1989年創立 個の出会いと交流の場 研究会インフォネット
HOME 研究会インフォネットとは 会員規約 お問い合わせ
会員専用ページ
過去のINFONET REPORT カレンダー 会員連載エッセイ なんでも掲示板
会員紹介 財務報告
会員連載エッセイ
最近の記事 以前の記事
縁の下のバイオリン弾き
77
2013年8月11日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 干上がったコロラド川河口付近と打ち捨てられた船。撮影Peter McBride。
先日ハイキングに行った時に手にした500mlの水のペットボトルを見てつくづく考えた。それをここに書こうと思う。透明なびんのなかで水は朝日にきらめき、なにかの魔法で水そのものの大粒の泡を持っているような気がした。

水は人体にかかせないものだけに水を運ぶ、ということに人は昔から大変な苦労をしたのだと思う。桶や樽はその必要から生まれたものだ。

日本では竹の節をひとつ切り、それに穴をひとつあけて水筒にしていた。ひょうたんを使うこともあった。これは大昔からそうだったのだ。中国や韓国でもたぶん同じ事をしていたのだろうと思う。

西洋や中東では動物の内臓の中で袋状になっているもの、たとえば胃袋をもちいた。水だけではなくさまざまな液体をいれた。牛乳をそういう革の袋にいれて馬の背にゆられていたために胃の中にある酵素の作用によってチーズができた、という話があるぐらいだ。いまでもスペインでは革の袋にワインをいれて持ち運ぶ風習がある。

香港に移住してすぐのことだから1970年代の初頭だったが、新聞にのった写真が忘れられない。二人の白髪の老婆が歯の抜けた口をいっぱいに開けて笑いながら、おたがいに水を掛け合っている。見出しによるとこの老婆たちは香港でも僻地の村の住民で、その村にやっと水道が通り、毎日水源(よくわからないがたぶん共同水道だったのだろう)から水を桶で運ぶ重労働から解放されたので喜んでいる、ということだった。水道なんかあたり前の日本からやってきた私はそのおばあさんたちの尋常ではない喜びようを見て強い印象をうけた。

またできて日が浅い香港中文大学という大学があった。場所は九龍半島(香港島の対岸で広い意味の香港の一部)の郊外だった。まわりには百姓家しかない。学生の大部分は寮に住んでいたが、中には何人かで空き家をかりて住んでいる学生達がいた。その農家には水道がついていないと聞いて私は驚いた。近くまで水道はひかれていたのだけれど、毎日そこまで水を汲みにいかなければならなかったのだ。

香港はもともと岩盤でできた島で泉も川もない。水は全面的に大陸に頼り、パイプでひいて来なければならなかった。当時英国領だったけれど、もし中国が本気で香港をとりもどそうと思えば、弾丸を一発も放たずに水の供給をとめるだけでそれが実現するといわれていた。

水汲みと洗濯はだいたいどこの文化でも伝統的に女の仕事だった。簡単に言ってしまえばそういうことになるが、毎日毎日、照っても降っても休むわけにはいかない。それを一生続けるのである。そのつらさは私なんかにはとても想像できない。その重労働を世界中の女(と少女)が文句もいわずにやってきたのだ。

名古屋に住んでいたころ伊勢湾台風(1959年)の被害にあった。名古屋は壊滅的な打撃をうけた。恐怖の一夜が開けたあと、水道が切れたので母にいわれてまだ小学四年生ぐらいだった私は兄弟とともに地元の中学校に行ってバケツで水を汲んだ。水汲みの経験はそれしかない。水汲みが毎日の生活に不可欠だという苛酷な状況は想像もできない。


もう20年ほども前のことになるが、妻のリンダとたずねたグァテマラの村でも女達は水汲みをしていた。首都や大都市には水道があったけれど、農村にまでは及んでいなかった。彼女たちはそれ専用につくられた白と青のしまもようのプラスチックのつぼに泉から水を汲んで頭にのせて歩いていた。

