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97 セザンヌ、その光と陰
2008年6月6日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。















































セザンヌ、その光と陰


ジプシーさんのお力添えのおかげで、「マキシミリアン」についての長年にわたる個人的な疑問を解くことができました。あらためてジプシーさんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。

ところで、「マキシミリアン」を描いた画家、マネよりもちょっとだけ後の時代に活動した画家、ポール・セザンヌ (Paul Cézanne 1839 〜 1906) について、この機会におしゃべりさせていただきます。この2人の画家達は、まったく異質なのですが、共通する点もあります。それは2人とも印象派周辺で活躍したにもかかわらず、純粋な印象派とは、つかず離れずという微妙なポジションに居たことです。それぞれに意味合いは違うのですが。

南フランス出身のセザンヌは生涯で何度か活動拠点として、パリと故郷を往復したのですが、晩年はパリを完全に離れて、故郷のエクス・アン・プロヴァンスに定住しました。マネは都会的に洗練された典型的なパリジャンでしたが、セザンヌは典型的なプロヴァンス人だったのです。

社交ベタ、人間嫌い、職人的頑固さのかたまりのようなセザンヌは、実はその後20世紀絵画に絶大な影響を与え、現在では「近代絵画の父」という称賛を得ています。でもその人生は、決してプロヴァンスの空のように明るいだけではありませんでした。

南仏のプロヴァンスは明るい地域です。年間300日は快晴で、北のパリと比べたら、人の心があたたかく、優しいとよく言われます。実際、パリとプロヴァンスの両地域を何度か訪れている私も、まったく同感です。プロヴァンスの空の玄関、ニースのコート・ダジュール空港に着くと、先ほど飛び立って来たパリの街が遠い異国に思えてしまうのです。私の体験では毎回そうでしたから、やはりパリとプロヴァンスは決定的に違うのだと思います。

そんなめぐまれた環境に住むプロヴァンス人達の多くは、それでもどこか心の底では、パリに劣等感を持っているのだそうです。不思議なことですが・・・。セザンヌもそうでした。

セザンヌは晩年、故郷の街、エクス・アン・プロヴァンス郊外にあるサント・ヴィクトワール山を繰り返し、繰り返し、まるでとりつかれたように描きました。上の画像がそれです。上段は写真で、中段と下段の2枚がセザンヌの作品です。セザンヌはたしかこの山の絵を30数点描いていると思います。

そして、彼が亡くなったのもこの石灰岩の山の絵の制作がきっかけでした。1906年の10月、セザンヌはサント・ヴィクトワール山を描いていて、ひどい夕立に遭いました。往路、馬車の御者とケンカをしたために迎えに来る馬車がなく、何時間も雨にうたれてしまったのです。「絵を描きながら死にたい」と、よく口にしていたというセザンヌは、その言葉通り、パレットを手にして倒れ、その1週間後に肺炎で亡くなりました。67才でした。サント・ヴィクトワール山は、セザンヌの人生の最期まで 彼と深い縁があるモチーフでした。

それにしても、67歳で決して見知らぬ相手ではない、馬車の御者と喧嘩してしまうなど、なかなかできることではありませんが、いかにも頑固な彼らしいことなのかも知れません。

画家セザンヌの父、ルイ・オーギュスト・セザンヌは商才に長けた人物でした。帽子販売業でなした財を元手にして、エクス・アン・プロヴァンスで唯一の銀行を設立したのです。その結果、さらに大きな成功を手に入れ、地元の有力者となったのです。

そんな父にとって、ラテン語やギリシャ語をこなし、ボードレールを愛読する学業優秀なポールは自慢の1人息子でした。セザンヌは13歳になると、土地の良家の子息が通うブルボン中学に入学します。ここで内気なセザンヌ少年は、やがてその人生を左右するほどの親友を得ることになりました。将来の小説家、エミール・ゾラと、天文学者として名を成すジャン・バティスタン・バイユです。3人は授業を抜け出してはプロヴァンスの山野に遊び、川で泳ぎました。文学を語り、美術を論じる親友との穏やかな日々。絵を描くことが大好きだった少年の心には、友と遊んだこのプロヴァンスの風景が心に深く刻み込まれたのだと思います。

