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縁の下のバイオリン弾き
81 モハメッド・アリの大勝負
2013年11月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 1968年4月号のエスクワイア誌の表紙。「モハメッド・アリの受難」というキャプションがついている。タイトル剥奪・有罪判決をうけて撮影された。「聖セバスチャンの殉教」を踏まえた「やらせ」で、矢は本物ではない。
「モハメッド・アリの大勝負」という映画を見た。テレビ映画で今年製作されたようだ。

そのタイトルから当然アリの数々の名勝負を見せるものだと思ったが、じつはそうではなく、タイトルの大勝負はアリとアメリカ合衆国との間で闘われた法廷闘争を意味していた。

よく知られているようにモハメッド・アリ(1942 - )はもともとカシアス・クレーという名で、ローマオリンピックで金メダルをとったあとプロに転向した。また「ネーション・オブ・イスラム」に改宗し、正式に名をモハメッド・アリに改めた。現在の黒人の名前はすべて先祖が奴隷であった時に白人から与えられた「奴隷としての名前」だからだ、というのが理由だ。

ベトナム戦争に徴兵された時「良心的兵役忌避者」として軍隊に入隊することを拒否した。これはけんけんごうごうの議論を全米に巻き起こし、アリは世界ヘビー級チャンピオンのタイトルを剥奪(はくだつ)された。また起訴されて有罪・懲役(禁固5年、罰金1万ドル)の判決を受けた。アリはすぐに控訴し、その闘争は3年以上続いた。

映画ではこの控訴をめぐっての最高裁内部の判事たちの確執に焦点があてられている。最高裁は9人の判事で構成されるが、ただ一人の黒人の判事はこの事件への関与をみずから放棄したので、審理は白人の8人のみで行われた。

当初はアリの申し立てを認めないばかりではなく、それを認めてしまったら黒人が大挙して「ネーション・オブ・イスラム」に改宗し、大量の兵役忌避者を出すのではないかと懸念する判事もいた。

映画は一人の判事の勇気ある投票によって全員がアリの無罪を確信するまでの経過を描く。

アリはひんぱんに現れるけれど、それは役者がかれを演じているのではなく、当時のニュース映画やインタビュー番組からとったイメージを使っている。つまりアリ本人が出演しているわけだ。あの頃アリは超有名人だったから、そういう映像は豊富だ。しかもアリはいついかなる時でも自分の意見を声高に主張したから、なまじ役者を使うよりかれ本人に登場してもらうほうがずっと正確さが出るし、なにより迫力が違う。

「良心的兵役忌避」というのは宗教的信念から戦争に反対しているものが申し立てることができるもので、兵役のかわりに社会に貢献する行為を行う。アメリカでは現在徴兵制度そのものがないので良心的兵役拒否もあり得ないけれど、昔はこの忌避を申し立てると「非国民」「売国奴」として非難にさらされるのが常だった。ではなぜこのような概念があるかというと、キリスト教にはクエーカーをはじめとする絶対平和を唱える宗派があるからだ。国権をもってしてもこれら宗教者の内面の信念を変えることはできない、という主張が受け入れられたからこういう制度ができた。

ところがアリの場合はかれが黒人だというだけで「良心的兵役拒否」などとんでもないとされた。「ネーション・オブ・イスラム」、いわゆるブラック・モスレムという宗教自体がふつうのアメリカ人からしてみれば宗教としてうけいれられない、と感じられる「いかがわしい」ものだった。アリはまだ兵隊になってもいないのに「逃亡兵」扱いだった。

考えてみると少しおかしい。アリはその時「世界」チャンピオンだったのだ。世界に反逆したのならともかく、アメリカ一国に反逆したからといって世界チャンピオンのタイトルを剥奪されるいわれはないではないか。しかしそれだけではなく、リングに上がる権利も奪われ、アリはボクサーですらなくなった。

かれは12歳の時からボクシング一筋に生きて来た男だ。生業をうばわれ、収入の道を断たれた。経済的な損失だけではなく、暗殺される危険すらあった。「殺されても行かない」とはっきり言っている。

「ネーション・オブ・イスラム」の聖職者でもあったから、かれの宗教を基礎とした異議申し立てには十分な理由があった。

かれはこの時「なんの恨みもないベトナム人を殺す理由はない」「ベトナム人は私を『ニガー』と呼んだことはないからね」と発言している。これが火に油をそそいだ。

ごぞんじのように「ニガー」は黒人に対するひどい蔑称だ。現在ではその言葉のもととなった「ニグロ」(「黒い」という意味)でさえ差別語として糾弾(きゅうだん)される。しかし当時はごくふつうにこの言葉が通用していた。

「アメリカ人として生まれて恥ずかしくないか」「おおっぴらに法を犯すやつらは監獄に送られて当然だ」「みんなが国のために命を賭けているのにどのツラさげてそんなことが言えるのだ」と集中砲火をあびた。

しかしアリはひるまなかった。「ベトナム人は私を奴隷にしたことはない。私の兄弟を殺したこともない。私の母を犯したこともない」

白人は自分たち黒人をアフリカ大陸からつれて来て奴隷として酷使し、解放後も差別し軽蔑し、ひどい時には平気で殺すことまでする。そんな白人の戦争になぜ協力しなければならないか。戦場には「アメリカ人」として送り出され、帰って来たらもとどおりの「ニガー」だ。