プラスチックは現代文明の象徴のようなものだけれど、古代から連綿とつづいている水汲みとのとりあわせがふしぎだった。プラスチックが手に入る段階にありながら、なぜ水道がないのか。

でも実はそれはふしぎでも何でもない。プラスチックのつぼは陶製のものにくらべて軽いから需要が高まっただけなのだ。水道を作るのは大変だけど、プラスチックのつぼならいくらでも、またどこへでも売れる。

また、泉からの水を溝(みぞ)に流して丘を下らせ、一カ所に洗濯場が作られていた。コンクリートで四角い井戸のようなものがたくさん作られていてそれに溝から水をみちびき、手で洗濯をする。廃水は別の溝にながすのである。たくさんの女達が洗濯をしながら楽しそうにおしゃべりをしていた。

その村では柴(しば=小枝)を集めて背中に負い、町で売り歩くために山をくだってくる男たちも見た。桃太郎ではないが、「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯にいきました」をそのままの風景だった。


日本がいかに水に恵まれているかは言うまでもない。私は長い間夏にしか日本に帰れなかったけれど、成田から東京に行く電車の窓から見る風景がもうまるで熱帯のようにたけだけしい緑におおわれている、と感じたものだ。

「空間恐怖症」ということばがある。何にもない空間が堪えられない、ということだ。日本の夏はまさに空間恐怖症の世界だ。ちょっとでも空き地があればそこに植物が繁殖する。土から顔を出した芽がすぐに大きくなり、葉が出、つるがのびてその空間をおおってしまう。そんなことになるのは水が豊富だからだ。

実際夏の日本は空気を手でしぼれば水がしたたるのではないかと思うぐらいだ。

マレーシアに行ったときジャングルに案内された。ところがジャングルという言葉で私が想像していたような風景はなかった。ただ大木がひっそりかんと立ち並んでいるだけだった。「え、これがジャングル?」という感じだった。私の想像の中のジャングルはそれこそ八重葎(やえむぐら)おいしげる密林だったのだが、その密林はマレーシアにはなく、実は日本にあるのだった。

私がこんな風に感じるのは空気の乾燥したサンディエゴに住んでいるためかもしれない。ここはもともと砂漠の気候で、一年を通して水が流れる川はサンディエゴ川一本しかない。その川の水で全米で7番めといわれる人口をまかなうことはできない。だからどこかから水をひいてこなければならない。

どこから水をひいているかというと主にコロラド川からだ。コロラド川は遠くコロラド州に水源を発し、アリゾナとユタの間の山をけずってグランド・キャニオンを作り出し、アリゾナとカリフォルニアの州境をなす大河だ。その東の州境であるコロラド川から太平洋に面した西のサンディエゴまで水を引いている。川はカリフォルニアを出るとそのままメキシコ領を通り、バハ半島と本土の間にあるカリフォルニア湾に流れ込む。地図で見るとそうなっている。そのあたりは大湿原地帯だろうと想像された。

1度見に行ってこよう、と私は思った。それである年車を駆ってメキシコに行き、その河口をたずねた。ところが行ってみて私はあっけにとられてしまった。河口なんかないのだ。あたりはごろた石の大平原でまんなかに川のあとらしいものがあるだけ。

どうしてそういうことになるかというとアメリカ側で水を全部使い切ってしまうからだ。農業用水、工業用水、飲料水として水の需要は大きい。さしもの大河もカリフォルニアの大地をうるおしているうちに朝露のごとく消えてしまうのだ。

短い距離ではあれ川の流域になっているメキシコに住む人々の感情は複雑だろう。かれらにだって川の水を使う権利は当然あるわけなのだ。それが使おうにも干上がってしまっているのでは何の役にも立たない。合衆国と境を接するメキシコ北部こそ本当の砂漠で、ここに水があればどれだけ豊かな緑が約束されるかわからない。その緑の大地は国境の北側では実現しているのだ。コロラド川の水をフルに使ってもともとは砂漠だった土地を全米でも有数の大農場地帯に変えている。