彼は、この中学校在学中に市内美術館のデッサンスクールに通い始めていますので、やはり持って生まれた素質というのはあるものですね。また、商才にめぐまれた親の子供が、その方面にはまったく不向きというのも、よくあることです。

1859年、中学校(といっても6年制の今の日本で言えば、中高一貫校のようなものだったのでしょう)卒業とともに、父の意向を受けて銀行家としてのあとを継ぐために、地元、エクス大学法学部に入学しました。

ところが、自身の関心はどうしても絵に向かい、法律学科の勉強にはなじめずに悶々としていたのですが、そんな彼を励ましたのは、パリに引っ越して行った親友、ゾラでした。ゾラの励ましと、叱咤がなかったら画家セザンヌの誕生はなかったかも知れないと、私は感じています。

ともかく1861年、22歳のセザンヌはエクス大学を中退して、パリに出ました。やっとのことで父を説き伏せたのです。父は、息子はきっと失敗して故郷に戻って来るに違いないから、事業継承はそのあとからにしよう、という世慣れた大人らしい計算をしたのだろうと思います。

実際、父の読み通り、パリでセザンヌを待っていたのは失望の日々でした。ゾラと再会し、のちに長くセザンヌを支援することになった先輩画家カミーユ・ピサロとの出会いはあったものの、華やかな都会の空気と洗練された社交上手な人々は、田舎育ちの青年にとって、決して心地よいものではありませんでした。

さらにエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の入試にも失敗して、セザンヌはこの時、わずか5ヶ月でパリからエクスに逃げ戻りました。父の予想(期待)通りだったわけで、父としてはニンマリというところだったことでしょう。

こうして結局、父の銀行に就職し、銀行員としての勤務を続けながら、週末になるとデッサン教室に通う生活を開始しました。

それで結局、そのままになってしまえば、近代絵画の父の誕生はなかったのですが、ここで終わらないところが、才能と運命なのでしょう。

翌年の1862年、父の銀行を退職し、再びパリに向かったのです。このあたりは、パリの持つ文化的、芸術的な集積に対する憧れと、逆に見ると南仏人の劣等感をある意味で表しているのだろうと思います。前年、あれだけ懲りたはずのパリに再度向かったわけですから。ここらあたりになると、父ももう、1人息子への順当な事業継承は半ば諦めていたのかもしれません。

その後もパリと故郷を往復しながら、サロン(官展)に出品を続けるものの、ことごとく落選しました。また、印象派の画家達との交流も、ピサロを除けば、あまりうまくゆかず、印象派展への出展も初回から3回目までで終わりました。

こうして、セザンヌは画家仲間からも距離を置き、ただ1人自分の内なる世界に閉じこもる苦悩の日々を送りました。そしてその頃、彼とは対照的に、パリの文壇には大きな名声を獲得した、華やかな小説家、エミール・ゾラの姿がありました。

1886年、ゾラは小説「制作」を発表しました。画家を目指す主人公が世に出ることなく、自らの作品の前で命を絶つという物語でした。それは明らかにセザンヌをモデルにしたものでした。少年時代をともに過ごした親友の作品を「裏切り」と受け取ったセザンヌは、深く傷つき、ゾラとの絶交・訣別を決意します。

私見ですが、セザンヌが本格的な自身の画風を作り上げ、確立していったのは、この事件後であったように思います。彼はふっ切れたのだと思います。孤独を友として、自らの画風の確立に没頭することができるようになったのです。実はこの意味でも、逆説的ながら、ゾラはセザンヌの恩人だと言うことができます。

この年はまた、彼のもうひとつの転機の年でした。長年、精神的な確執を続けて来た銀行家の父が亡くなり、大きな遺産を相続したのです。そしてまた、内縁の妻とも正式に結婚し、今度こそ本格的に故郷に戻り、サント・ヴィクトワール山などをモチーフに作品を制作し続けました。父から譲り受けた遺産のおかげで、経済的な不安はなかったものの、絵はなかなか理解されず、画家としては不遇な日々が続きました。パリでの大きな成功を土産に故郷に戻ったわけではなく、いわば都会からしっぽを巻いて逃げ帰ったわけですから。

