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99 イコン異聞 (日本人イコン画家 山下りん)
2009年1月13日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。





























































イコン異聞 (日本人イコン画家 山下りん)


「イコン」という言葉をご存知ですか? ロシア正教など、キリスト教の東方教会で熱心に使われている平板の絵のことでして、宗教的な崇拝の対象とされるものです。とくにロシア正教などは、イコンなしでは宗教活動は考えられないと言ってもよいと思います。

上の3枚の写真中、上段と中段の2枚は、そのイコンの典型的なものです。下段の1枚も、もちろんロシア正教会のために描かれたイコンなのですが、表現の仕方が上の2枚とは、ちょっと違っているように感じられませんか?

イコンには本来、作者というか、画家の名前は作品に残さないという原則があり、いつの時代に描かれたものか想像はできても、誰が描いたものかは不明な場合がほとんどです。

上の3枚のうち、上と中央の2枚は、この原則通り作者不明のイコンです。でも、下の1枚だけは、例外的に作者がわかっているのです。なぜかと言うと、それを描いたのが日本人の画家(女性)だったからです。明治時代、日本史上最初の女性画家としてヨーロッパというか、ロシアに留学した、「山下りん」という画家によって描かれたものだからです。

ロシア正教のイコンを描いた日本人女性画家が居たなどということは、私は最近までまったく知りませんでした。

私はキリスト教会の信徒ではありませんので、もちろんイコンに宗教的な意味で関心を持っているわけではないのですが、その歴史とイコンが持つ不思議な魅力には、かねがね強い好奇心を持っていました。

イコンの多くは、いわば素人画でして、画家としての高度な技量がそこに表現されているわけではないのですが、ビザンチン美術の影響を受けているためか、妙な魅力を私は感じています。

でも明治時代初期という、鎖国を終え、海外との交流が始まったばかりの時代に、日本からロシアに画家として留学し、イコンを多数描いた日本人女性が居たというのも、たいへん不思議に思えました。

晩年は白内障を患ったこともあり、絵筆を完全に捨てて、郷里の笠間市(茨城県)に隠棲し、波乱に満ちた人生を人に語ることもなく、自然を友とし、毎晩の晩酌を楽しみに、81歳の天寿を全うしたというこの女性の存在は、私の好奇心を大いに刺激しました。彼女の年譜の最後には、こんなふうに書かれていました。

「1918年(大正7年)、61歳の時、故郷笠間に帰る。帰って間もなく、白内障の手術を受ける。その結果、度の強いめがねをかければ、新聞でも何でも読めたようだが、絵筆を持つことも無く、自分の過去などもほとんど語らず、もちろん愚痴も言わず、裏の畑に野菜などを作り、春にはセリなどの野草を摘み、訪れる人も無い生活を、少しも退屈する様子も無く、楽しそうに暮らしていたという。毎日晩酌をを楽しみながら、81歳の天寿を全う。1939年(昭和14年)1月26日逝去。」

さらに、彼女の描いたイコンの1枚は、ロシア帝国最後の皇帝で、1917年のロシア革命後の1918年に処刑されたニコライ2世が、宮殿で暮らした最後まで自室に架けていたのだということを聞き、いったいどんな女性だったのか、ますます知りたくなりました。

そこで調べたことを、まず簡単に年表にしてみます。

1857年(安政4) 現在の茨城県、笠間市に生まれる

1863年(文久3) 6歳で父・重常死去

1872年(明治5) 15歳。 画業を志し、家出。上京するが連れ戻される。

1873年(明治6) 再上京。一鶯斎国周の学婢として、住み込みで浮世絵を学ぶ。

1874年(明治7) 円山派の月岡藍雪に師事。住み込みで日本画を学ぶ。

1875年(明治8) 中丸精十郎に師事。住込みで洋画を学ぶ。

1877年(明治10) 20歳。工部美術学校(現在の東京芸大美術学部)入学。

1878年(明治11) ハリストス正教(ロシア正教)の洗礼を受ける。

1880年(明治13) 23歳。工部美術学校退学。12月横浜出航。ロシアへ向かう。

1881年(明治14) 3月、ペテルブルグのノボジェーヴィチ女子修道院に入る。

1883年(明治16) 4月帰国。女子神学校内宿舎に聖像画家として工房を開く。

1884年(明治17) 3月、神田駿河台に東京大聖堂(ニコライ堂)起工。
           10月、銅版画の習得を理由に、一時正教会を離脱。

1888年(明治21) 8月、神中糸子と箱根・塔ノ沢温泉にスケッチ旅行。

1889年(明治22) 8月、笠間に一時帰郷し、筑波山や大洗に遊ぶ。
           この頃、現在記録にみる最も早期のイコンを制作。

1891年(明治24) 3月、東京大聖堂が竣工。ロシア皇太子、ニコライ2世への献上イコン制作。後に皇帝となったニコライ2世は、このイコンをずっと自室に架けていたとのこと。
  
