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縁の下のバイオリン弾き
83 ターナー
2013年12月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ ターナー「雨、蒸気、スピード - グレートウェスタン鉄道」(油彩、1844年)
▲ モネ「サン・ラザール駅」(油彩、1877年)
▲ ターナー「吹雪―港の沖合の蒸気船」(油彩、1842年)
今東京都美術館でターナー展をやっている。新聞には「この展覧会に行くことが、あなたの今年を特別なものにしてくれる」とある。私にはこれはさもあろう、と思われるコピーだ。見たいとは思うけれど、12月18日に終わるのではちょっと無理だ。

私がターナー(1775−1851)の名にはじめて接したのは中学生のころだ。絵を見たわけではない。夏目漱石の「坊っちゃん」にターナーが出てくる。坊っちゃんと赤シャツと野だが海釣りに出るところだ。

「『あの松を見たまえ、幹がまっすぐで、上が傘のように開いてターナーの画(え)にありそうだね』と赤シャツが野だに言うと、野だは『まったくターナーですね。どうもあの曲がりぐあいったらありませんね。ターナーそっくりですよ』と心得顔(こころえがお)である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らないことだから黙っていた。(中略)すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかとよけいな発議(ほつぎ)をした。赤シャツはそいつはおもしろい、われわれはこれからそう言おうと賛成した。このわれわれのうちにおれも入っているなら迷惑だ。おれには青嶋(あおしま)でたくさんだ」

これが坊っちゃんのことばだ。私ももちろんターナーなんて知らなかった。しかもこの小説でターナーに言及があるのはここだけである。つまりターナーについて何の説明もなく小説が終わってしまうのだ。「ターナーの画」とあるのだから絵描きだろうとは思ったが、それがどこのいつ頃の人であるのかまったくわからなかった。それでもその名前だけは頭のどこかに残った。

当時は美術全集なんてものもろくにない時代で、絵に関する知識といえば学校の美術の教科書にのっている写真を眺めるぐらいだった。そして断言してもいいが、中学高校の美術の教科書にターナーはのっていなかった。

私はよく展覧会に行ったほうだと思うけれど、ターナーの作品が出品された展覧会はなかったように思う。つまり当時は英国の絵画などだれもかえりみなかったのだ。

それが1970年までの日本の状況で、その後私は香港に移住したから展覧会とは縁がきれてしまった。香港では中国の絵や書にはなじんだが、西洋美術を目にすることはなかった。

ターナーをはじめて見たのはアメリカに来てからだと思う。しかし見たといっても今都美でやっているような大回顧展があるわけではなし、美術館に一、二枚あるかどうかという状態では体系的に理解することはむずかしかった。

ターナーが私の視野に入ってきたのは水彩画のおかげである。私は昔から水彩画を描いていたけれど、1995年頃、気まぐれから大学のクラフトセンターでの水彩画のクラスをとった。それで水彩画に今までとはちがった関心を持つようになり、技術を高める必要から水彩画の手引書をいろいろ買った。

ターナーは水彩画の一方の雄だ。当然これらの本にはかれの水彩の写真版がたくさんのっているから、私はかれによって水彩画に目を開かれた。つまり、ターナーの真作を見る前に写真でなじんだのだ。また油彩よりは水彩画によってターナーに深く影響された。

ターナーの水彩といったらたいした物で、その写実的なことはおどろくばかりだ。もっともそれは時代の好みを反映しているわけで、画家の個性の発露をとうとぶ現在では写真のような絵はあまり高く評価されない。それでターナーの職人芸はそのころほとんど忘れられていた、と言っていい。

私は1997年から3年間インディアナ大学というところでサマースクールを教えた。インディアナ大学はブルーミントンという町にあって、音楽学部の優秀なことで有名だ。インディアナ州の首都はインディアナポリスという市でブルーミントンからはかなり離れている。2年目だったと思うが、リンダがサンディエゴから訪ねて来たので私はインディアナポリスの空港まで迎えに行き、そのままインディアナポリスの州立美術館に行った。

この美術館はほとんど森のような大庭園の中にある美術館で、その環境の良さもさることながら、入館料がただだった。まったくたいしたものだと思う。

しかも行ってはじめてわかったのだが、ここにはターナーの水彩画のコレクションがあるのだった。説明によると英国の外では最大のコレクションなんだそうだ。そんなこととは知らなかった。知っていたら最初の年になにはさておいても飛んで行っただろう。

