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縁の下のバイオリン弾き
78 アメリカいれずみ事情
2013年9月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 日本人が描いた九紋竜史進。歌川国芳(1798−1861)筆。
▲ 中国人が描いた九紋竜史進。陳洪綬(1598−1652)筆。

トム・ハンクスが製作、監督、主演した「幸せの教室」(2011年)という映画がある。学歴が高卒であるがためにスーパーをリストラされたまじめな中年男が奮起して大学の授業をとり、そこの先生をしているジュリア・ロバーツと恋に落ちる、という話だ。

その中に同級生の女の子が漢字のいれずみをかれに見せる、という場面がある。女の子は「日本語で勇気っていう意味なのよ」と自慢するが、ハンクスが見ると「醤油」という字だ。かれは職業柄その字を毎日目にしていた。それで「こりゃ中国語だ。ソイソースって書いてあるよ」と教えてあげる。

私は漢字がわかるからこの場面はおもしろかったけれど、アメリカ人にとってこれがユーモアになるんだろうか。漢字が読めなければ女の子が言っていることが正しいのか、ハンクスの言うことが正しいのかすら判断できない。それではおもしろいはずがないじゃないか、と思う。

日本語も中国語も全然わかっていないハンクス監督がこういう場面をわざわざ入れたのにはそれなりの理由がある。それはアメリカの若い人のあいだでいれずみが爆発的に人気がある、という事情だ。日本でもだんだん同じようになっているのかもしれないが、日本ではまだ人目につくようないれずみの露出は少ないようだ。ところがアメリカでは「せっかくいれずみをいれたんだもん、見せなきゃ損だ」という感じでこれみよがしに見せつける。

夏の南カリフォルニアは軽装が多いから、ちょっとおおげさにいえばどこを向いてもいれずみばかり、ということになる。この流行は10年や20年ではきかない。いい年をしたおじさんおばさんまでいれずみをみせびらかすしまつだ。ハンクスはそういう風潮に対してひとこと物申したかったのではないだろうか。

私がアメリカに来たころはそんなことはなかった。いれずみはまだ日陰の存在でいれずみをいれるのは水兵とかオートバイ・ギャングとかにかぎられていた。しかも高いいれずみ文化を誇る日本から来た私から見るとデザインも技術も見るからに幼稚で問題にならない。

30年ぐらい前にサンフランシスコ近辺のオークランドという町でバスに乗ったら、目の前のシートに腰掛けている老人の首にいれずみがあった。首をぐるりととりまいて点線が彫ってあり、その下に「キリトリ線」と書いてあった。そんなのがまあ「考えたなあ」と思わせるブラックジョークであとはどくろとか十字架とか女の絵とか、ありきたりのものばかりだった。

その頃にはテレビのトークショーにいれずみ師がでてきて「私どもはみなさんにいれずみをいれろなんて申しません。ですからみなさんも私どもに『いれずみなんかするな』とおっしゃらないでください」と弁解ぎみにのべていた。社会からは特殊な人々が属する特殊な文化、と見られていた。

それがあっというまにメジャーな文化になった。ロックスターが競っていれずみを入れたのも影響しただろう。「かっこいい」ということになってまたたく間に若者の間に浸透した。

私のクラスで作文を書かせると「きのうはじめていれずみをいれました。僕はいれずみは肉体を使った立派な芸術だと思います。これからももっといれたい」というようなことを書く学生が出て来た。

橋下徹大阪市長が市の職員はいれずみをいれてはいけない、と規制した時にはクラスでディスカッションをした。「それが日本の文化なんだからしかたがない」という意見もあったが、大部分は「それはプライバシーに属する問題だ。とくにこの条例以前に市に職を得たいれずみ人が解雇されるのであれば納得できない」というような意見のほうが多かった。