1903年(明治36) 46歳。4月、ロシアイコンの修復と模写のため京都正教会へ。滞在中、大阪で開催中の第5回内国勧業博覧会を見学。

1909年(明治42) 52歳。この頃、南画家木村香雨に師事、水墨淡彩を習い香渓と号す。

1909年(明治43) ニコライ大主教宣教50年祝典の大聖福音経の聖画挿絵を制作。

1912年(明治45) ニコライ大主教(が76歳で死去。明治から大正へ。

1918年 (大正7)  61歳で故郷の笠間に帰る。以後、笠間に暮らす。

1923年 (大正12)  9月、関東大震災のため、東京大聖堂が全焼。

1939年(昭和14) 1月26日、死去。享年81歳。笠間市の光照寺に埋葬。

人間の一生がこんな年表でわかりはしないという思いはありますが、ざっと書くとこんなふうになるこの女性は、どんな思いで画家を志し、ロシアまで出かけたのでしょうか?

そもそもあの時代に美術学校に入ったり、ましてや海外に留学することができたのは、よほど経済的にめぐまれた環境に居たのだろうと思うのが普通ですが、どうも彼女の場合はそうではなさそうなのです。

以下は、山下りんに関する様々な資料から引用したものです。

1857年(安政4年)、笠間藩主、牧野家に仕える下級士族の娘として生まれた彼女は6、歳の時、父親を失いました。3児をかかえた貧乏士族の母子家庭は困窮の極みにおりました。1872年、15歳の時、「器量ヨシ」とは言い難かったりんを、どこかへ嫁にやろう、という話を耳にしたりんは、大好きな絵の勉強ができなくなってしまうと、家出を決行しました。江戸屋敷詰めの親戚を頼り、東京まで約100キロの道を、徒歩で(千葉県の関宿からは船で江戸川を下ったようです)3日かかってたどりつきました。このときは郷里に連れ戻されましたが、翌年、家族を説得して再度上京。絵の修業に本格的に取り組みました。

1873年(明治6年)に再度上京してからは、画家への道を模索し始めました。よき師をもとめて、浮世絵、日本画とさまよいました。よき師ではない、望みなし、と判断すれば、さっさと次へ。決断したら即実行する決断力と実行力は並はずれていたようです。でもどの時期でも絵に対する取り組みは、真剣そのものでした。この時代に彼女が描いた浮世絵の習作が現在も笠間市にある彼女の記念館に残っています。

1875年(明治8年)、西洋画師、中丸精十郎に師事。りんに洋画という新しい世界が開けました。中丸氏は良き師であったらしく、後々まで敬意を持ち続けていたようです。

1876年(明治9年)に設立された工部美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)が「10歳以上20歳以下の女子にて、美術志願の者」を入学させると聞くや、「爪立つほどに」行きたく、「学費の出なく」とも、「試験の様子なりとも見たし」と願書を提出。合格したことから、旧藩主・牧野貞寧に学費の援助を受け、生活費は、当時上京して巡査をしていた兄に見てもらい、わが国最初の女子美術学生(6名)の1人となりました。

工部美術学校時代の師は、イタリア人、アントニオ・フォンタネージという人物でした。首尾一貫した美術教育で、学生達の大いなる信頼を勝ち得ていました。学生には、すでに洋画家として名をなしていた山本芳翠、五姓田義松、そして、後にわが国の洋画を背負う浅井忠、小山正太郎、松岡寿などが居ました。その他。中丸精十郎も学生の1人となりました。

りんは、この時期、自分の求めていたものに出会い、遠近法や、論理影法など、描くことの喜びに満ち溢れながら、乾いた土が水を吸うように学んでいったとのことです。

しかし、残念なことに先生のフォンタネージは、脚気の悪化により、明治11年9月に日本を去ってしまいました。後任の教師フェレッティは、技術、品性ともに下等であるとして、小山、松岡といった主だった学生が大挙して退学する事態が発生しました。この混乱の後、明治13年アッキレ・サンジョヴァンニが赴任しました。りんは月謝も免除され、助手にも任命されたのですが、フォンタネージへの思い入れが強く、新しい師への不満から結局、美術学校を退学してしまいました。その直後は、昔習った日本画で、うちわ絵の内職などしながら生活したのだそうです。でも兄は巡査を辞めて始めた事業に失敗し、一家は困窮状態に。

これより前、1978年(明治11年)、りんはハリストス正教に入信、聖名イリナを授けられました。工部美術学校の同窓に山室政子という人物がいたのですが、彼女は17歳で長野県から単身上京し、ニコライ神学校から学費と昼食費を出してもらい、美術学校に通っていました。他の女子学生達は、経済的にめぐまれて、何不自由のない生活をしている中で、歳も近く窮乏状態のよく似た2人は、仲が良かったのだと思われます。山室政子に連れられ、正教会を訪れるうちに、ニコライ大主教の人柄に傾倒し、りんも入信したものと思われます。

