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縁の下のバイオリン弾き
82 デリシャス
2013年11月15日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ テキサス・ロングホーン種の牛。その名の通り角が長い。
アメリカのレストランでは皿を持って来たウェイターに「エンジョイ!」といわれることがしばしばある。「お楽しみください」というわけだが、日本ではこんなせりふはあまり聞かれないだろう。

「毎晩一合の晩酌を楽しみにしている」というのは期待して待つ気持ちをあらわしたもので酒の味のことではない。「豪華な食事を楽しんだ」と書くことはある。でもそれはこの英語の「エンジョイ」の直訳なのではないだろうか。

われわれ日本人にとって食事は「楽しむ」ものなのだろうか。いや、食事は必要なものだから、結構な食べ物や飲み物をとるのが楽しくないはずはないけれど、「自分は今このうなぎを楽しんでいる」と思いながら食べる人はいないだろう。「うまいなあ!」と端的に思うわけだ。それを書き表す時には「おいしく食べた」といえばいいわけだし、「舌つづみを打つ」という便利な表現もある。「楽しむ」なんて言い方は靴の上からかゆいところをかいている感じではないだろうか。

この「うまい」「おいしい」あるいはその逆の「まずい」という形容詞は日本語ではたいへんよく使われる。英語でもそのはずだと思っていた私はアメリカに来て最初とまどった。

英語には「デリシャス」ということばがあるけれど、それを使う人はめったにいない。もう亡くなったが妻のリンダのおじさん、カルバートにマルティニをごちそうしたことがある。老人は相好(そうごう)をくずして「デリシャス!」といってカクテルを飲んだ。私もマルティニが「デリシャス」であることには異論がない。でも「デリシャス」にそういう使い方があるとは知らなかったので(つまり酒についてそういう言い方ができるとは思っていなかったので)この言葉には感銘をうけた。

ところが「デリシャス」ということばを聞いたのはあとにもさきにもこの時だけだった。アメリカではふだん誰も「デリシャス」とはいわないのである。では何というか。単に「グッド」という。「よい」というのだ。「よいたべものをエンジョイする」のだ。

これではものたりない、と思う。「よい」ですませられるものか。食べている時には「おいしい」というその用途のために作られた一語に頭を占領される。ほかにいいようはないのだ。それなのに何にでも使われる「よい」ということばを食べ物に使うことには抵抗がある。

それでも「よい」時には「デリシャス」ということばがあるが、逆に「よくない」ときにはなんというか。「バッド」「バッド・フード」という。つまり「まずい」という言葉がない。「まずい」ときに「バッド」というからこそ、「おいしい」ときに「グッド」となるのだ。理屈はとおっているが、「おいしい」「まずい」の鮮烈さにくらべれば、「グッド」「バッド」はぬるま湯的だと思う(だからこそ日本では一昔前にはやった「チョベリバ」なんて言葉ができるのではないだろうか)。

また英語には「からい」ということばがない。カレーのようなものは「ホット」と表現する。しかし「ホット」といえば「熱い」ということではないか。伊丹十三は「なるほどあれは『熱い』に近い感覚かもしれぬ」と妙にものわかりのいいことをいっているが、熱いとからいでは大違いだ。「熱くてからいカレー」はなんといえばいいのだ。「ホット・ホット・カリー」だろうか。まさかねえ。

英語人も実はこれには業(ごう)を煮やしていて、からみをさす時には「スパイシー・ホット」(スパイスのホット)、熱いときは「テンペラチュア・ホット」(温度のホット)という。しかしそんな言い方をしなければならない、ということ自体ことばの不備をあらわしているではないか。

もっともひとのことはいっていられない。日本語でも唐辛子の「からい」と塩の「からい」の間に区別がない。それで現在では塩味の「からい」をわざわざ「しおからい」というようになった。ところがそうやって日本語を教えている私に京都から来たTA(ティーチング・アシスタント、大学院生の助教)が異議をとなえた。「しおからい」というのは変だ。「しおからい」ということを「からい」というのだ、と。じつにその通り。京都では昔の言い方がそのまま残っていたのだろう。そして千年の古都では唐辛子を使った料理はほとんどなかったのだろう。
これはずいぶん以前のことだったけど、今では京都でも「しおからい」というのではないだろうか。ごぞんじの方は教えてください。

「からい」ということでは北京に行った時のことを思い出す。タクシーをやとって万里の長城まで行ったのだが、その運転手との会話のなかで(なにしろネタがなかったので)前日飲んだ白乾児(パイカル)のことを話題にした。パイカルというのは老酒のような醸造酒とちがって蒸留酒でものすごく強い。私が飲んだのはアルコール分56パーセントという強烈なものだった。運転手さんも飲み助だったようで話が弾んだけれど、かれはパイカルのことを「太辣(タイラー)」と表現した。辣とはラー油のラーで、「からい」ということ。したがって「太辣」は「とてもからい」「からすぎる」ということだ。

単にアルコールが強いというだけではなく、その風味や身体におよぼす影響なども視野にいれての表現なのだとおもうが、酒のことを「からい」というのはおもしろかった。日本語でも酒のことを「辛口・甘口」と表現するからだ(もっとも運転手さんのいう「からすぎる」は辛口ではなく「苛烈だ」という意味だと思うが)。

英語ではその「辛口」のことを「ドライ」つまり「乾いた」という。そのくせ「甘口」はやっぱり「スイート」という。表現に統一がありませんな。これは「からい」ということばがないからだ。辛口を「ホット・ワイン」というわけにはいかないでしょう。