彼の画家としての転機は、それから9年後の1895年に訪れました。この年に個展が成功すると、若い画家たちの一部から注目され始めたのです。

社会の担い手が貴族から市民へと移行する流れが決定的になっていた19世紀後半のヨーロッパでは、芸術の世界にも大きな変化が起きていました。旧来の歴史画や宗教画、神話画にとって替わる新たな潮流が押し寄せていました。画家たちは明るい光を求めて、戸外へとカンバスを持ち出していたのです。

鮮やかな色彩と大胆なタッチを使って、日常の風景の瞬間を切り取る、印象派の誕生です。この流れは当時のハイテクにより、チューブ入り絵の具が開発されたことにも大きな影響を受けたはずです。

それまでの絵の具はと言えば、羊の革袋に入れて保管するのが唯一の方法でしたので、多くの色の絵の具を屋外に持って行くのは、ほぼ不可能なことでした。そこで、画家達は風景の場合は、屋外では簡単なスケッチをするだけにして、実際の絵の制作は設備の整った自分のアトリエですることしかできなかったのです。

セザンヌもその1人ですが、この時期の多くの画家達が戸外で制作するようになったのには、こうした様々な背景があったのです。

セザンヌのバックグラウンドの中に、他の印象派の画家達と違う点があります。それは「光」に対する意識です。

この時期の多くの画家達は、より明るい光を求めて、北から南へ移動しました。ゴッホがその典型です。オランダ時代の暗い色調が、南フランスへの移住によって、明るく強烈な色彩を取り入れた、まったく異なる画風になっていきました。

でもセザンヌは違いました。彼の生まれ育った地域には、もともと十分な光が、いつもあったのです。戸外に出れば、そこはいつでも明るい光に充ち満ちていたのです。ですから、彼には、あらためて光を発見する必要はありませんでした。

印象派の画家達の多くの志向が光への憧れに集中している中で、セザンヌの目は、形と遠近法に向けられました。形を立体的に捉えようとしたのです。彼はあとに続いたピカソのような、目が横についた人間の絵を描いたわけではありません。また、ロマン派のような個人の心情を熱く表現したわけでもありません。むしろ、感情を排して、ひたすらに対象を図形化していったのです。でもそのことが、光の氾濫にいささか飽きて来て、別の道を模索していた印象派後の画家達の共感を得たのです。

光にあふれた南仏で生まれ育ったセザンヌが、光にあまり強い関心を持たなかったのは、ちょうど、カリブ海、西インド諸島のセント・トーマス島に生まれた、カミーユ・ピサロの絵からは、どう見ても水ではなくて、土を感じることと、どこか共通していることかも知れません。

美術史上、またひとつの大きな変革期を迎えていたこの時代、セザンヌはただ1人で新たな道を歩き出していました。彼が画家として終生追求したことは、うつろいやすい外観に惑わされず、その内面にある本質を描き出すことでした。

その意味でも、彼には時間とともに変化する光を追いかけている印象派には不満だったのです。セザンヌは光に惑わされずに、徹底的にモノの本体=本質を見たかったのです。風景や静物に物の形を見て、さらに表面的な、見せかけの姿から中味の真実を探し出し、それを出来るだけ正確に表現したのです。

彼が晩年、本当にとりつかれたように繰り返し描いたサント・ヴィクトワール山は、そこから形(フォルム)を抽出しようとしていたセザンヌにとって、飽きることのない題材だったのでしょう。下段の絵は、1906年、彼が亡くなった年に描かれた最晩年の作品です。

プロヴァンスの10月の雨にうたれて肺炎で亡くなったこの画家は、終生愛した故郷の自然の中、エクス・アン・プロヴァンスのサン・ピエール墓地に眠っています。南仏人の彼は、やはりパリとは膚が合わなかったのでしょう。

美術史上に金字塔を打ち立てた、これほどの人物にも光の部分だけでなく、陰もあったのです。それもかなり暗い陰が。でもその陰があったからこそ、光が真の輝きを作り出したとも言えますね。人生には誰でもいろいろあるものです。

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