ちなみにニコライ大主教とは、今も神田駿河台にありますニコライ堂を建てたロシア人宣教師です。1861年(文久元年)に25歳で函館に到着。日本語をはじめ、日本史、儒教、仏教などを学び、古事記や日本書紀も読破するほどの博学者であり、強い使命感を持って布教に当たった人物だったそうです。

ニコライ大主教は、正教の聖堂に必要な聖像画や、布教に必要な石版の聖像画を描く日本人画家を育てようと考え、山室政子をロシアに留学させる手筈を決めていたのですが、山室政子は、明治13年、美術学校を退学して結婚してしまいました。そのため山室の留学が不可能になり、その役割が、突然りんのところへ来てしまったというのがコトの経緯のようです。人生はどこで何が起こるのかわからないものですね。この結果、十分な準備もないままにりんは、5年間の予定でロシアに留学することなったのです。

りんは本来、西洋画を学び、描くことに強い関心を持っていたのですが、ニコライが彼女に、ロシアに行けば、イコンの勉強をするかたわら、西洋画の勉強も可能だと言ってくれたことがりんの決断を生み出したように私には思えます。

こうして、1880年(明治13年)12月12日、横浜から船に乗り込んでロシアに向かうりんの長旅は始まりました。

香港、サイゴン、シンガポール、セイロン、アデンと、各港に寄港しながら進みました。最初は、船酔いに悩まされていたようですが、次第に慣れ、日記の中には、その土地のスケッチや、海の色の変化なども記されているのだそうです。紅海を北上、スエズ運河を抜け、ポートサイドへ。アレキサンドリアで船を乗り換え、トルコのイズミールに寄り、イスタンブールに着きました。ボスフォラス海峡の雪景色をながめつつ黒海に入り、ついに目的の港オデッサに、1月30日に辿り着きました。上陸後、同行者の都合で、あちらこちらと滞在しながら、ペテルブルグへは、3月10日に到着。女子修道院に入るまで、ペテルブルグのホテルに6日間滞在という記録が残っているようです。

こんなふうに見ると、優雅な船旅のようにも思えますが、実態は惨憺たるものだったようです。まず十分な費用のなかった彼女のためには、船室は用意されていなかったのだそうです!(ロシアに帰る宣教師の家族に同行する者として、いわば召使い扱いだったのでしょう) 食事はといえば、上等客の残り物が中心でした。航海中はずっとそんな状態が続いたのだそうです。南半球に入り、暑い時は、甲板で寝ていました。でもそんなひどい状態でも、若さと意欲がなんとか彼女に長旅を乗り切らせたのだろうと思います。

3ヶ月かかってやっとペテルブルグに到着して宿に着いた直後に大きな爆発音を聞き、自分達が通ってきた道路上で、ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されたと聞きました。混迷を深めていたロシアで、ナロードニキの流れを汲む「人民の意志」党員の投げた爆弾によって皇帝が暗殺されたのです。波乱の多かったりんの留学生活はこうして始まりました。

りんが生活をしたのは、ペテルブルグのノボジェーヴィチ女子修道院でした。敷地内には、聖堂はじめ、寄宿舎、病院などに、庭園や菜園、墓地もあり、300人くらいの修道女が生活していたようです。ここで、彼女はイコン制作を学ぶこととなりました。

4月6日、ロシア美術アカデミー教授のヨルダンが絵の指導に修道院に来ました。彼は定期的に来ては修道女達に絵画制作の指導をしていたのだそうです。ヨルダンは、りんの才能を認め、美術アカデミー入りを勧めてくれました。(もちろん、費用的にも、立場的にもそれは実現することはありませんでしたが。)

まもなくりんは、エルミタージュ美術館で、絵の模写を始めました。エルミタージュと言えば、現在でもルーブルと比べられるほど膨大な絵画コレクション持つ世界有数の美術館です。りんはおそらく天にも昇る気持であったことでしょう。

彼女はまず強い関心を持っていた西欧絵画や宗教画(ローマカトリック系)を中心に模写しました。でもそれはロシア正教や修道院にとっては、決して好ましく思えることではありませんでした。ラファエル等のローマカトリック系の宗教画と、伝統的なロシアイコンとは明らかに異なるものであり、修道院側にとっては、りんが本来学ぶべきイコンを軽視しているように思えたからです。

さらにまた、その当時のロシアでは、高まってきた国民主義とともに、ギリシャから伝わった奥行感のない、平面的で伝統的なイコンを尊重するようになっていました。

修道院側では、次第に彼女のエルミタージュ行きを嫌うようになり、11月にはついにエルミタージュへ行くことを禁止してしまいました。修道院の中で、イコンの勉強をするようにと強制したのです。

