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楽器 |
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2016年6月1日 |
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 | 西村 万里 [にしむら・まさと]
1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。 |
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▲ ドガ「緑の部屋の踊り子たち」 1879年ごろ |
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▲ ドガ「休憩するふたりの踊り子」 1874年 |
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音楽を自分でやる人ならだれでも同じ感情を抱いていると思うけれど、楽器というものはその機能以上に愛着の対象である。長年使い込んだ楽器はほとんど独自の人格を持つかに思われ、ミュージシャンにとっては何物にもかえがたい貴重な「相棒」なのだ。
カントリー歌手のウィリー・ネルソンはもう45年ぐらい同じギターを使っていることで有名だ。ただ持っているだけなら40年だろうが50年だろうがめずらしくないが、ウィリーはすぐれたギタリストで大スターだ。一年の大半をコンサート・ツアーに費やす。それなのに年がら年中ただ一丁のギターを演奏している。もうどこもかしこもボロボロで、しょっちゅう修理に出してだましだまし使っている。それでも手放さないのはそのギターの音色(ねいろ)が自分を表現するのになくてはならないものだと信じているからだ。
マーティン社のクラシック・ギター(金属弦ではなくナイロン弦を使う)で、もともと指先で弾くように作られたギターなのに、彼はピック(プラスチックでできた「爪」)を使って弾くものだから、長年の間に表板が削られて新しく穴があいてしまった。いくら表板が薄い木の板だとはいっても、穴があくぐらい弾きこむというのは尋常なことではありませんよ。それでも彼は新品に取り替えようとはせず、「『トリガー』(ギターの愛称)がだめになったら私は引退する」と宣言している。でも今年83歳になってもまだ当分引退しそうにない。ウィリーのギターか、ギターのウィリーか、というぐらいのものだ。それほど一心同体の関係になったら、金に換算するなんてことができるものではないことは容易に想像されるだろう。
去年ジョン・レノンが若いときに使い、その後盗まれたギターが(サンディエゴで!)発見され、競売にかけられた。そのなんのへんてつもないギターが241万ドル(ほとんど3億円)で落札された。けれど、この場合はそのギターの持ち主がジョン・レノンだったということ、そしてそれが初期のヒット作に使われ、ロックの歴史を変えたということによってこんなとほうもない高値がついたのだ。ジョンが聞いたら驚いただろう。要するにこれは「骨董的価値」であって、楽器としての価値ではない。
けれど、楽器というものはこの二つの価値がともすれば同時に発生するからやっかいだ。ウィリー・ネルソンにとって金には替えられない価値をもつギターが、しかし彼が死んだあとになってみれば、伝説の名器として宣伝され、競売にかけられて一億円ぐらいで売買される、なんてことがあるかもしれない。その名器は新しい所有者にとって、「ウィリー・ネルソンが愛したギター」ということに価値があるのだから、見方によってはその価値とはまぼろしのようなもの。同じギターでありながら、二つの全く別の価値付けがなされるわけだ。
そんなことを考えさせられたのも最近クェンティン・タランティーノ監督の「ヘイトフル・エイト」という映画を見たからだ。私はこの映画についてなんの予備知識もなく、ただワイオミングに舞台をとった西部劇だというので矢も楯もたまらず映画館に見に行った。確かに時代は1870年代、場所はワイオミングではあるものの、とても西部劇と呼べるしろものではなく、劇中の暴力にへきえきして帰ってきた。それは矛盾しているではないか、西部劇から暴力をとったら何が残るのだ、という人もいるだろう。しかしそれは通りいっぺんの見方にすぎない。西部劇には西部劇としての様式美がある。それをタランティーノ監督は百も承知で無残に破壊しているのだ。それが彼一流のやり方であることはわかるけれど、私にはうけつけられない。
それにもましておぞけをふるったのは劇中のつぎのエピソードだ。映画は雪嵐で駅馬車の中継所にとじこめられた8人の男女の話だ。この中でただ一人の女、護送される囚人を演じるジェニファー・ジェーソン・リーがギターをひきながら歌を歌う場面がある。1870年代のアメリカ西部で使われるギターなら十中八九マーティン社のギターに違いないとにらんで私は興味津々だった。タランティーノ監督は凝り性だから時代考証にぬかりがあるとは考えられない。たしかにそのギターは19世紀のマーティン・ギターの特徴をそなえ、本物らしく見えた。
ところがこの女をつかまえた賞金稼ぎ(カート・ラッセル)が怒り出して突如彼女のギターを奪い、荒れ狂いながらそれを柱に叩きつけ、粉々にしてしまう。ジェニファーも私もあっけにとられてそれをながめた。呆然としながら、しかし私はこう考えた。このギターがたとえ本物だったにしても、たたきこわす楽器はうまくすりかえたにせの楽器に違いない、と。誰だってそう考えるだろう。
ところがこの楽器は替え玉ではなかった。映画を見たあとでインターネットで知ったのだが、ギターは実際マーティンであるだけでなく、本物も本物、1870年代の逸品で、マーティン本社の資料館から借り出したものだそうだ。それを知らされていなかったラッセルは台本通りギターをめちゃめちゃにした。仰天したのはジェニファーである。彼女の「本物の」驚愕を映画にとりたいためにタランティーノはこれをたくらんだのだ。マーティン側は激怒したけれど、後の祭り。これからは何があっても楽器は貸し出さないと決めたそうだ。そりゃそうだろう。
