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縁の下のバイオリン弾き
75 ひげにまつわる話
2013年7月15日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 「1984」のジョン・ハート
「007」シリーズの最新作「スカイフォール」に、私にとってだけかもしれないが、とても興味深いシーンがあった。

ジェームズ・ボンドがホテルでひげをそろうとしている時に、若い女性の同僚(つまりスパイです)がやってくる。シェービング・ブラシや西洋カミソリを使っているのを見て、「あら、本格的ですねえ。うちは父が床屋だったから、あたしはひげそりがじょうずなの」という。それでボンドは彼女にひげをそってもらう。

西洋カミソリというのは折りたたみナイフのようなつくりになっていて、たいへんするどい。そのするどさを維持するためには革砥(かわと)というものが必要だ。幅の広いベルトのようなもので、これでカミソリの刃をとぐ。ボンドはそんなものを旅先に持参していたのだろうか。

このカミソリを使って自分でひげをそるのはとてもむずかしい(ということになっている。私はやったことありません)。熟練を要する。だからだれかにそってもらう、ということがふつうだった。日本では理容師は風船にシェービング・クリームをぬって割れないようにそる訓練をすると読んだことがある。

したがってボンドが彼女にひげをそってもらうというのは話の筋がとおっている。でも理容師でもない彼女が本当にそれるのだろうか。しかも彼女が「本格的ですねえ」というとおり、よほどの物好きでなければ現在本物のカミソリを使う人はまずいないだろう。それは安全カミソリというものができたからだ。これが今ふつうにいうカミソリで、刃が肌にあたるところにガードがついていて必要以上に食い込まないようになっている。これを使えばけがすることなくひげがそれる。


もう来年で30年になるが、1984年に「1984」という映画ができた。これはジョージ・オーウェルが1948年に書いた未来小説が原作だ。48年をさかさにして84年としたわけだ。全体主義の国家を描いてその予言はそらおそろしいほど的確だ。圧政をしく独裁者をあらわす「ビッグ・ブラザー」という言葉はこの小説でオーウェルがはじめて使ったものだし、市民の家にあるテレビはかれらが見るものではなく、政府がかれらの一挙手一投足を監視するためにある。現在、政府の情報収集活動が告発されているアメリカにも通じるぶきみな社会だ。

原作では「(闇市場の)店に行かなければ靴ひもとかカミソリの刃とかほかでは手に入らない」とたった一行で片付けているが、映画は主人公が闇で安全カミソリの替刃を買う場面ではじまる。さすがのオーウェルも電気カミソリというものができることまでは予測していなかったのだろう。もっとも1984年のロンドンは電力も不足していることになっているから、たとえ電気カミソリがあったとしても使えなかったかもしれない。

このカミソリの刃を一枚買う、という行為がそれだけで重大な反国家的犯罪だ。小説を読むとわかるがこの社会は密告社会で告発されればどんな報復が待っているかわからない。カミソリは男にとって必要なものだから処罰を覚悟で闇で買うか、それがいやならひげをのばし放題にするか、ともかく自分できめなければならない。安全カミソリの替刃一枚が象徴するものはたいへん大きい。


安全カミソリはいつごろできたのだろう。インターネットによると19世紀の末にはもうそれに類したものができていたようであるが、本当の安全カミソリは1904年にジレットという発明家が特許をとったそうだ。

夏目漱石は英国留学中に「倫敦消息」(ろんどんしょうそく)という文章を書いている。もともとは正岡子規に送った手紙を子規が新聞に発表したものだ。その最初のところに「それからちょっと顔をしめして『シェイヴィング・ブラッシ』をつかんで顔中むやみに塗りまわす。そりは安全カミソリだから始末がいい。大工がかんなをかけるようにスースーとひげを剃る。いい心持だ」とある。これを書いたのは1901年だからジレットの特許よりは少し早い。どんな「安全カミソリ」だったのだろうか。


18世紀のヨーロッパでは男はひげをそった。その例として私はナポレオンをあげたい。かれは生涯を通じてひげをそっている。

アメリカでも同じでワシントンもフランクリンもひげはない。

この頃みなひげをそったのは18世紀になってからカミソリに適する鋼材が生産され出したからだそうだ。いいカミソリが手に入るようになってはじめて「ひげをそる」ということが可能になった。

しかし、19世紀になると猫もしゃくしもひげをのばすようになった。そのころの小説を読むとよく「クリーン・シェイヴン」という言葉が出てくる。「きれいにひげをそった」という意味だ。こんな形容は今では使われない。19世紀にはひげをはやすのがふつうだったから、きれいにひげをそった人は珍しく、わざわざそのことを書くようになったのだ。

明治4年にアメリカとヨーロッパを訪問したいわゆる「岩倉使節団」のメンバーの中に大久保利通がいた。彼は旅行の最初のうちはきれいにひげをそっている。ところが欧米を旅している間にひげをはやしたらしい。行く先々から写真を西郷隆盛に送ったので写真嫌いの西郷がとうとう「ひげの写真はもうけっこうだ」と手紙を書いたそうだ。

大久保がひげをはやしたのは当時欧米ではどこでも男がひげをはやしていることにかぶれたからだろう。日本人にはめずらしく大仰(おおぎょう)なひげをはやしている。

しかしさむらいだったころの彼はむろんひげをはやしていない。ひげは江戸時代には人気がなかった。だれもかれもひげをそっていたのである。

ひげをそるにはカミソリが必要だ。カミソリがいつ日本にはいってきたかというとそれは仏教が渡来したころだ。仏教の僧侶になるには頭を丸めなければならない。かれらはまたひげをそるのがふつうだった。

