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帯とバックル |
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2013年4月15日 |
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 | 西村 万里 [にしむら・まさと]
1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。 |
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▲ 左足が大きい成島柳北 |
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ネットで新聞の広告をみていたら、「フリコバックル」というバックルをつけたピン穴のないベルトが紹介されていた。
バックルというものはベルトの革の穴にピンを通す、というのが常識だ。そのシステムを変えて穴のないベルトにした。どこでも好きな胴回りに微調整できるそうだ。これが普及したらベルトというものの根本的な改革になるだろう。
バックルは昔日本になかった。それで明治になってバックルが使われだしたとき、それをなんと呼んでいいかわからなかった。その頃の訳語に「尾錠」というのがある。なるほどベルトをしっぽのようなものだとかんがえて、その先端にかぎをかけるようにバックルでとめる、という意味だからよく考えてあるといえないこともないが、今ではバックルというのがふつうになって、この言葉は結局使われなくなった。
このバックルというものがいかに便利か。ベルトを着用するすべての男性がもうそんなことを意識しないほどあたりまえのものになった。必ずしもベルトを使わない女性もバッグの留め金などにバックルを使うことがあるだろう。
簡単な工夫だから東洋にこれがなかったのは不思議だ、とかねがね思っていた。日本で秦始皇帝の兵馬俑が展覧された時に見に行ったら、馬の腹帯(はらおび)が革でできていて、それにバックルが使われている様をあらわしているので驚いた。現代人が使うのと全く同じ形状のバックルだった。始皇帝は二千数百年前の人である。そのころすでにバックルが使われていたのだ。
この馬の腹帯にバックルを使う、というのは胡人(こじん)つまり西域の人たちの習慣を中国に持ち込んだものだろう。もともと中国には貧弱な馬しかいなかったので、中国の皇帝たちはみな西方から優秀な馬を輸入することに熱心だった。秦の次の王朝である漢の武帝は西域から「汗血馬」と呼ばれる馬を手に入れて、喜びのあまり詩まで作った。血の汗を流す馬、ということで、そんな馬は現実にはいないだろうが、それまで中国にはいなかったすばらしい馬、という意味だろう。
秦はいわゆる漢族であるかどうかもあやしい西のほうから起こった王朝だから西域の習慣にはなじみがあっただろう。でも私の見たかぎりでは兵馬俑にああいう形のバックルが使われていたのはこの馬の腹帯だけのようだった。兵士はバックルつきのベルトをしていないように見えた。
また去年「中国 王朝の至宝展」という展覧会を見たら秦より後の時代だと思うけれど、猿の形をした帯鉤(たいこう)というものがあった。猿の片方の腕が長くのびてその手がかぎ形にまがっている。これは一種のバックルで、このかぎの部分をベルトの穴にいれてベルトをとめるわけだ。ベルトは展覧されていなかったけれど、このようなかぎを使うのならばそれは革製である可能性が強い。(ネットで調べたら兵馬俑の兵士も帯鉤を身につけているそうだ。しかし私は自分の目で確認したわけではないので帯鉤がどのように使われているのかわからない)。
そういうものもあったけれど中国ではその後の歴史をつうじバックルは使われなかったようだ。中国の服装はもともと日本の着物のようなものでそれをしめつけるのは帯だった。明のころまではそういう服装をしていたのだけれど、清になると真ん中にボタンをかける洋服のような上着ができた(ボタンは布製)。これは清が外国人の王朝だったせいだ。つまり、着物のシステムがおおはばに変わった。しかし、ボタンとセットで入って来てもいいはずの革のベルトもバックルも存在しなかった。上着の下にはズボンをはくのだけれど、そのズボンはひもを結んでしめつけなければならなかった(男女ともに上着とズボンを身につけた)。
日本ではそのような服装の転換はなかったから、帯がずっと使われた。日本人はバックルというものを目にしたことがなかったのだろうと私は思っていた。
去年京都を訪ねた時に北野天満宮に詣でた。そこの宝物館でいつごろのものか知らないけれど、古い馬の鞍がかざってあるのを見た。
ふつう日本の鞍というと木でできた鞍そのものしか見られない。ところが天満宮の鞍はその下に敷く蒔絵(まきえ)をほどこした革の馬具もいっしょに見せていた。
その馬具の腹帯なのだろう、真ん中に比較的細い、短い革が垂れていた。それには穴がいくつか開いている。バックルはなかったけれど、明らかにこれはベルトで、バックルの使用を物語るものだ。私はほんとに驚いた。
日本にもバックルはあったのだ。宝物館に置いてあるのだからこれは由緒あるものに違いない。貴人が使ったのだろう。バックルを使っているのに、なぜそれが普及しなかったのだろう。
私がなぜバックルにこだわるかというと、刀のことがあるからだ。昔の武士はごぞんじのように大小二本の刀を帯に差した。私はあれを実に不合理なことだと思っている。帯をいくらきつく締めてもあんな重い物をしかも二本も差してよく歩けたものだと思う。
