリカ帝国への報復』)。
この本には沖縄についての章「アジアの最後の植民地」がある。世界を覆う米軍基地の問題は彼に続編『Sorrows of Empire』を書くよう駆り立てた(日本語版は文芸春秋2004年刊『アメリカ帝国の悲劇』)。これら両方の本において夫は、地位協定についても記述した。地位協定は、米軍が駐留する国に課す屈辱的な条件を露出するものなので多くの場合、政府は国民の目に触れないようにしている。
沖縄への旅は夫のその後の人生を変え、アジア研究の退官教授として余生を送るかわりに、使命感を持った公的知識人となった。夫は、大田元知事が沖縄の人々のために立ち上がり、正々堂々と主張する姿に深い尊敬の念を抱いていた。夫自身も、人生終盤の15年間、米国は第二次大戦後、かつての帝国が植民地で築かれたのとは違って、在外米軍基地によって帝国を築いたということを精力的に説いて回った。彼はこの帝国はいずれ破綻し、占領している多くの国々とともに滅びるであろうと読んでいた。夫はまた、自分自身が1970年代に顧問をしていたCIAの廃止も訴えていた。 昨年11月で、夫が亡くなって5年になった。夫がもし生きていたら、沖縄の誇り高き人々とその人たちの闘いから学んだことについて今も書き続けているだろうし、沖縄の苦しみに自国が果たしている役割について怒りを抱き続けているだろう。
(訳:乗松聡子)
(これと同様の記事が、2015年11月24日付け琉球新報の「正義への責任 ―世界から沖縄へ」の欄に掲載されました。)
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