しかし僧侶になるつもりのない男はひげをそらなかった。仏教を日本に広めた聖徳太子の肖像をみてもひげをはやしている。

西洋では漱石が書いているようにブラシをつかって石けんを顔じゅうに塗りたくる。しかし日本には石けんというものはなかったから、ひげをそるには水でひげをしめすぐらいしかできなかった。男がひげをそらなかったのも理由のないことではない。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のいずれもひげをたくわえている。

でも江戸時代も中頃になるとみなひげをそるようになった。しかも男はみな月代(さかやき)といって頭のてっぺんをそったからカミソリは必要不可欠なものだったはずだ。

幕末の写真をみるとひげをはやしている武士はほとんどいない。写真を撮れるのは武士ぐらいだったから庶民のことはわからないけれど、おなじようなものだっただろう。私の知っている限りでは佐久間象山(吉田松陰の先生)が長いひげをはやしている。彼はサングラスをかけ、西洋の鞍を馬に置いて乗っていた人物だから西洋でひげがはやっていることを知っていたのかもしれない。そういう行動がわざわいして暗殺された。

勝海舟(若い頃)も西郷隆盛も坂本龍馬もひげをはやしていない。最後の将軍徳川慶喜はフランスのナポレオン三世から贈られた西洋の軍服を着て写真を撮っているが、彼もひげはない。ナポレオン三世の有名なひげのことを知らなかったはずはなかろうと思うけれど。

それが明治になるとどうだ。伊藤博文、山県有朋、板垣退助、のきなみひげをはやしている。その親玉の明治天皇がまたりっぱなひげをたくわえている。以来天皇はひげをはやすのが伝統になった。今の天皇になってやっと「クリーン・シェイヴン」の天皇になったのである。

欧米で19世紀にだれもがひげをはやしたのは流行だったから、というほかはない。権威を高めるためにひげをはやした、ということもあったにはちがいない。でもカール・マルクスのような貧乏学者があんなおおげさなひげをはやしたってそれで権威が高まったとは思われない。

ところが明治になってからの日本人のひげは勝った官軍側の流行だったので、ひげはあきらかに権威を象徴するものとなった。権力をにぎった政治家はみなひげをはやした。ひげをそっているのは木戸孝允(きど・たかよし=桂小五郎)と岩倉具視(いわくら・ともみ)ぐらいではなかっただろうか。木戸は明治10年、西南戦争の最中に死に、岩倉も明治16年に死んでいる。ひげをはやすほどの時間が与えられていなかった、とも言える。

徳川幕府側はそういう権威主義のひげを嫌ったのだろうと私は思う。徳川慶喜は生涯ひげをはやしていない。野にくだった福沢諭吉や成島柳北もそうだ。しかし幕人で明治新政府に出仕した連中はひげをはやした。榎本武揚などが典型だ。

負けた側は勝ち組が勢いにのって権威を誇るのが片腹痛かっただろう。その象徴のようなひげをはやすことをいさぎよしとしなかったのも理解できる。でもその気概は息子たちに受け継がれなかった。チャキチャキの江戸っ子である漱石がひげをはやしているのは象徴的だ。漱石だけではない。いずれも負け組の息子である幸田露伴も二葉亭四迷もひげをはやした。もうそのころにはひげはファッションでしかなかったのだろう。

最近明治以来の総理大臣の写真を見る機会があったが、戦前の首相30名はほとんど皆ひげをはやしている。ひげをそっているのは「平民宰相」と呼ばれた原敬など4人しかいない。明治時代には巡査でさえひげをはやして人民に対して横柄(おうへい)な態度をとった。

20世紀になると欧米ではひげははやらなくなり、日本でも第二次世界大戦のあとはひげをはやさないのがふつうになった。それが突然また流行しだしたのは60年代後半になってからだ。これは長髪と密接な関係がある。ビートルズは長髪を流行させただけでなく、ひげをはやした。かれらはアイドル視されるのをこばんでわざわざ当時人気がなかったひげをはやしたのだが、それが長髪によくにあった。


以前日本のタクシーの運転手が会社を相手取って訴訟を起こしたことがあった。その原因はかれのひげにあり、会社側が規則をたてにとって解雇したのに対してひげをはやす、はやさないは個人の自由だ、と運転手は主張した。

「ひげをはやしてはならない」という規則があること自体、「ひげは権威を象徴する」という考えの反映だろう。タクシーの運転手がひげをはやしているのは「えらそうに見える」。そういうえらそうな態度をとってはお客さんに失礼にあたる、と考えたのだろう。

新聞によるとエジプトではいままでたくわえていたひげをそってしまう人が出ているということだ。ひげは正統的なイスラム教徒が大切にしなければならないものだけれど、クーデターで失脚したモルシ大統領の出身母体である「ムスリム同胞団」に反対する人々が「自分はメンバーではないぞ」ということをはっきり見せるためにはひげをそってしまうのが一番確実なやりかたなんだそうだ。それを読むまで私はひげにそのような政治的な効用があるとは考えもしなかった。エジプトのタクシー運転手はひげをそってしまったら会社をクビになる、なんてことはないでしょうね。
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