美術学校時代に、イタリア人フォンタネージに、本格的な洋画を教わっていたりんには、遠近法のないギリシャ風イコンはどうしても好きになれず、それらを「ヲバケ画」と呼び、嫌っていました。イタリア画を描きたい。「絵ノ勉強に来ているのにギリシャ画を強いられるのはつらい」というのが彼女の真意であったと思います。

おまけにイコンの指導者とはいっても、修道女達はしょせん素人であり、彼女達の描く絵は、りんにとっては決して絵画としての芸術的価値を持ったものではなかったのです。りんは本来画家になりたかったのであり、絵画の勉強をしに来たつもりでした。でもそれが自力では不可能だったために、経済的、環境的手段としてロシア正教のお世話になったというのが彼女の本心だったのだろうと思います。

これに対して受け入れ側はロシア正教の修道院であり、あくまでも、りんは今後の日本における布教に役立てるために、イコン画を勉強しに来ている「修道女見習い」でした。ですから、りんに信仰と布教のための修行に全知全霊を要求したわけです。

そのうち、聖書がきちんと読めなかったり、祈りの時間に遅れたり、外出が多かったり、という状況の中で周囲との軋轢が生じ、ついにエルミタージュ行きを禁止されてしまいました。ロシアに到着してから8ヶ月ほど経った頃でした。その後、周囲との軋轢はますます悪化し、ついには体調を崩して、寝ついてしまう状態になりました。

現在でしたら通信手段が発達していますので、瞬時に日本と連絡が取れますし、東京のニコライ大主教と相談もできたことでしょうが、当時は手紙が日本に届くのには3ヶ月かかっていたそうですから、返事を手にするのは半年後ということになり、こうした問題の解決にはまったく無力でした。

結局りんは異国で孤立し、進退窮まって、1883年(明治16年)3月、5年間の予定を切り上げ、ペテルブルグ到着後ほぼ2年でロシアを離れました。それなりに少なくない旅費がかかったはずでしすから、ロシア正教側としても、現地と日本のニコライ大主教との間で話がまとまったのでしょう。

帰国後、彼女は神田駿河台にアトリエを与えられ、全国各地に竣工された教会のために、イコンの制作に従事しました。その数は300点を下らないと言われています。

1891年(明治24年)、ロシア正教会東京大聖堂が竣工しました。この年、日本を訪れたロシア皇太子(あのニコライ2世です)への献上イコンを制作しましたが、大津事件(日本側の警備警官が、皇太子を襲撃して負傷させた事件)が起こったため、皇太子の東京大聖堂来訪は中止となり、このイコンは、神戸港停泊中の軍艦の上で献呈されました。現在、エルミタージュ美術館に保管されているそのイコンが、ニコライ2世がその後ずっと自室に架けて使っていたものです。

1912年(明治45年)には、日本のニコライ大主教が亡くなりました。りんの人生に深く関わったこの人物の死は、彼女に極めて大きな喪失感を与えたことは間違いないと思います。

その後数年間は、イコンの制作を続けましたが、1917年(大正6年)、ロシア革命が起こりロシアからの日本正教会に対する本国からの支援や送金は完全に途絶え、自身の白内障が進んできたこともあり、この時期に郷里の笠間へ帰る決断をしたようです。

こうしてみると、山下りんという女性は、絵の才能にめぐまれ、絵を描くことが本当に好きな人物であったことが想像できます。そしてまた、極めて強い決断力と実行力を持っていた人であることも。

晩年、波瀾万丈であった自身の人生をどんなふうに思って過ごしたのでしょうか? 自然を友とし、晩酌を楽しみにして、様々な体験のことを他に語るでもなく、悠々と生きていたようですね。

笠間市と言えば、笠間稲荷神社で知られていますが、たしか日動画廊の創業者の長谷川さんも笠間市のご出身でした。郷里に笠間日動美術館を設けておられるくらいですから、ご縁が深いのでしょう。この町からこうした絵画の愛好家が出て来たバックグラウンドには、先人の山下りんさんも何かの形で影響を与えたのかもしれないなと私は思っています。

明治という近代日本の黎明期に、ここまで思いきって行動した日本人女性が居たことに、私はある種のうれしさを感じています。笠間市にある彼女に記念館、「白凛居」にも実は訪れたことがあるのですが、このエッセイは既に十分過ぎるほど長くなっておりますので、そのことはまた次回に書かせていただきます。

ビザンチン美術の影響を受け、ロシア正教には欠かせないイコンと、こんなふうに関わり合った日本人が居たことを知って、私も1枚持っているイコンをあらためて見直しました。先人にはこんな人も居たのですね。



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