ここ数年は交渉の結果、多少の水がメキシコにも割り当てられるようになったそうだが、そんなのはそれこそ「焼け石に水」だ。河口はいまだに消えたままだ。



コロラド川が象徴するように、水の問題は世界的に深刻なことになっている。量も問題だが質の面もみのがせない。清潔な水が手に入らないばかりに病気が蔓延し、特に幼児の死亡率が高い国は多い。また香港でもそうだったけれど、水道があっても質が悪く、生水が飲めない国もたくさんある。メキシコやグァテマラでも生水は飲まないほうがいいとされている。

いい解決方法が発見されなければ水をめぐって将来国際的な紛争がおこるにちがいない。水は現在の石油のように貴重な資源とみなされるだろう。海水の淡水化のためのプラント建設が現在サンディエゴ付近で進んではいる。それがほとんどただ一つの解決法に思われるけれど、コスト高だ。また淡水をとりだしたあとの塩の含有量の多い海水をどうするかという問題がある。それを海にかえしてしまっては生態系の混乱を招く、という意見がある。環境問題なのだ。

アメリカでは水道の水を飲んで病気になるということはない。でもサンディエゴの水道はおいしくない。まあ何百キロを旅して来た水だから疲れているのかも知れないけれど。

考えてみると私は一生の大部分をまずい水を飲んで暮らして来た。日本でも水道水がまずい地域はあると聞いたけれど、それでも香港やサンディエゴのようなことはあるまい。なんだかひどい損をしたような気がする。

カリフォルニアでは日照りのために水不足になり、水の使用が制限されるということがたびたび起こる。水の需要がもっとも多いのは農業用水だ。個人ができることには限りがあるけれど、私たちは日常的に風呂に使った湯をさましてバケツに入れて屋外に運び、庭木にまいている。水を運ぶのが私でそれをまくのはリンダだ。

家の以前の持ち主は庭に芝生を植えていて、スプリンクラーで水をやっていたが、我々は芝生をぜんぶひっぱがした。芝生なんてものは寒いイギリスが起源で、東部や中西部でこそ意味があるかもしれないけれど、砂漠のサンディエゴではその維持に水のむだづかいをしなければならない愚かな習慣だ。

バスタブのことだからたいした量ではないが、それでもバケツ6杯ぐらいにはなる。水を汲むのとは反対に廃水を処理しているわけだけれど、水を運ぶことには違いない。その水の重さを感じるたびにグァテマラで見た女達のことをなつかしく思い出す。



注)グァテマラ農村の女性と少女が水汲みをする光景を都市にすむ女性の水の使い方と対比したビデオが下のサイトで見られます。10リットルの水を汲むために往復の時間を入れて4時間かかるそうです。

