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縁の下のバイオリン弾き
76 ひつじ
2013年8月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 「神の子羊」フランシスコ・デ・スルバラン(スペイン、1598-1664)作。
「神の子羊」は人類のためにいけにえになったキリストを象徴する。
今の小学校ではもう歌わないのかもしれないが、私のこどものころは唱歌を歌わされた。「ウサギオーイシアノヤーマー」とか「ハルコーローノハナノエンー」とかいうような歌で、むずかしい漢語が入っていることがつねだった。それをわけもわからずに歌っていたものだ。「蛍の光」なんかパズルみたいだ。「いつしかとしもすぎのとをあけてぞけさはわかれゆく」なんてところは「年も過ぎ」と「杉の戸」が掛け言葉になっている。そんなことが小学生にわかるはずがない。

そういう歌のひとつに「箱根の山」があった。「箱根八里」というのが本当の題名らしいが「ハッコネーノヤッマワー、テンカノケンッ」と歌いだされるので「箱根の山」というのが名前なんだと信じていた。

その歌詞のすべてがむずかしい。なにをいっているのかわからない。とくにわからないのは「ヨーチョーノショーケーワー、コーケーナッメラカ」というところで、いや「苔滑らか」はわかるのだが、「ヨーチョーノショーケー」というのがわからない。

今考えてみるとわからなかったのも無理はない。「ヨーチョーノショーケー」はとても日本語とはいえない。

これは「羊腸の小径」と書く。小径はこみち、という意味だ。羊腸は読んで字のごとく羊の腸だ。私は見たことがないけれど、羊の腸は細くて長いのだろう。そして腸は腹のなかで何重にもおりたたまれておさまっている。それで「羊腸の小径」はぐるぐるとまがりくねった細い山道をあらわす。

お察しのようにこれは中国できの言葉だ。だれが日本に紹介したのかわからないが、中国でだってめったに使われない詩の中の言葉だ。

私が「日本語ではない」と思うのは「羊の腸」が日本ではたとえとして成立しないからだ。中国でなら、羊腸といえばあるイメージを人々に与えるのだろう。実際に羊を殺してその肉を食べるから、腹を割(さ)いたときにどっと流れ出るはらわたを見慣れた者には羊の腸が山道のたとえに使われてもそれほどとっぴだとは感じられなかったかもしれない。

しかし明治になるまで日本には羊はいなかったし、だいいち動物を屠殺する、ということをしなかったのだから、羊の腸なんていわれてもクジャクの舌ほどにもイメージがわかなかったにちがいない。

歌は聞く相手にうったえかけたいからこそしらべにのせるものだろう。聞いてもわからない歌をなぜ作るのだろうと小学生の私は憤慨したものだ。

おなじことは「羊頭狗肉(ようとうくにく)」という成語にも言える。これは「羊頭をかかげて狗肉を売る」、つまり「看板には羊の頭を出して羊肉を売ると見せかけながら、実際には犬の肉を売る」ということで、ごまかし、あげぞこの意味に使われる。うわべだけ飾って腐敗している政治家とか、鳴りものいりで作られたが台風でひとたまりもなくくずれてしまった土木プロジェクトとか、使い道は広い。

でも日本人がなぜこんな言葉を輸入しなければならなかったのか。これを使って文章を書いても、書いた本人が羊頭など見たこともなく、まして犬の肉を食べた経験なんかない。中国人には実感のあることばだったろうが、日本人にはまったく縁のない絵空事(えそらごと)でしかない。

もっとふしぎなのは「ようかん」だ。あれは「羊羹」と書く。羹は「あつもの」と読む。ポタージュ風のスープという意味だ。だから字義どおりにとれば「羊の肉のスープ」ということでなぜそれがお菓子の名前になっているのかわからない。

ウィキペディアの解説によると中国の羊のスープの煮こごりが原型で、肉食を禁ずる仏教の寺では肉を小豆(あずき)に換えたのだと書いてあるけれど、どうだか怪しいものだと私は思う。精進(しょうじん)料理では肉の代用品は豆腐であって、豆を肉のかわりにするなんて聞いたことがない。

煮こごりは作ろうと思って作るものではない。残り物のスープが自然にかたまったものだ。骨付き肉のスープはゼラチンがあるからひやせばそのまま煮こごりになるけれど、冷蔵庫のある現代とちがってそれができるのは室内でも物が凍る厳冬の季節だ。そんな寒い時分に、火にかければ温かいスープになるものをなぜ冷たい煮こごりで食べなければならないのか。ことさら冷たいものを食べないので有名な中国人だ。

それが日本に渡って来たというのだが、豆を煮てそれに寒天を加えてひやしてまで煮こごりに似せる必要があるだろうか。しかもせっかくそうやって似せてつくったものに砂糖を加えてもとの料理とはまったく別の味にしてしまったというのが納得いかない。単純におしるこを固めたものだと考えた方がはるかに合理的だ。  

私の勝手な推測だけれど、羊のスープは中国で「おいしい」ものの代名詞だったのではないだろうか。その言葉が日本に渡って来て、羊とまったく関係のない「ようかん」でも、「羊のスープのように」おいしいということになったのだろう。

日本で豆腐に野菜をいれて油であげたものを「がんもどき」という。この名前は「がん(雁)のようにおいしい」ということで、実際には似ても似つかない味だけれど、おいしいという一点でこの二つは重なる。それと同じことではないだろうか。

それを裏付けるものとして私は「美」という字をあげたい。あれは「羊」と「大」を組み合わせて作った字だ。古代の中国人には大きな羊は美しいながめだったわけだ。それは食べておいしいからだろう。豚肉だって牛肉だっておいしいはずだけれど、中国人は羊を選んだ。それだけ羊が特権的に「うまい」と思われていたからだ。したがって「羊のスープ」は十分おいしいものの代表になり得る。