黒人のジャズシンガー、ビリー・ホリデイ(1915-1959)の有名な歌に「奇妙な果実」という歌がある。

南部の木には奇妙な果実がなる
葉にも根にも血が滴っている
黒い死体が風に揺られている

ではじまるこの歌は黒人に対するリンチ(私刑)を告発したものだ。南部では事件が起こると法の手続きを経ずに、つまり有罪無罪に関係なく犯人だと思われる黒人を木から吊るしてしまうということが日常茶飯事だった。この歌を作ったのは新聞でリンチの写真を見てそのあまりの凄惨さに驚いたユダヤ系アメリカ人(白人)だった。1930年のことだけれど、リンチの伝統はその後もずっと続いていた。

そんなふうだから、1960年にローマから帰って来たアリ、当時のカシアス・クレーがレストランに入ったら、黒人だということで店を追い出されてしまった。怒ったかれは金メダルを川に叩き込んだという(実はこの話は真偽がさだかではなく、伝説にすぎないという説もある。しかしたとえ本当ではなかったとしても、あるいはそれだからこそ、かえって象徴的な真実があらわされていると思う。)

良心的兵役拒否にはいくつもの条件が必要なのだが、最高裁の判事たちはどんなにきびしく審査してもモハメッド・アリがその条件を満たしていることを認めないわけにはいかなかった。結局全員一致で一審の判決を覆し、アリを無罪とした。1971年のことだ。

アリはその後実力で世界チャンピオンの座をとりもどした。

2005年にアメリカでの最高の勲章である大統領自由勲章を授与されている。昨日の「裏切り者」は今日の英雄になった。ベトナム戦争が大義のない戦いであったことは今ではこどもでも知っている。


徴兵忌避のためにかれは国会の公聴会に出席し、ラジオやテレビの無数のインタビューを受けた。それで気がつくのは白人側がアリの改名後もずっとそれを無視してかれを「カシアス・クレー」と呼び続けたことだ。そのたびにアリは「モハメッド・アリです」と訂正している。

公聴会ではある国会議員がかれの抗議に押しかぶせるように「ミスター・カシアス・クレー!」と何度も呼びかける。そのたびに「モハメッド・アリ、サー!」とアリのほうもさけび返す。それで公聴会が中断される、という場面がある。

白人たちはこの名前の件でなおさらアリを憎んだ。「モハメッド・アリなどと偉そうな名前をつけやがって、もとはといえばただのカシアス・クレーじゃないか。奴隷の子孫じゃないか。生意気な」ということだったのだろう。

そのことを考えると私はどうしても在日コリアンのことを思わないわけにはいかない。私は名前が人間の尊厳を保証すると考えている。名前を奪うということはしてはならないことだと思う。

しかし日本は植民地の朝鮮で「創氏改名」というおろかなことをした。「日本人」になったのだから日本の名前を持て、ということで、これは手もなくアリのいう「奴隷の名前」ではないか。

「陛下の赤子」(私は少年時代これを「あかご」と読んでいましたが、「せきし」と読むんですってね)という名目で戦争に駆り出した。当時のいわゆる「鮮人」にとってはアリのいう「白人の戦争」と同じではないだろうか。

戦争に負けるとたちまち「外国人」にしてしまって、何の釈明も弁償もしていない。韓国には多額の経済援助をしたのでもう償いはすんだと思っている日本人が多いが、在日コリアンにその恩恵は届かなかった。これはタイトル剥奪後のアリの姿そのままだ。名誉が回復されても金銭的な補償はなかった。

今でも在日コリアンは種々の差別をおそれて本名を使わない人が多い。通名(日本名)を使わず、本名で日本の社会に存在しようと思うと有形無形の圧力にさらされる。公聴会で「カシアス・クレー」の名前にこだわった白人たちと同じような人々が日本にも多いのだと思われる。

アメリカでも日本でも「マイノリティー」に対して多数派の社会に「同化」せよという声は高い。でもアメリカではそれは黒人に対して白人になれということだ。自分たちの社会・文化をさげすみ、ことごとに圧迫してきた連中の仲間になれ、その価値を自分の価値とせよ、ということだ。東洋の小国(ベトナム、アフガニスタン、イラクなど)に戦争をしかけて大量虐殺を犯すことを正当としなければならない、ということだ。

モハメッド・アリはそのすべてに対して戦いをいどんだ。かれは不世出のチャンピオンだったが、その道徳的勇気はボクサーとしての偉業にまさるともおとらない。


現在日本政府は改憲を目指し、自衛隊を「国防軍」にしようと考えている。「国防軍」は他国の軍隊のように攻撃的ではないのだ、といいたいのだろうか。でもおあいにくさま、それはちょっと考えがたりない。軍隊というものはだいたいどこの国でも「国防軍」にきまっているのである。「国防軍」を略して「軍」というのだ。だれが「侵略軍」だの「先制攻撃軍」だのと名乗るものか。自国の外でばかり戦争しているアメリカ合衆国の軍隊だって「国防省」の管轄だ。

ナチスの軍隊も「国防軍」だった。ヴェルサイユ条約で義務兵役は廃止されていたのに、徴兵を復活させた。

そういう前例もある。徴兵はしないというけれど、戦争になったらその約束が空手形に終わらないという保証はない。在日コリアンが外国人であるという理由で徴兵をまぬがれるということになったら、かれらに対するバッシングはとどまるところを知らないだろう。そんな時が来たら(来ないことを願っているが)日本の裁判所にはアリを無罪にしたアメリカの最高裁判事たちのようにゆるがぬ信念をもってことに当たってもらいたいものだと思う。



(追記)在日コリアンの状況は在日台湾人にも通じます。
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