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113 アルクイユ (Arcueil)
2010年8月1日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。


アルクイユ (Arcueil)


上段の絵をご覧いただけますか? これは19世紀後半に描かれたものですが、画風からして印象派の絵画だとお感じいただけるかと存じます。

これは、ジャン=バティスト・アルマン・ギヨマン(Jean-Baptiste Armand Guillaumin)という印象派の画家が描いた作品で、「アルクイユの水道橋」(The Arcueil Aqueduct at Sceaux Railroad Crossing) といいます。1874年の作品です。この年は、ちょうど第1回印象派展が開催された年でもあります。権威を誇っていた当時のフランス既成画壇に反発していた画家達が、パリ・キャピシーヌ通りのナダール写真館で独自の展覧会を開催し、権威に公然と反旗を翻した年でした。

1841年にパリで生まれたギヨマンは、この印象派展には、第1回から出品し、最後になった第8回(1886年)を含めて、合計6回出品しています。この人物は、技術的とか感性的に飛び抜けていたという画家ではないと思いますが、画家としてはいっぷう変わった人生を歩みました。

まず15歳のときに、叔父が経営していた服飾店に勤め始めました。そのかたわらで、元来好きだった絵画の勉強をするため、夜間の写生学校にも通いました。多くの画家達は、それが昂じて仕事をやめて画業に専念するようになるのですが、彼は違いました。画家になることを夢として持ち続けながらも、それを専業にしないで、鉄道会社やパリ市の土木課に勤めながら、余暇に絵画制作をしたのです。生活を考えることのできた、いわば常識人だったのでしょう。

ところが50歳の時に彼の運命は一変しました。1891年、宝くじに当選して、思いもかけない10万フランという大金を手にしたのです。1891年と言えば、日本では明治24年のことです。現在の貨幣に換算したら、いったいどのくらいの金額になるのでしょうか?

現在はユーロになってしまい、フランス・フランは存在しませんが、私の体験ではだいたい1フラン=20円ちょっと、という時期が長かったように思います。それで換算すると、10万フランは約200万円です。そして、119年という時間の経過を考慮すると、乱暴ですが価値は約100倍と見て、ざっと数えて2億円というところでしょうか? まあ現在の日本の年末ジャンボ宝くじに当たったようなものかもしれません。

そしてこの大金を手にした彼は、それをきっかけに他の仕事を辞め、絵画制作に専念するようになったのです。宝くじを当てたばかりに、不幸になった人達のことはよく耳にしますが、中にはこうして、うまく活用した人も居るのですね!

結局彼は、印象派の最長老のクロード・モネが1926年に86歳で没した翌年の1927年、モネと同じく86歳でその生涯を終えました。宝くじに当たってから36年後のことでした。

アルクイユというタイトルで、手始めにこの画家のことを書いて参りましたが、実はここのおしゃべりのメインテーマは、このローマ時代に建設された水道橋のある、アルクイユ (Arcueil) という町のことです。

アルクイユは、パリの南側の郊外(パリ市13区の南側)にあります。郊外と言いましても、RER (Réseau Express Régional = パリ首都圏高速鉄道 = メトロの郊外高速線)で、市内中心の基幹駅のひとつ、シャトレ駅 (Chatelet) から15分ほどで着いてしまう、ほんの近郊にあります。駅は、アルクイユ・カシャン (Arcueil-Cachan) 駅下車です。

中段の写真をご覧ください。実はこれは有名な写真なのですが、中央の建物は、19世紀末から20世紀初頭に活躍した音楽界の変革者(異端児?)エリック・サティが59年の人生のうち、その半分近くの27年間暮らした、アルクイユにあるアパートです。

パリ市内のアパートを家賃が払えずに退去させられたサティは、逃げるようにここに移り住みました。そして主たる収入源だったピアノ弾きをするために、毎日ここからシャトレ行きの電車に乗り、パリ市内、モンマルトルの酒場、オーベルジュ・デュ・クルーまで通っていたのです。

エリック・サティってご存じですよね。エリック・アルフレッド・レスリ・サティ (Erik Alfred Leslie Satie 1866 〜 1925) は、スコットランド人の母と、フランス人の父の間に生まれた作曲家です。彼の生地は、ノルマンディのオンフルール (Honfleur) です。この寂しい港町には、私もちょっとした想い出がありますが、素敵な港町です。