でも日本人はそういわれてもとまどうのではないだろうか。なぜかというと日本では羊の肉が手に入るようになってからも長い間人気がなかったからだ。それは羊独特の「臭気」のせいだ。あのにおいのせいで羊は歓迎されず、したがって値段も安かった。

そのために昔日本ではほとんど羊を食べなかった。私は十代のころ海外に行く日本の探検隊の事跡を好んで読んだのだけど、イスラム圏に行った人々は羊しか肉がないのにそれが食べられず、キリギリスのようにきゅうりばかり食べてやせほそって帰って来た、なんて書いてある。

当時イスラムに興味を持っていた私は情けない、と思った。そんなことでは海外に行く資格はない。イスラム圏のことを研究するのにそこの食事が食べられないようではろくな研究ができるはずがないではないか。私ならどんなににおいが強かろうともきっと食べてみせる、とそこは世間知らずの少年だからかわいそうな探検隊員を大上段で切って捨て、将来イスラム圏に行って羊を食べることを心に誓った。またこどもができたら羊の肉を食べさせようと思った。獣肉としての味も栄養もある安いものをたっぷり食べさせるほうが高い牛肉を食べさせるよりもいいに決まっているではないか。

はじめて羊を食べたのは香港でのことだった。最初に行った時にYMCAに泊まった。香港には「ヨーロッパ」YMCAと「中国」YMCAとYMCAがふたつあった。前者は九龍半島突端のスター・フェリーのすぐ前にあって地の利はよかったけれど、ふるいレンガ造りのたてものだった。

その中に食堂があった。窓には重いカーテンがさがり、白いクロスのかかったテーブルの間を年配のウェイターが腕にナプキンをかけて動く、といった重厚な雰囲気だった。しかしかんじんの食べ物には驚かされた。たとえばサラダを頼むと皿にきゅうり、トマト、ビーツなどの薄切りがそれぞれ一列に並んでいるものが出てきた。たぶんそのころ(1960年代後半)のヨーロッパでは実際にああいった貧弱なものをサラダといって食べていたのだろう(アメリカが世界の食事にもっとも貢献したものはハンバーガーではなく、サラダの概念だと思う。新鮮な野菜を思うさま食べるというのはアメリカ人の発明だ)。

しかしメイン・ディッシュはなかなかよかった。私はここではじめてローストした若鶏の半羽分を一人前として食べるという経験をした。

また「ラム・チョップ」を食べた。待ちに待ったあげくのことだから感動した。つけあわせとしてポテトの丸焼き、ゆでたグリンピースとにんじんがついた。今でもラム・チョップを食べる時にはこれらの野菜がほしいと思う。

ラム(仔羊)は牛にくらべて小さく、ステーキにするような大きな肉がとれないので、骨ごとたたき切る(チョップする)からラム・チョップという。

イギリス流の食べ方ではラム・チョップにはかならずミント・ソースあるいはミント・ジェリーがつく。日本ではミント(ハッカ)の香りでくさみを消しているのだと思われているようだが、私には異論がある。臭みとはいうものの、それは獣肉全般につきもので、文明開化の明治初期日本では豚肉だって牛肉だって堪えられない臭気だと感じられたはずだ。

イギリスの小説にはいい年をした上流階級の奥さんが皿をさげようとする召使いに「ちょ、ちょっと待って。もう少しそのマトンを食べなくっちゃ!」と叫ぶ、などという場面がある(マトンは成長した羊の肉)。イギリス人はとにかく羊肉が好きなのだ。そういう人たちがくさいと思うわけがない。

「さしみはなまぐさいからわさびでにおいを消すのだ」と外国人に「解説」されたらあいさつにこまるでしょう。我々は別ににおい消しにわさびを使っているのではない。おいしいから食べるのだ。ミントもそれと似たようなものだと思う。

イギリス人の友人はこどもの頃夕食が羊だということになると必ず庭に生えているミントをつまされたという。これをきざんで酢と砂糖をまぜたのがミント・ソースだ。

そうやって私は羊にやみつきになった。中国料理でも羊をよく食べた。こちらはラムではなく、つねにマトンだった。しゃぶしゃぶとかジンギスカンとか日本で知られた羊料理はみな中国に源流がある。

羊は脂肪が一番臭気が強い。ところが私はそのにおいがこたえられない、というところまで羊にいれあげていた。

香港のタイポーという町に本格的なカレー屋があった。そこのおやじはシンガポールから来たポルトガル人で、ポルトガル人といっても何百年もアジアで生きて来たポルトガル人の家系だった。祖国ポルトガルを見たこともないというこのようなポルトガル人は多く、彼の外貌は混血のためもうまったくのインド人だった。

私はそのおやじと仲良くなったのだが、かれがあるときこういう話をしてくれた。「シンガポールの一番安いカレーは羊のカレーで、羊のカレーといっても肉なんか全然入っていない。カレー汁の上に溶けた羊の脂肪が1センチものっていようかという代物で、これをナン(パン)ですくって食べる。私の親友の医者はこれが大好きで毎日食べて心臓病で若死にした。脂肪は健康に悪いんだ」。彼は私に健康上の注意を与えてくれたわけだけれど、私はその話をきいてぜひシンガポールにいってその羊のカレーを食べたい、と思ったのだからすくわれない。


いまでは日本でもラム・チョップなんかめずらしくない。「安い肉」だったのはむかしばなしだ。

かんじんのイスラム圏にはマレーシアとインドネシアに行ったことがあるだけで、羊の肉しか食べるものがないというような国には結局いかずじまいだ。そして私にはこどもがいないから、こどもに羊肉を食べさせようという計画は水の泡と消えた。
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