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六本木の病院 |
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2005年3月6日 |
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 | 中山 俊明 [なかやま としあき]
1946年4月23日生まれ。東京・大田区で育つが中2のとき、福岡県へ転校。70年春、九州大学を卒業後、共同通信に写真部員として入社。89年秋、異業種交流会「研究会インフォネット」を仲間とともに創設、世話人となる。91年春、共同通信を退社、株式会社インフォネットを設立。神奈川県・葉山町在住。 |
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前号で20年前に起こしたオートバイ事故について書いた。自宅(当時、町田)を出て東名高速を北上し、首都高にはいって渋谷を通過、左に東京タワーをみながら東進し、浜崎橋あたりで事故を起こした。
僕はマスコミ関係者のテニス大会に参加するため、東京湾埋立地のコートに向かっていた。あらためて地図で確認してみると、浜崎橋分岐点から北上する道路はほぼ直角に曲がっている。つまりこのコーナーを曲がりきれず、そのままコンクリートの壁に激突したらしい。
あとからの想像だが、空中に放りだされたあと、俯き状態で数メートル飛び、まず左ひじ、それから右ひざの順で道路にたたきつけられたのではないか。背負っていたテニスラケットがもしかしたら背骨の損傷を守ってくれたのかもしれない。
激突したらしい、と書いたのは、「ぶつかるっ」と思った瞬間以降の記憶がぷっつりとないからだ。気がついたときは、病院の手術台の上に寝かされていた。看護婦たちが血のついた僕のジーンズやらウインドブレイカーをハサミでジャキジャキと切り裂いていた。
運び込まれたのは六本木の救急外科病院である。これもあらためて地図で確認すると、現場から直線距離で約2キロ、たぶん救急車は約5分程度で僕を病院に運び込んだにちがいない。
数日前、おぼろげな記憶をたよりに、病院があったとおぼしきあたりを歩いてみた。六本木地区は再開発で20年前とは風景が一変してしまった。しかし、その病院は残っていた。「M病院」の看板。そうそう、この名前にまちがいない。かなり古びた建物だったはずだが、建てかわってしゃれたビルになっていた(写真左)。
入院中のことはとうぜんながら思い出したくない。上腕神経が切断され手首から先きが自由に動かなくなっていた。シャッターを押すのは右指でも、重いカメラを支える左手首がダラン状態。これでカメラマン生活も終わりかと思われた。失意の日々。
入院から1ヶ月が経ち、自宅近くの総合病院への転院を願い出たのだが、初老の院長先生、転院許可を出してくれない。「順調に回復しているようにみえても、特にひざのおさらの割れが心配だ。いま動くと50を過ぎて水がたまるなどいろいろ障害がおきるんだよ」とどなる、怒る。
ところがある日とつぜん、転院許可がでた。あたらしい患者が運びこまれてきて、僕は「用済み」になったらしい。この先生、金儲けにかなり貪欲で、患者のことよりベッドの効率的運用を優先する御仁だということはあとで知った。
その後、手首の動きは回復し、事故から4ヶ月後、僕はカメラマン生活に復帰した。会社休養中は『残る余生は世のため人のために生きよう」などとひたすら殊勝なことばかりかんがえて、反省と悔悟の日々。
それから20年。いろいろなことがあった。50をとうに過ぎたが、幸いひざに水がたまることもないし、世のため人のために生きてきたとはとてもいえない人生を送ってきた。自分本位の生き方がずーっ、と続いている。
いま僕は、あらためて自分の運命の不思議さをおもわざるをえない。3月から僕は、M病院後方にそびえたつ「六本木ヒルズ森タワー」の38階にある某ベンチャー企業に勤務する身となった。くだんのベンチャー社長はいま「カネがあればなんでもできると豪語する青二才」という批判を浴びている。
ほんとうに彼が、世間でいわれるような人物なのか、それとも僕が過去のこのエッセイで予言したように、もしかしたら日本を変えるほどの力を持った人物なのか、内部からじっくり観察してみたい。
支障のない範囲で、「ライブドア」および「ホリエモン」についてもこの欄で触れていきたいと思っている。
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