アメリカのいれずみでは「幸せの教室」にあらわれたように漢字は人気がある。だれも読めない、というところがいいらしい。しかし一歩間違えると悲惨なことになる。もっとも「醤油」という字を彫るほど物を知らない、考えの足りないいれずみ師がいるとは思えないけれど。

漢字文化から来たいれずみ師が彫ったのか、漢字になじみがない者が見よう見まねで彫ったのかは一目で分かる。筆勢、画、左右前後の配分などが全然ちがう。こればかりは漢字を知っている者に彫ってもらわなければ(私から見て)目も当てられぬことになる。

私が記憶している最初の漢字のいれずみは街でみかけた「大麻」といういれずみだった。腕に端正に小さく彫ってあった。マリファナ愛好者だったのだろうが、直接にマリファナと書いてはさしさわりが多いので漢字を使ったのだろう。

またあるときレンタルビデオ屋に入ったら白人の男の店員が首のあたりに大きな漢字の入れ墨をしている。「痛苦」と読める。痛苦は苦痛という意味の中国語だ。

「はて、またなんだってこんないれずみをしたんだろう」と首をひねってはっと思い当たった。これは「ペイン・イン・ザ・ネック」(首の痛み=厄介者、ろくでなしという意味)を形にあらわしたものに違いない。この店員は自分が厄介者であることをいれずみで世間に表明したのだが、わざわざ中国語でそれをやったのだ。ちょっとこり過ぎだと思う。一体だれに理解してもらおうというのだ。第一にこの漢字が読めてその意味がわかる者でなければならない。その字を首にいれずみしてあるのを見て、「ペイン・イン・ザ・ネック」という英語の慣用句を思い出せる人間でなければならない。たまたま私はそれができたけれど、我ながらよくわかったと思うほどで、そんな人間に出会う可能性はほとんどないといってよかろう。自己満足もここまでくると度を超している。何にも言わずに店を出たけれど、いま考えてみると彼の屈折した自己陶酔の努力に対して、(私が理解したから)それはむだではなかったよと言ってやればよかったと思う。

私が勤めていたカリフォルニア大学サンディエゴ校は演劇学部が有名で全米にその名がとどろいている。学生による芝居の公演で「欲望という名の電車」を見たことがある。スタンリー・コワルスキーを演じた役者がシャツを引き裂くと肩に大きく「演劇」と漢字でいれずみしているのが見て取れた。これなんかも「誰にも読めない」ということが前提になっているから許されることで、日本でこんないれずみをしていたらそれだけで配役から下ろされてしまうだろう。

今でもやっているかどうか知らないが、サンディエゴの南、ほとんど国境に近いインペリアル・ビーチという街の海岸で昔は夏に「ジャズ・アンド・チリ・フェスティバル」というのをやっていた。このチリというのは正式名を「チリ・コン・カーン」といってアメリカの軽食堂でこれを出さない店はないというほど普及している豆シチューだ。

この「チリ」の料理自慢が集まってコンテストを開くのがこのフェスティバルだ。海岸にはたくさんのチリの屋台がでていて、特設舞台ではジャズを演奏している。人々はチリを味わい、一番と感じた店の名を投票用紙に書く。

ある年その屋台の一軒でチリの鍋をかき回している水着の女の子の肩に「慾」という一字を見かけた。女の子は16、7歳だと思われた。そのいれずみは一目で漢字を知っている者が彫ったとわかる美しいものだった。「どこで彫ったの」と聞いたら「サンフランシスコの中華街よ。この意味わかる?そう?クール!」と無邪気に喜んでいる。

彼女の気持ちを傷つけたくなかったのでなにもいわなかったが、私は「慾」一字ではいかにもまずい、と思った。本当は「ディザイア」を表したかったのであろう。ディザイアは「欲望という名の電車」の原題「ア・ストリートカー・ネイムド・ディザイア」にもでてくる。欲望といっても、のぞみ、願い、あこがれなどの多様な意義をもつ奥深いことばだ。しかし「慾」だけだと私には「欲ぼけ」とか「欲の皮が突っ張った」とかいう連想しか浮かばない。「ディザイア」ではなく、「どん欲」という意味の「グリード」になってしまう。花も恥じらう10代の少女にふさわしいとはとても思われない。