私はこれを読んであまりのことに怒りをおぼえた。タランティーノの映画はもうこんりんざい見たくないと思ったほどだ。
だってそうでしょう。ギターには保険がかかっていたが、その希少価値に見合うようなものではなかった。しかしたとえ大金を積んだところで金に替えられる話ではない。今から140年あまりも前に作られた楽器なのだ。何かの事故で偶然こわれたとしても大きな不幸なのに、故意にぶちこわすなんて、そんな冒瀆(ぼうとく)を働いてもいいのか。あやまってすむ話なのか。
むかし何かの雑誌で俳優の丹波哲郎がこう言っていたのを読んだ。彼の出演した映画の中で水中に死んだ犬が何匹も浮いている、というシーンがあったそうだ。「ぬいぐるみを浮かせればすんだことなのに、監督はわざわざ犬を殺してその場面をとった。そういうのを『くそリアリズム』というのだ」と口をきわめてののしっていた。
その映画は今村昌平の「豚と軍艦」だったと思うけれど、私は見ていないのではっきりそうだということができない。ともかくこれを読んで私は丹波哲郎を尊敬した。無用な殺生をする監督を正面切って非難する姿勢に感心した。
それ以来「くそリアリズム」という言葉が私の頭の中に根をはやした。タランティーノのこのマーティン・ギターの一件ほど「くそリアリズム」という言葉がふさわしいものはないと思う。
台本に書いてあるからといってその通りに演じた役者も役者だ。楽器に対するおそれや敬意がみじんもないのだろうか。文学者のペンや画家の絵筆と同じように、楽器というものは芸術を生み出すのになくてはならないものだ。それはもちろんごみのような楽器もあるけれど、どんな安物だって音楽を作り出そうという気持ちから作られたにはちがいない。それを壁に飾ったりして本来の用途を無視することさえ認めたくないのに、よりにもよってたたきこわすとはなにごとか。
いや、そんなことをいっても、現実には楽器をこわす、ということはそんなにめずらしいことではない。人目を引くためにロックではよくやることだ。ウッドストックの昔から、ザ・フーなどは演奏の終わりにエレキ・ギターをたたきこわすということをやっていた。ロックの場合には古い楽器に愛着を持つ、ということがそもそもないのかもしれないけれど、よくあんなことができるなあ、と思ってしまう。
こんな人間だから私はたとえばドガの名画を見てもよけいなことを考える。ここに掲げた絵では、踊り子がベースに足をかけて靴のひもを結んだり、ピアノの上に座ったりしている。絵のできなんぞはそっちのけにして、「おいおい、そんなことやっちゃいかんだろうが」と小言をいいたくなる。
ドガの有名な踊り子の銅像はわざわざタイトルに「14歳」と断っているから、この絵の中の踊り子もそれぐらいの年齢なんだろう。考えてみればそんな小娘が楽器に対する畏怖など持ちようがないことは当然かもしれない。でもやっぱり気になる。ただ、ドガがこういう絵を描いてくれたおかげで、むかしにもこういう風に楽器をないがしろにする人間がいたことだけはよくわかる。
楽器の価値ということでは必ず話題になるのがバイオリンだ。300年前のストラディバリウスが12億円で売れた、などという例がある。でもその手の話は飽きるほど語られているから、ここで私が繰り返すまでもないだろう。
バイオリンはいいものであれば、そして常に弾かれていれば、年月が経つに従って成長する。音がよくなるのだ。私は楽器というものはすべてそういうものだと思っていた。でものちに必ずしもそうではないということを知った。たとえばピアノは年月がたってもよくならない。私がピアノを弾けないからかもしれないけれど、どうもあの楽器にはわずかながら違和感がある。
ごぞんじのようにピアノはときどき調弦しなければならない。今はデジタル・チューナーを使って調弦するのだろうが、むかしは絶対音感を持つ調弦師が自分のかんにたよって調弦した。いずれにせよ、演奏者はただ座って弾きだせばいいのである。コンサートでは事前に調整するが、演奏者が調弦するわけではないし、しようと思ってもできない。バイオリンとはえらい違いだ。
先月サンディエゴで五嶋みどりの演奏を聴いた。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲で、すばらしいできだった。こんなことをいうと笑われるかもしれないけれど、プロのバイオリニストの演奏を聴くとその完璧なイントネーション(音程)にいつも驚嘆する。バイオリンの指板には何の目印もないから、一音一音が真剣勝負で、指をおろす場所がちょっとでもずれたらそれで一巻の終わりなのである。それを全曲破綻(はたん)なく弾き切るには血のにじむような、終わりのない修練が必要だろう。
ピアノの演奏家にはその修練は必要ない。もちろんピアノにはピアノのむずかしさと美しさがあって、バイオリンとくらべてどうこういうわけにはいかないけれど、すくなくとも音程については頭をなやまさなくていい。
私の頭のなかではこの音程が定まっているということと、楽器として成長しないことがどういうわけかリンクしていて、歴史のあるピアノがその音のために破格の値段で売れたなどと聞いたことがないのも、まあそりゃそうだな、と何がそうなのかよくわからないまま納得してしまっている。
え?私のバイオリンですか。最初にボストンで買ったのはドイツ製で、ヤーコプ・スタイナーの古いコピーです、なんていうといっぱしのバイオリンのように聞こえるだろうけれど実は安物で、それを30年ぐらい弾いたあげく、ついにがまんできなくなって中国製の新しいものに買い換えた。
バイオリンは成長する、かけがえのない相棒だなんていってもそれは弾き手に人を得た場合の話です。
後記)タランティーノのギターの一件は監督も予期していなかった事故だという説がありますが、ありえないことです。撮影を一時中止してギターを替え玉にすり替えることができるのは監督だけです。その「カット!」のひとことを口にしなかったのですからギターの破壊は監督に全責任があります。
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