幕末に外国奉行をした成島柳北(なるしま・りゅうほく、1837-84)という人物がいる。この人は幕府が官軍に敗れるとさっさと引退して明治政府に仕えなかった。ところが外国語にたんのうだったので、本願寺の法主が洋行するさいに通訳としてやとわれ明治5年ヨーロッパに行った。
パリで靴を一足新調したのだが、はいてみると左足が小さすぎて痛い。靴屋にそういうと、靴屋はなぜか日本人には左足が右足より大きい人が多い、あなたもそうなのか、と逆に聞いて来た。そこで彼は考えた。「我が国のさむらいは小さい時から両刀を帯びている。このため左足に力を入れるので自然に右足より大きくなったのだろう。友人に聞いてもみな同じ意見だった」と書いている(「航西日乗」)。 私には柳北のいうことが本当にそのとおりなのかどうか判断できない。でも彼だけではなく友人までもその考えに賛成したということは、みな刀の重さには閉口していた、ということではあるまいか。
その重い両刀を不安定な帯に差している。ひょっとしたら両刀をさすからそれがたがいに滑り止めになって安定するのかもしれないが、何にしてもご苦労なことである。
革のベルトがあったら刀をさすのに帯よりも便利になったかどうかはわからない。しかしベルトがあったらまた別の工夫ができただろう。少なくとも帯のようにゆるんでしまうとか解けてしまうということはなかったにちがいない。
刀のさやには「下緒(さげお)」というひもがついていて、帯刀する時にはこれを帯にからめる。それでさやが抜け落ちないようにしてあるのだが帯そのものが解けてしまったらどうにもなるまい。
平家物語に「宇治川の先陣争い」というエピソードがある。誰が宇治川を真っ先に渡って先陣をつけるかという時に佐々木高綱(ささき・たかつな)が競争相手の梶原景季(かじわら・かげすえ)に「馬の腹帯がゆるんでいるぞ。落馬してはなるまい」と声をかけた。景季がそうかと思って腹帯をしめ直している間に高綱は一番乗りをはたしてしまった、という話だ。
この時もし馬の腹帯が中国の兵馬俑のように革のベルトでできていてバックルを使っていたなら佐々木高綱もこんな小細工をもてあそぶことはできず、梶原景季に一番乗りを許していただろう。
いや馬の腹帯だけではない。昔の甲冑(かっちゅう)が展示してあるのをみると鎧(よろい)の胴にたいていふとい帯がしめられている。綿入れの丸い帯だ。なぜあんな帯をしめなければならなかったか私にはよくわからないが、たぶん刀を差すためだったのだろう。源平時代には太刀を佩(は)いていた、つまり刀に金具がついていてぶら下げるようになっていた。近世ではそのような太刀を使った人がいたとしても大将格の人間だけだっただろう。ふつうの武将は帯をしめて刀を差したのだと思う。しかし戦場で万が一帯が解けてしまったらどうするつもりだったのだろう。
日本人自身も不合理だと思っていたにちがいない。明治になると軍装は洋服になって刀はサーベル仕様にして革のベルトで肩から吊った。もちろんバックルで留めてある。これで一安心、というわけだ。
帯はそんなに簡単に解けてしまうものではない、と言われるかもしれない。しかしバックルの安定感にくらべたら一抹の不安が残る。
私がこんなふうに帯に関して文句を言っているのは自分で帯がしめられないからだ。むかし香港で働いていたとき、出張で日本に行ったら業者の宴会に招かれた。それはいいのだが、全員がゆかたに角帯をしめるのだという(これは温泉場でのこと)。私は角帯なんてしめたことがない。人様に教えてもらってやってみたがどうやってもうまく結べなかった。以来帯というものに不信を抱いている。
しかし考えてみると帯があったから日本人はその結び方にこり、さまざまな結び方を編み出したのだ。女性の帯がなかったら着物の魅力は半減するだろう。
日本ではものを包む、いわゆる包装の技術が大変発達したけれど、それも日常的に帯やひもを結ぶ技術にたけていたからにちがいない。
また帯がなかったら印籠(いんろう)というものはできなかっただろう。印籠は帯からさげる。帯から落ちないように根付(ねつけ)というものを印籠のひもにつけた。ひもを帯の下からいれて帯の上に根付を出しておけばそれがストッパーになって印籠が落ちない。あのアイディアはすばらしい。根付はまた世界最小の彫刻として高い評価を受けてもいる。それに印籠がなかったら水戸黄門の話も締まりがつかなくなるし....。
「帯に短かし、たすきに長し」ということわざがある。物事が中途半端(ちゅうとはんぱ)で使い物にならないことをいう。しかし「帯に短し」とはいうものの、 胴回りを一周するだけの長さでは帯として短いだけでなく、たすき(袖を押さえるために肩に十文字にかけるひものこと)にもならないはずだ。
帯は少なくとも胴を二周、できれば三周しなければならない。なぜかというと帯と着物の間に脇差(わきざし)を差し、その外側の帯と帯の間に大刀を差すのが武士のいでたちだったからだ。角帯なんか4メートルからある。武士、町人を問わずみんなそういう帯をしめていた。
つまり帯は長い長い物だった。だから帯として短すぎるものでもたすきとしては「長し」ということになるのだ。そういう長い物を見慣れた目にはベルトという胴を一周するだけの革帯はいかに簡便に映ったことだろう。そしてそれを可能にするものがバックルだったのだ。
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