漢字を使ったいれずみで一番悲惨な例は私自身が見聞したことではない。日本語クラスの学生がディスカッションの時に話してくれたことだ。彼女の友人がいれずみをいれた。その友達は「これは愛という意味なのよ」というのだけれど、漢字がわかる彼女が見るとそれは「菜」という字だったという。

私はいれずみをしたことはない。古風な人間なのでいれずみには反対だ。でも純粋に美術的に考えると日本のいれずみにまさるいれずみはないと思う。現代のいれずみには昔考えられもしなかった色彩と目をおどろかす斬新なデザインがあふれている。それでも私は日本の伝統的ないれずみの洗練にはかなわないと思っている。なにしろ江戸時代には浮世絵師が原画を描いていたのだ。

香港にいた頃、地元の映画会社が作った「水滸伝」を見た。日本から丹波哲郎を招いて盧俊義(ろ・しゅんぎ)をやらせる、というふうで重厚な役者がとぼしいのが難だったが、血気盛んな若手俳優には事欠かなかった。その中で当時人気絶頂だった姜大衛(きょう・だいえい=David Chiang)という田村正和に似た俳優が九紋竜史進(くもんりゅう・ししん)を演じた。

姜大衛はやさ男でほかのアクション俳優のようにすぐに肌脱ぎになる肉体を持っていなかった。それで仕方なくシャツのようなものを着て登場したのだけれど、そのシャツの襟元からのぞく胸にみみずのようなものが何匹かいれずみされているのを見て私は目を疑った。これが「九紋竜」のあだ名のもととなった九匹の竜か。そんな馬鹿な!

その時私は中国のいれずみが日本の物とはずいぶん違うことをはじめて実感したのだった。私は中国のいれずみにくわしいわけではないが、映画に出すからにはこれが中国人の平均的ないれずみのイメージなのだろう。日本の俱利迦羅紋紋(くりからもんもん)とはいかに違うことか。あんなちゃちないれずみでは梁山泊の「英雄好漢」もかたなしだ。


昨年なくなったレイ・ブラッドベリの初期の作品に「ザ・イラストレーテッド・マン」(邦訳「刺青の男」)という短編集がある。イラストレーテッドというのはイラストを施した、という意味でこの場合は全身にいれずみを入れている男をさす。「絵入り人間」というわけだ。

欧米では昔全身にいれずみを入れた男女がカーニヴァルなどで見せ物になっていた。そういう西洋の絵入り人間の写真を見ると小さないれずみを体中になんの脈絡もなくばらばらに彫り込んでいる。ブラッドベリの短編はだからそのひとつひとつのいれずみがきっかけになって話が始まる。

私が日本のいれずみの特徴だと思うのは、たとえば唐獅子牡丹とか鯉の滝登りとか不動明王とかのデザインをある統一された構想のもとに背中いっぱい、あるいは体全体をキャンバスにして展開することだ。大画面なのである。 今でこそ欧米でも珍しくないが、それは日本の伝統的ないれずみの影響だろう。

しかも着物の襟が合わさる所にはいれずみをいれず、まっさらの肌とけんらんたるいれずみとの対照を楽しむ。そういう美意識は独特だと思う。また当時色が青(墨)と赤(朱)に限られていたのも制約だったにはちがいないが、かえって創造力をうながしたのではないだろうか。


日本に留学していた私のクラスの女子学生が背中に小さないれずみ(天使の翼だそうだ)をしていたので温泉に入ることができなかった、となげいていた。アメリカではいれずみはいまやファッションだから、それが原因でまわりから白い目で見られる、などということは想像もおよばないことだったにちがいない。
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