http://www.gritodelosexcluidos.org/movieclip/guatemala-las-mujeres-y-el-agua/
最近の記事 ページトップへ 以前の記事
ボーダーを越えて
雨宮 和子
かくてありけり
沼田 清
葉山日記
中山 俊明
寄り道まわり道
吉田 美智枝
NEW
僕の偏見紀行
時津 寿之
ぴくせる日記
橋場 恵梨香
縁の下のバイオリン弾き
西村 万里
やもめ日記
シーラ・ジョンソン
徒然.... in California
明子・ミーダー
きょう一日を穏やかに
永島 さくら
ガルテン〜私の庭物語
原田 美佳
バックナンバー一覧
144 「外国人」
143 微妙なたわみ
142 黒い雨
141 ベーコン
140 根付
139 プリーズ
138 キャベツあれこれ
137 スピリチュアル
136 柿と卵焼き
135 移動と定住
134 ベジタリアン
133 王女と真珠
132 七人
131 イディオムということ
130 平等
129
128 名誉殺人
127 ラフカディオ・ハーンのこと
126 楽器
125 ビスケット
124 動物
123 アイヌ
122 ヘクター・ザ・ヒーロー
121 レッツ・リヴ・ア・リトル
120 果実の皮
119 コンニャク問答
118 安岡力也の生涯
117 事実は小説より奇なり
116 レイルウェイマン
115 火を起こす
114 ふし穴
113 ジュリー・デューティー
112 目玉焼き
111 歌に歌われる
110 組織
109 人種差別
108 丸い足
107 宗教と女性
106 ディーベンコーン
105 神の味噌汁(みそしる)
104 健さんと平戸
103 バグパイプ考
102 ないです
101 聖地
100 マッカンチーズ
99 再造の恩(2)
98 再造(さいぞう)の恩(1)
97 行水
96 かまわぬ
95 本場もの
94 グーリックさんのこと
93 ケセラセラ
92 日本人の肖像
91 センス・オブ・ワンダー
90 カティ・フラードのこと
89 屋根瓦(やねがわら)
88 一人っ子政策
87 文化の違い
86 干し野菜
85 恐れを知らないギター
84 銀シャリ
83 ターナー
82 デリシャス
81 モハメッド・アリの大勝負
80 ハンマーダルシマー
79 白無常(はくむじょう)
78 アメリカいれずみ事情
77
76 ひつじ
75 ひげにまつわる話
74 ぐちゃぐちゃ
73 宗教の周辺(2)ヘズース
72 宗教の周辺(1)翼と銃
71 となりの芝生
70 ピンピンパンパン
69 帯とバックル
68 レ・ミゼラブル
67 テーブルマナー
66 朝の穀物
65 二人松浦
64 好きこそものの上手なれ
63 パイについて
62 Xのこと
61 琴棋書画(きんきしょが)
60 爪紅(つまべに)
59 絵に描いた餅(もち)
58 ブレーキ
57 シャーロック・ホームズとカレー
56 ポール・マッカートニー
55 野蛮な茶
54 パサディナ
53 複数たち
52 玉米(ぎょくまい)
51 それにつけても
50 はしとさじ
49 ローズバーグ
48 ジャカランダ
47 サンドイッチの話(2)「O.J.シンプソンとハンバーガー」
46 バンジョー
45 ジャージー・リリー
44 工夫
43 かゆのいろいろ
42 ホイットニー・ヒューストンと「ボディガード」
41 イニシャルについて
40 無用の人
39 具眼の士
38 天使も踏むをおそれるところ
37 ビスカイーノ
36 サンドイッチの話(1)「センス・オブ・プロポーション」
35 パトリシア・ハイスミス
34 茶飲み話
33 柴五郎とジョニー・ビーハン
32 戦場のゴムぞうり
31 やきもの
30 記憶としての絵
29 アイリッシュ・ミュージック
28 乳と蜜の流れる土地
27 レディ・ハミルトン
26 Mto.
25 『チャイナタウン」
24 ドライ・ランチ
23 プリンス談義
22 帽子の話(3)「新撰組」
21 アメリカの大学から
20 帽子の話(2)「衣冠を正す」
19 帽子の話(1)「男はつらいよ」
18 マイ・バレンタイン
17 理想
16 ビリー・ザ・キッドの恩赦
15 おらんだ正月
14 シャーベット(下)
13 シャーベット(上)
12 カナダロッキーへの旅―最終回
11 カナダロッキーへの旅―11
10 カナダロッキーへの旅―10
9 カナダロッキーへの旅―9
8 カナダロッキーへの旅―8
7 カナダロッキーへの旅―7
6 カナダロッキーへの旅―6
5 カナダロッキーへの旅―5
4 カナダロッキーへの旅―4
3 カナダロッキーへの旅―3
2 カナダロッキーへの旅―2
1 カナダロッキーへの旅―1
ページトップへ
Copyright(C) FORUM INFONET, All rights reserved. Copyright(C) FORUM INFONET, All rights reserved.
掲載の記事・写真・イラスト等、全てのコンテンツの無断転載・複写を禁じます。
0 7 7 9 1 4 1 3
昨日の訪問者数0 5 8 7 1 本日の現在までの訪問者数0 1 6 7 8