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許榮一先生との出会い、1999年 −1 |
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2019年9月19日 |
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 | 原田 美佳 [はらだ みか]
東京都出身。学生時代から長年関わった韓国文化院を2015年末に退職。現在は、日本ガルテン協会の広報部長の仕事をしながら、これまで関わってきた韓国文化を日本に紹介するための著作、交流活動を中心に自分のライフワークを模索中である。共著書に『コンパクト韓国』(李御寧監修)、『読んで旅する韓国』(金両基監修)、「朝鮮の王朝の美」、『朝鮮王朝の衣装と装身具』などがある。 |
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▲ 山本東次郎先生 世界無形文化財招請シリーズ1パンフレット |
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▲ 許榮一所長とともに 挨拶する許榮一所長 |
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許榮一(ホ・ヨンイル)先生とのお付き合いも早いもので20年以上になりました。許榮一先生は、当時、韓国芸術総合学校舞踊院長で、付属の世界民族舞踊研究所を立ち上げられた方です。許先生が1999年から行われて来られた日韓の人間国宝の先生方による伝統交流舞台―世界無形文化財招請シリーズのお話を頂いてからのおつきあいです。
1998年に日本文化開放政策が行われ、金大中大統領が来日されました。 私の務めていた駐日韓国大使館 韓国文化院では、大統領の来日記念イベントに合わせて、映画、音楽などの文化産業のトップを集めてのマッチングパーティーを行うことになり、参加者の人選や準備を行っている頃でした。 映画などはすでに日本でも韓国映画が上映されたり、観覧する実績がありましたが、音楽は、伝統音楽や演歌のような歌謡曲が日本では知られていましたが、最先端を行くようなK―POPは全くと言っていいほど上演されていませんでした。そこで、日韓のプロデューサーとともに、12月に赤坂ブリッツで日本の音楽関係者も招待して韓国文化院20周年記念として初の大型K-POPコンサートをすることになりました。
1999年の春に、上司から許榮一先生が企画している舞台に、韓国に来て頂けるような人間国宝の先生を探すようと言われたのです。とはいえ、能狂言の先生方はだいたい年末までだけではなく、来年、数年先までかなり日程が埋まっており、日本全国で公演をされています。また、演者一人だけというのではなく、鼓や笛などの奏者、地謡の方々まで構成しないとなりません。本人だけの予定で行けると答えられる先生はほとんどおられないといわれました。すでに、相談して断られた人間国宝の先生もおられると伺いましたし、能楽の方で韓国公演を引き受けて下さるようにお願いできるような知り合いの先生がいませんでした。
そこで、韓国で許榮一先生と意気投合したという早稲田大学の李成市先生も考古学関係でお付き合いがあり、私が『朝鮮人物事典』でもお世話になった大和書房の佐野和恵さんに相談しました。いろいろと話した末に、お人柄や公演を組める杉並能楽堂の山本東次郎先生しかということで直談判に許榮一先生とお訪ねすることになりました。難しいお願いでもあるのを知っているので、気も進みませんでしたが、山本東次郎先生とのお話は楽しいものでした。韓国芸術総合学校や文化観光部の組織の説明から、世界無形文化財招請シリーズの第一回目として日本の能楽を招いて、一流の日韓伝統交流舞台を成功させたいという許榮一先生の思いと熱心さ、さらには、佐野さんのアシストもあり、ほぼ了承を頂けることになりました。いろいろと資料も頂き、許榮一先生がお持ち帰りになりました。
さて、この年は個人的にも忙しい年でした。 妹がオーストリア・ウィーンのシェーンブルン宮殿内で日本庭園を96年に再発見して、学会で調査団を組織したり、NPO団体(特定非営利活動法人 日本ガルテン協会)を父が設立して、日本庭園を補修したり、オーストリア庭園局の依頼で新たに両側に茶庭と枯山水の日本庭園を作庭し、翌99年の5月に日墺修好140周年記念ということもあって、シェーンブルン宮殿内で開園式を行うことになりました。さらに、並行して斎藤茂吉先生も学ばれたところにあるウィーン大学日本学研究所でも学生のために青海波庭園を新たに作庭し、祝賀会が催され、両方の祝賀会のためにウィーンへの旅行団とともに参加しました。 さらに、1999年の夏のあいだ、私は韓国精神文化研究所で研修を受けることになりました。その間、文化観光部の本部に挨拶も兼ねて数回、国立国楽院など関連団体にも地下鉄を乗り継いで行きました。そこで、許先生ともお目にかかる機会もあり、世界無形文化財招請シリーズの第一回目の会場は、当初、別のところの予定でしたが、人間国宝の交流公演であれば、やはり国立国楽院の礼楽堂がふさわしいのではないかと思い、許先生にお話ししてみたら、運よく空いていて抑えることができたということでした。
山本先生に韓国の舞台に参加して頂けるようになって、これで、私のお役目も一応終わり、ひと安心とおもいきや、来日する方々の詳細情報、プログラムや広報資料、舞台の準備などのやりとりが大変でなかなか進展しませんでした。このころ、まだ日本側はネット環境もほとんどなく、連絡方法がFAXや手紙に対して、韓国はメールとなっていました。すでにメールでやり取りする韓国側とは物理的な時間差だけではなく、時間的な感覚の違い、また、日本伝統のしきたりなどの違いなど、双方、手探り状態なのでたいへんだったようでした。結局、ずいぶん、双方とやりとりをすることとなりました。
舞台は1999年9月5日(日)に韓国の国立国楽院で行うことになりました。檜舞台というまではいかなくとも、能舞台を韓国でも作るということで、白木の舞台を韓国側で制作することになりました。やはり近いといっても韓国は海外、材料から大きさ、決まり事などを何度なく、やりとりもしました。以前に海外での舞台をしたときに、床が木ではなく、じつはコンクリートだったといった話までをきいて、ほんとうに心配しました。前日に舞台を山本先生がご覧になり、舞台の滑りが悪いようでした。しかし、先生は何事もなかったように、奥様に天花粉を要望して、さっと撒いて舞台の調子を見られ、大丈夫ですと笑っておられました。
朝早くにはマスコミの方々が来られ、今回の舞台のために能楽とはなにか、見せ場、芸などについてなどいろいろと説明なさっておられました。しかし、話だけではすぐにはわからない足の運びなどは、すくっと立ち上がり、実際に足さばきを実演しながら熱心に伝えられていました。 舞台は6日に多くの文化人の方もお越しになり盛会のうちに行われ、翌日、許榮一所長の熱情をのせて、世界民族舞踊研究所の開所式が行われました。
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