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やって来た山火事(8)現実に直面して |
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2007年12月3日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。 |
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▲ 農園では車も焼けた。その回りには焼け落ちたアボカドがいっぱい。 |
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▲ 義兄と娘のエマ。この写真は以前載せたことがありますが、もう1度載せさせてください。 |
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10月25日。火事発生以来5日目。生来朝寝坊の私だが、夜どんなに遅く寝てもこのところ私にしては早く目が覚める。この日も8時ごろに目が覚めた。(8時は私には早い時間なのです。)トーマスの姿はなかった。書き置きがしてある。 「ジュディが自分の家が燃えたのをテレビで見てじっとしていられなくて、夕べ電力会社が使っている裏道を4時間かけて歩いて上ったそうだから、その道を通って農園を見て来るつもりだ」
ジュディというのは隣の農園を経営する隣人で、家は農園の中にあったのだ。ラモナに通じる道はどれもまだ封鎖中だから、電力会社が使う道を上ったのだ。その道は狭くて急勾配でおまけにくねくね曲がっている。月が明るかったとはいえ、年齢60代後半で股関節の手術をしたばかりの彼女がよく歩いて上ったものだ。やはり燃えてしまったわかっていても、自分の家や農園のことが気になって仕方がなかったのだろう。
それを聞いたトーマスが道路封鎖が解除されるのを待っていられなくなったのも無理はない。何時に家を出たのか知らないが、早起きの彼のことだから、7時前には四輪駆動の小型トラックのエンジンをかけたのかもしれない。
お昼前に彼が電話をして来た。 「火事の被害は、アボカドもパームも、想像してたよりずっとひどい…」 そう言った彼の声は沈んでいた。私も愕然とした。 「そうなの…」 それしか私には言うべき言葉が見つからない。
彼が帰宅するまでの数時間、私は彼の胸の中をいろいろ想像した。あんな沈んだ声を彼から聞いたことがあるだろうか。
またもや2年半前の大事故のときと比べてみる。あのときは命に関わり、私にとっては大きな試練だったけれど、当人のトーマスは突き詰めればじっと辛抱強く回復を待つしかなく、受け身の状態だった。辛抱するだけの気力と意気があったからできたのだと言えばたしかにそうだけれど、回復すればまた自分が築き上げた農園経営に戻れるという希望が彼を支えていた。事実、退院してすぐ彼が一番したかったことは、とにかく農園へ出かけてアボカドの様子を見ることだった。その農園が燃えてしまった… このことは彼にとっては人生最大の危機なのではないか… この危機を彼はどうやって乗り越えるだろうか… 心配だ。
でも、と私は考え直した。イギリス人には強い芯が通っているからきっと大丈夫だ。そう確信できたのは、義兄夫婦の姿が思い浮かんできたからだ。4年半前、義兄夫婦は末っ子で一人娘のエマを脳腫瘍で亡くした。朗らかで、優しくて、しっかりしていて、おまけに大変な美人で、義兄にとっては目に入れても痛くないほどかわいがっていた娘だった。余命が幾ばくもないエマに献身的な看護をした義姉は、泣き言や愚痴を一切こぼさなかった。それはエマも同じだった。
トーマスと私はお見舞いに1年のうちに3回出かけたのだが、最後のときはエマにはもう意識がなく、彼女の命はあと何日保つだろうと誰もが思っていた。病院はロンドンの中心チェルシーで、その周囲には洒落たレストランがいっぱいあっる。義兄夫婦と次男と私たちはイタリア料理を食べに出た。その間義姉の友だちが病院に来てくれて、義姉が安心してゆっくり食事ができるようにとエマを見守っていてくれたのだ。食事をしながら話したのはもちろんエマのことで、彼女の命があとどのくらいあると医師が言っているか、お葬式はどうするかというようなことがためらわずに話された。 「火葬がいいか土葬がいいか、エマと話したことがなかったから、彼女にとってどちらがいいか決めなくちゃいけないわ」と、義姉が淡々と言い、義兄と次男がそれぞれ意見を述べた。
義兄夫婦たちの話を聞きながら、この人たちはなんて強いんだろうと私は感心し続けていた。その場は静かだけれど決して沈み込んだ雰囲気ではなく、義兄夫婦はあえて平静を装っている様でもない。ただ、淡々と、降りかかった不幸をじっと受け止め、それにベストを尽くして対処しているのだった。
義兄夫婦の静かで淡々とした強さを見て以来、私はイギリス人(と、一抱えに言ってはいけないけれど)に一目置くようになった。トーマスもそのイギリス人の一人だ。最近かなり涙もろくなっては来ているけれど、芯は強い。絶対大丈夫だ。そう思った。
案の定、夕方帰って来たときのトーマスの声も顔も、もう沈んでいなかった。農園の被害をまだ自分の目で見ていない私の方がむしろ不安に駆られたくらいだ。
でも、イギリス人のトーマスだって、自分一人で頑張れるのではない。2日間じっとしている間の彼を勇気づけたのは、次々に舞い込む電話やメールだった。話し好きの彼は遠くの親類や友人たちから電話がかかって来ると、生き生きした。ほんの通りすがりがきっかけで知り合いになったスリランカやメキシコの人たちが電話をくれたのにはびっくりしたが、心が温められた。私も高齢の日本の伯母たちが電話をくれたときにはびっくりしたが、彼女たちの気持がとてもありがたかった。日本語のメールは私がトーマスに骨子を伝えただけだが、それでも心配してくれる人たちの気持が彼にも染み通っていったようだ。それがどんなに私を勇気づけてくれたことか。そういえば、義兄夫婦にも彼らを支えてくれる友人たちが大勢いる。
さて、火災後の処理は大変な仕事だ。まず被害状況を記録するために、わたしも翌日農園へ行き、できるだけ写真を撮ることになった。
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