味覚を表すことばは欧米では伝統的に「甘み」「しおからみ」「苦み」「酸味」の四つだった。唐辛子などの「からみ」は味覚ではないのだそうだ。これに日本人の発見による「うまみ」が加わって「五味」という。

でも本当にそうだろうか。私は長年日本語を教えて来たが、往生(おうじょう)するのが「しぶい」ということばだ。これは英語にならない。第一「しぶい」という感覚を説明することができない。

我々日本人にとって「しぶい」といわれてまず連想するのは渋柿だろう。ところが欧米には柿というくだものがなかった。現在ではどこでも作られているけれど。だからイタリアやスペインでは柿を翻訳せず、今でもCaqui(カキ)と呼ぶ。

アメリカの大学で柿のことを説明してやっとこさスーパーでみかけるオレンジ色のくだものだと認識してもらっても、それを食べたことのある学生は少ない。まして未熟な柿を食べたときの味だといってもチンプンカンプンなのだ。

しかし「しぶい」という感覚が欧米にないはずはない。重厚な赤ワインを飲んだときに感じるしぶみはなんというのだろうか。辞書をひくと「タンギー」とか「アストリンジェント」とかいう語がのっている。でもタンギーというのは「ピリっとする」という意味でしぶみの説明としてはちょっと見当がちがう。アストリンジェントは昔化粧品の作用として日本で耳にした。その元の意味は「皮膚を収縮させる」ということだ。なるほどしぶいものを食べると口の中の皮膚が縮むような感じを受ける。でもそれは結果であって、その結果をもたらす味そのものをさすことばではない。

「しぶい」は日本文化を説明するときになくてはならないキー・ワードだ。「わび・さび」とか「粋(いき)」とかと同じでこれがなくては日本がわからない、それなのにどうやって説明していいかわからない、ということばだ。もともとは味覚に発したことばだけれど、日本人の趣味のすべてにわたって使われる。

「しぶい」という言葉がなければ着物の柄や陶器のデザイン、人品骨柄(じんぴんこつがら)を説明することができない。一言でいえなければことばをつくして説明するほかはないが、それでその観念が理解できるかというといたってあやしい。

1979年にトレヴェニアンという筆名のアメリカ人作家によって「シブミ」という題名のミステリー小説が発表され、ベストセラーになった。しぶみという日本語をそのまま題名にするほかなかったという事情そのものがこのことばの独自性をあらわしている。


アメリカの大学では学期の終わりごとに学生にアンケートをとる。授業の内容、先生のよしあし、クラスの準備にかける時間、このクラスで学んだことなどについて評価を求める。答えはすべて無記名だ。このアンケートは成績に影響しないようにクラスが終了してから我々教師に公開される。

私は大学の日本語授業としては最高の5年生を教えていた。学生は日本語が上手な者に限られる。しかし日本から移民した学生は日本語が上手であたりまえだ。そこで私は日本で小学校の授業まで受けた者だけをクラスに受け入れるということにした。中学以上の経験がある学生はどんなに日本語を勉強したいといっても拒否する。

はるか昔のこと、ある年のアンケートで教師の評価をする欄にすべて英語で答えていた女子学生がそこだけ日本語で「しぶくてかっこいいわあ」と書いていたのに私は目を白黒させた。むろんからかっているのだが、冗談にしたって私は心おだやかではなかった。

しぶいなんて年寄りについて言われることで、なるほどその女子学生にとっては私は年寄りだったにちがいないが、そうあからさまに言われるほどには老けていなかった、と思う。

しかし評価はともかく、彼女がそこだけ日本語で書いた、という事実は象徴的だ。要するに「しぶい」という表現が英語にないからこそ彼女は日本語で書いたのだ。


英語でいえない日本のことばはいくつもあるが、人の意表をつくのが「英語には牛ということばがない」ということだ。私は日本語を教えていてこれに気がついた。

牛はふつうカウという。でもこれは雌牛(めうし)をさすことばだ。西洋では牛乳をとるために雌牛は必要だったから牛といえば雌牛、ということになったのだ。

雄牛(おうし)はブルという(ブルドッグという犬がいますね。あれは18世紀に英国で雄牛と闘わせてそれを見物するために作られた犬だ)。去勢された雄牛はオックスという。

西部劇に出てくる牛の群はキャトルというが、これは集合名詞で一頭の牛をキャトルということはできない。

カーフということばは子牛をさす。財布やハンドバッグを作るのによく使われるのでカーフ・スキンということばがある。

これを要するに「犬」とか「猫」とかのようにその種全体を、性別、老弱、数に関係なく表せることば、つまり日本語の「牛」が英語には存在しないのだ。

とクラスでいうと中にはものしりの学生がいて、「じゃ、ボーヴァインは?」とラテン語を持ち出してくる。これは種をあらわす学問的な言葉で使われる範囲がふつうの「牛」よりずっと広い。水牛やバッファローなども含む。でも特殊なことばだから「おい、あそこにボーヴァインがいるぞ」とはどのみちいえないだろう、というと学生は苦笑いして納得する。

これだけでもいいかげん複雑なのに牛の肉のことはビーフという。それを焼いたものがステーク(ステーキ)だ。

「年齢は50がらみ、しぶいカウボーイが牛を一頭つれて町にやってきた。酒場で肉を注文したが一口食べて『まずい』というなり店を出て行った」という文を英語に訳すことは可能だけど、厳密にこの通りにいうことはできない、のではないでしょうか。
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