そのコレクションには感激した。だいたい水彩画というものは英国以外では尊重されているとは言いがたい。しかも画面が小さいから美術館で展覧するにはむかないのである。インディアナポリス美術館では壁にかけるのではなくガラスケースに陳列してあった。そうやって間近に見ても目がしみるような細密な描写だ。よほど目が良くないとこんな絵は描けないだろう。

そういう高度の技術を持っている画家が一方で後の印象派を先取りするような大胆な描き方をする。そこがターナーの偉いところだ。油彩水彩を問わず、何が描かれているのかわからないようなおぼろな絵がたくさんある。そしてそれらがもっと完成された絵の下絵ではなかった、というところがすごい。またそういう絵が現代の我々にはことさら訴える力が強い。

ここにあげた「雨、蒸気、スピード ー グレートウェスタン鉄道」(1844年)はかれの代表作の一つだ。鉄道はこの絵が描かれた当時最新のテクノロジーでそれを晩年のターナーがあえて描いたというところにかれの非凡さがあると思う。

19世紀には鉄道は社会の進歩をあらわすものだったはずだが、それを描いた絵画がどれほどあるだろう。ターナーの影響を受けたモネには「サン・ラザール駅」(1877年)があるが、比べてみればわかるように迫力の点でモネはとうていターナーの敵ではない。どっちが印象派かわからないぐらいだ。

19世紀の鉄道にあたるものは20世紀の自動車だろう。でも私は自動車を描いた20世紀の有名な絵を思いつかない。なぜかというと自動車は高速で走ってもその姿に何の変化もないからだ。

エドガール・ドガはよく競馬の情景を描いた。馬はもちろん絵の主題になり得る。それは生き物としての躍動感が表現できるからだ。ところが自動車にはその躍動感がない。いくら速度があってもその形象になんの変化もないからスピードをあらわすことができないのだ。

汽車も自動車と同じで走っている時の速度をあらわす変化がない。それでモネは駅に入ってくる汽車を描くことでかろうじてその動きをあらわした。

それにくらべてターナーの描き方はどうだろう。これは汽車を写実的に写したものではない。むしろ汽車の印象だけをとりあげた描写だ。しかしそれだけにスピード感をあらわすことに成功している。私はこの絵を見ると「疾風怒濤(しっぷうどとう)」という言葉を思い出す。

この橋の描き方を見てください。これも画家は実際の橋を写実的に写そうとは思っていない。むしろそれは汽車の方向性をあらわすために使われているようだ。鉄道ならどこの地面を走っていてもいいはずだけど、野原を走る汽車ではその環境があまりに茫漠としていてピントがあわない。橋に限定しているからこそ汽車の実感が出るのだ。

しかしそういうことを言い出すと「じゃ、船はどうなんだ」ということになる。汽車も自動車も生気がない鉄のかたまりならば、船だって同じじゃないか、といわれそうだ。

変化があるとはいえそれはほとんど天候に限られる陸とちがって、海は千変万化する。そして帆船の場合は船そのものに表情がある。船の種類によってマストの本数も違えば帆の形もちがう。帆を張っているかいないかで感じが変わるし、その帆の風のはらみぐあいもひとつとして同じものはない。また帆をかけるためには人間が動きまわらなければならないので帆船を描いた絵では誰かが甲板上に出ていることが多い。

ところが19世紀になって蒸気船がつくられると海の風景は一変する。蒸気船は自然の力にたよる必要がなく、また規模も大きくなったから輸送という点では「進歩」だったにちがいないが、絵にはなりにくい。馬車が鉄道や自動車にとって変わられたのと同様の変化だ。

ターナーは律儀にその変化につきあっている。「吹雪」の絵は船の形もはっきりしないが、煙突から吐き出される黒煙が嵐のどす黒い雲に連なっているところから蒸気船なんだということがわかる。これは絵の主題としてはどうにもならない蒸気船の特徴を逆手にとってドラマチックな画面を作り出すことに成功した例だと思う。

しかしこの手は一回使ったら2度とはできない。タイタニックは映画にはなっても絵にはならないのだ。

ターナーはあれだけの描写力をもちながら、わざわざ嵐を背景にして汽車も蒸気船もおぼろな描き方にした。そうやって産業革命の落とし子に果敢に戦いを挑み、勝利をおさめたのである。



(追記)ターナーの絵は小画面でみると黒いかたまりになってしまってなんだかわからない、ということになりかねません。できればネットで大画面のものをごらんください。
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