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ボーダーを越えて
143 言葉雑感(7)「ん」の音
2009年2月1日
雨宮 和子 雨宮 和子 [あめみや かずこ]

1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。
「ツアー」というカタカナ語がありますね。旅行者が参加者を募る団体旅行のことを指していると思うのですが、もともとは団体旅行の意味もありますがそうとは限らないtourから来た言葉でしょう。意味はともかく、「ツアー」という発音は本来のtourからはあまりにもかけ離れていて、日本語のできない人に「ツアー」と言っても絶対に通じません。いま風の表示にすると「トゥア」でしょうが、その言葉を使い始めた頃には多くの日本人は「tu」の発音ができなくて(琉球語には「tu」の音がありますが)、「ツ」で代用させたのが定着したのでしょうね。

「ツアー」と発音の似た言葉に「ツァー」というのがあります。帝政ロシアの皇帝のことで、ローマ字表記ではtsar(またはczarまたはドイツ語ではZar)ですね。(ロシア語の発音に近づけて「ツァーリ」ともいうこともあるとウィキペディアにありました。)英語では俗語として、政府行政機関に特別問題に対処するべく設けられた組織の上に立つ人をtsarと呼んだりします。たとえば麻薬問題対策長はdrug tsarと呼びます。このtsarなのですが、「どうしてアメリカ人は『ザー』なんて言うんですか?」と、テレビニュースを見ていた日本人に聞かれたことがありました。確かにアメリカ人はtsarを「ツァー」ではなくて「ザー」と発音します。

「最近の日本では、ですね」と、その人は続けました。「原語の発音にできるだけ忠実にしようと心がけていますよ。たとえば韓国姓の『金』は『キン』じゃなくて『キム』と書くんです」それなのに何だ、アメリカ人は、自分たちのやり方を原語に押し続けるのか、とでも言いたそうでした。

いえいえ、ちょっと待ってください。確かにtsarを「ザー」なんて発音するのはおかしく聞こえますけど、でもそうとしかアメリカ人は発音できないのです。なぜかというと、英語には「ツ」で始まる言葉がないからです。(語尾に「ツ」が来ることはあって、その場合はちゃんと「ツ」を発音できます。小銭のcentsを「センツ」というように。)同じようなことが日本語にも言えます。日本語には「tu」の音がないので、tourを「ツアー」と言うように。

もともとはない音を既存のどの音を使って表すか。それはむずかしい問題だと思います。たとえば、韓国姓の「金」を「キム」と書いて、果たして原語に近いでしょうか。「キム」を皆さんはどう発音されますか。多分「キ(ki)+ム(mu)」でしょう? でも原語の発音は「kim」であって、「kimu」ではありません。もちろん「キン(kin)」でもないのですが、語尾が子音のmで終わる言葉が日本語にはないので、「kim」の表記の仕様がないので「キム」とすることにしたのでしょう。

それでは日本語には母音を伴わない「m」の音がないかというと、そんなことはありません。たとえば、舌や唇がどう動くかを考えながら「天火」をゆっくり、でも自然に発音すると、「て-ん-ぴ」の「ん」は唇を閉じた「m」であることがわかるでしょう。

日本語の「ん」と表記される音には「ng」もあります。たとえば「電気」を「で-ん-き」と、ゆっくり発音してみてください。「で」から「き」に移る過程の「ん」は舌の根が口蓋に向かって盛り上がって発音されるでしょう? それが「ng」です。語尾にngが来ると「ング」と書き、そう発音しますね。たとえばkingを「キング」と書き、そう発音しますが、日本語を知らない人にはもちろん通じません。

また、「ん」には、舌の先の方が上部歯茎の根元に付く「n」の音もあります。「男女」の中にある「ん」がそれでしょう。そしてもう1つ、「n」でもなく舌がどこにも付かない「ん」の音があり、語尾に来る「ん」のほとんどがこれだと思います。この「ん」の音は私の知っている限りではヨーロッパ系の言語や中国語にもありません。ローマ字で日本語を表記する際には、この音は「n」を代用しています。

このように、「ん」は「m」や「ng」や「n」であったりするのです。この3つの音をきちんと区別して表記する言語がいっぱいありますが、日本語はすべて「ん」で済ませているわけです。「ん」の音の中の区別がそれほどはっきりしていないのかもしれないし、またそんな区別は大事でもないので、「ん」1つで用が足りているのでしょう。ですから、聞き分ける必要もないということになります。韓国姓の「金」や英語の「kin」や「king」は、日本語しか話さない人の耳にはみな「キン」と聞こえるでしょう。別の例を英語で挙げると、「sun」「sum」「sung」はそれぞれ全く違う言葉ですが、なかなか聞き分けられなくて、みな「サン」と聞こえるだろうと思います。

それらの言葉が外国語の枠内にあれば、日本語を話していてちっとも困りません。外国語習得の際に聞き分ける訓練をすればいいのです。(聞き分けるのはそうむずかしいことではありません。しばらく聞いているうちに耳が馴れてきて、きちんと聞き分けられ、自動的に全く違う言葉だとわかるようになります。)ところが、それらの音がカタカナ語や人名や地名として日本語に入って来ると、そういうわけにはいきません。ですから、「キム、キン、キング」と書き分け、言い分けるようにしたのだろうと想像しています。それらの音が(「キン」は別として)原語の発音からはほど遠いのは言うまでもありません。

日本語の「ん」というのはなかなか複雑なのだなぁと改めて感じました。

最後に付け足しですが、日本語には冒頭に「ん」が付く言葉はありませんが、アフリカにはそういう言葉が溢れています。しかも、「m」「ng」「n」はちゃんと分けて。掲示板にもありましたが、タンザニアにはンブル(Mburu)、ンゴロンゴロ(Ngorongoro)という地名があります。前者はタンザニアの郡であり、町なのですが、その「ン」は綴りで分かる通りm、後者は1カ所に多数の種類の野生動物が生息している自然保護区でその「ン」はngです。

中国南部にも「ン」で始まる語はあって、呉は広東語で「ン」(Ng)です。またベトナムの姓のNgoやNguenはカタカナでは「ゴー」「グエン」と表記され、鼻濁音とされていますが、どちらかと言うと「ンゴー」「ングエン」(「グ」は鼻濁音)に近いのではないかと私は想像しています。いつかベトナム人によく発音してもらって確認してみましょう。


[追記]
「ん」のことをインターネットで探していて、『ことばの散歩道』というサイトにぶつかり、その中に(日本語には)「なぜ『ん』で始まる言葉がないのか?」という文章があるのを見つけました↓:
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/n.htm

内容は私の言っていることとほぼ同じですが、ある部分ではもっと詳しく、筆者の言葉への思い入れにあふれていて、とてもおもしろいです。この文章で、「n」でも「m」でも「ng」でもない「ん」の音は口蓋垂鼻音というのだということがわかりました。

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