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二村洞の人々 |
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2005年2月20日 |
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 | 吉田 美智枝 [よしだ みちえ]
福岡県生まれ、横浜市在住。夫の仕事の関係で韓国ソウルとタイのバンコクで過ごした。韓国系の通信社でアシスタント、翻訳、衆議院・参議院で秘書、韓国文化院勤務などを経て現在に至る。自作のアクセサリーをBeads Duoというブランドで販売しながら、韓国の主に女性たちについてエッセーを執筆中。『朝鮮王朝の衣装と装身具』(共著)、韓国近代文学選などの翻訳がある。 |
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▲ 淡水パールの花形リングとピアス パールの周りは丸小ビーズ |
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「オディガセヨ?」(どこへ行くんですか?)
自分が住んでいるアパートの門を入ろうとする時、私は門番によく韓国語で声をかけられた。その道の女性に間違えられたのだ。当時のソウル、大都会といえども女性たちは化粧っけのないすがすがしい顔で街を闊歩していた。若い世代の日本女性の姿は珍しかったし、若い女性で昼間から化粧をしているのは夜の仕事の女性たちぐらいだった。
私たちが住んでいたアパートはソウル市竜山区東部二村洞という場所にあった。洞というのは街の単位なので日本風に言えば二村町とでもいえようか、Riverside Villageという名の外国人アパートには1棟に約30世帯が入居し、A棟からP棟ぐらいまでのビルが管理事務所を中心に取り巻くように建っていた。そして、上にトゲトゲした針金が張られたコンクリートの塀がアパート全体をぐるりと取り囲んでいた。
管理事務所のある場所はアパートの入り口になっていて、門番たちが小さな箱のような建物から常に人の出入りをチェックしていた。彼らは、色は茶色だが警察官のようなユニフォームを着ていて威厳を感じさせていたが、500世帯近くもの出入りをチェックしなければならないせいか、その声に緊張感はあまりなかった。
「えっ? なんですか?」 と私。 「えっ? なんですか?…ああ、いいですよ。どうじょ!」 日本語で中へ促してくれた。
余談だが、韓国の人が「どうぞ」を「どうじょ」と発音するのはありがちなことで、韓国語に「ぞ」という発音がないためであるが、一方、日本人が発音しにくい韓国語の発音も多く、例えば日本人は「速く」というとき“bbarli”という発音がどうしても出来ず“pari”(ハエ)になってしまう。
アパートの塀に沿って100メートルほど歩いたバス通りには、地下にマーケットが入ったビルがあり、肉、魚、野菜、日用品などを扱う小さな店が数軒並んでいた。私たち外人アパートの住人たちは、遠くのマーケットまで行く週末以外の平日はたいていここで買い物を済ませた。
「どれぐらい要る?」
肉屋の主人は友人と私に聞いた。
「少しなんだけど…」 と、私たち。 「少しって…?」 「50グラムずつ…」 「こ、こらーっ! 50グラムを…どっ、どうやって食べるんだ…!」
「どうやって食べようとほっといてよ!」といい返したいところだが、非常識なのはこちらの方だった。店の主人の顔は真っ赤で、怒鳴り声とともに肉の塊まで飛んできそうな勢いだった。(だが、次の日にはなにもなかったように応対してくれるのだった。)
当時、韓国には日本のような肉屋はなく、部位ごとに大まかに切り分けた肉の塊がどーんとショーケースに横たわっているだけで、塊や薄切りやミンチなどは必要に応じてその都度注文して加工してもらわなければならず、最低1斤(600グラム)か、せめて半斤以上買うのが暗黙の了解のようであった。
日本から来た、結婚していくらも立たない友人も私も、毎日の夕食の献立を考え出すのに精一杯で、材料をまとめ買いをするとか料理を作り置きするという知恵も働かず、またそんな余力もなかった。
肉屋の主人の怒鳴り声が終わる前に、私たちは隣の魚屋に駆け込んでいた。魚屋といっても畳1枚分ぐらいの台の上に魚が並べられているだけの店だった。
「これ、なんていうの?」 指差しながら聞くと、 「センソン!」(さかな!)
氷の盛られた木枠に寝そべった魚たちを間に、質問も同じなら、アジョシ(おじさん)の返事も毎回型どおりだった。たまには「これは、ヨノ(鮭)」などと名前を教えてくれる日もあったのだが…。
韓国語には魚の名前が少ない。辞書で調べると実際はいろいろあるにもかかわらず、日常生活ではほとんど無用の長物なのだろう。細分化された魚の名前を普通の人たちが知り、使っている日本のような国は、むしろ世界でも少ないかもしれない。まして出世魚のように名前が変わっていく魚の話などしたら、韓国の人は笑いだしてしまうだろう。
八百屋には小さな男の子が働いていた。国民学校(小学校)を出たか出ないかに見えるこの男の子は、田舎からソウルに奉公に出てきたのだ。彼の仕事はその八百屋で客が買ったものをダンボール箱に入れ、自転車の、そこだけが大きい荷台に乗せ家まで配達することだった。痩せて小柄な体に、真冬でもセーターに薄いズボンという格好は見るからに寒そうだった。
彼が荷物を持ってきてくれると、私はドアのところで少しだけお礼の意味でお駄賃を渡した。彼はうつむき加減に、でも思いのほか元気な声で「カムサムニダ!」と受け取った。幼いうちから親と離れて都会でけなげに働く彼の姿を見ると、彼の田舎はどんなところなのだろう、あの八百屋は彼の親戚かなにかなのだろうかなど、子どもがなく、まだ若かった私は幼い弟をみるような気持になった。
もう少し年のいった20歳前後の男の子たちも大差はなかった。アパート近くのコーヒーショップや飲食店で、白いシャツに蝶ネクタイ、黒ズボンといった格好で働いている、地方出身の若い男性たちを多く見かけた。彼らに宿舎のようなものはなく、閉店後の店内でテーブルや椅子を寄せ集め、そこに寝るのだと聞いたことがある。
アパートの階段周りを磨く仕事の人もいた。40歳代と思われるその男性は、その仕事だけで一家を養っているということだった。わが家でパートタイムのメイドをしてくれた李さんという女性によると、彼の仕事ではお肉など1月に1度ぐらいしか食べられないのよ、ということだった。
当時はみんながソウル(都)を目指していた。今の韓国は中産階級が主流を占める豊かな国であるが、その頃は、日本の戦後がそうだったといわれるように貧しい人々も多かった。だが、みんな元気で活力があった。ソウルで現金収入を得て故郷に送金したり、里帰りの時のために蓄えておくのだろう。(私が10年くらい前から3年間住んだバンコクにも、当時のソウルと似た時代の雰囲気があった。)
今でも韓国では、新暦より旧暦の正月の方が彼らにとって本当の正月であり、休みを取って里帰りする人が多い。アパートの住人たちはクリスマスや正月休みの前にそれぞれ彼らにちょっとした心づけを渡した。
普段、黙々と仕事をする彼らと会話をする機会はあまりなかったが、このときだけは彼らと少しだけ気持ちが通じ合ったような気分になれたのを覚えている。
友人たちとの付き合いの前に、私が知り合った人々はこういった二村洞の働く人々だった。彼らは、目の前で私の発音が変だと笑いながらも若い私の韓国語学習を評価し喜んでくれたようだった。そして彼らには過去に日本語を強要された記憶が、まだしっかりと残っていた。
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