サティは、たしかに変人で異端児でしたが、西洋音楽の伝統に新しい扉を開いた革新者であったことも確かだと思います。20世紀の作曲家、ドビュッシーやラヴェルは、サティから強い影響を受けており、今となっては彼は西洋音楽史上、重要な人物のようです。それにしてもこの人物、極めて複雑な人柄だったようで (それがフランス人的と言えば、その通りだと思います。) 以下の略歴をご覧いただくと、少しは見当がつくかもしれません。

1866年 - オンフルールにて誕生。英国国教会で洗礼をうける。

1870年 - 父アルフレッド・サティが海運業をやめ、パリに移住。

1872年 - スコットランド人の母、ジェイン死亡。オンフルールに住む父方の祖父母に預けられ、カトリックとして再度洗礼。

1874年 - 祖父、ジュール・サティがエリックに音楽を学ばせ始める。

1878年 - 祖母ユラーリがオンフルールの浜辺で溺死体で発見される。サティは父のいるパリへ再度移住。

1879年 - パリ音楽院 (コンセルバトワール) に入学。しかし学校や学風がまったく肌に合わず、学校では反発の連続。

1886年 - 音楽院を退学する。(結局7年間在学)以後、活動をモンマルトルに移す。

1893年 - シュザンヌ・ヴァラドン(ユトリロの母で画家。猛女と称される。)と交際を始め、彼女に300通を超える手紙を書く。6ヵ月後ヴァラドンと絶交。

1905年 - スコラ・カントルム入学。(これは私立の音楽学校。音楽院時代には反発で音楽理論もまったく学ばなかったため、対位法等の音楽理論を40歳近くになってきちんと学習するために入学。)

1908年 - スコラ・カントルム卒業。(優秀な成績で卒業とのことですので、ちゃんと勉強したのだと思います。)アルクイユの急進社会主義委員会に入党。

1925年 - 聖ジョセフ病院にて肝硬変のため没。アルクイユの公共墓地に埋葬。

いかがですか? なんとも複雑そうな人生ですね。私もこの作曲家の作品の一部は大好きです。(全部ではありません!) その代表は「ジムノペディ」(Gymnopédies)です。サティが1888年に作曲したピアノ曲で、3/4拍子のゆったりとしたテンポで、長調とも短調ともつかない独特の愁いを帯びた旋律が素敵です。お聞きになれば、きっとどこかで耳にしたことがあると思います。

「ジムノペディ」とは、古代ギリシアの祭典、「ギムノパイディア」に由来しているのだそうです。「ギムノパイディア」とは、古代ギリシャ時代、若者達が裸になって、アポロンやバッカスの神々の像の前で踊り、合唱し、詩を朗読したりしながら何日も続けるお祭りでした。祭典自体はたいへん激しいものだったようですが、この曲は実はゆったりとして静かな曲なのです。サティは、その祭を描いた古代の壺を見て曲想を得たのだそうです。

この曲、「ジムノペディ」は、現代では病院の血圧測定などの際、測定中に患者をリラックスさせるためのBGMとして使われたり、精神科などで気持を落ち着かせる心理療法の治療音楽として使用される事も多いと聞きますから、やはり何かあるのでしょうね。

下段の写真が、エリック・サティの肖像写真なのですが、人間は外見ではわからないものです。彼の作品の中には、「官僚的なソナチネ」とか、「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」、「あらゆる意味で、でっち上げられた数章」、「嫌らしい気取り屋の3つの高雅なワルツ」などといった、奇妙な、とても美しいとは言えない題名があります。私見で恐縮ですが、こうした曲や曲想も私の好みではありません。人間の複雑性と不可思議性をあらためて見る思いです。

この町、アルクイユは、もう1人歴史に名を残した人物と関わりがあります。それは、「サディズム」とか、「サディスティック」という悪名で有名になった、18世紀の小説家、マルキ・ド・サド(サド侯爵 Marquis de Sade 1740 〜 1814)です。

サドは、パリに生まれましたので、ここの出身ではないのですが、1768年(つまり彼が28歳の時)に、「アルクイユの乞食女鞭打事件」をここで起こしたのだそうです。詳細は知りませんが (と言うか、知りたくもありませんが・・・)、多くの異常性犯罪によって74年の人生の内、30年余を獄中と精神病院で過ごしたサドは、ナポレオンの逆鱗に触れたこともあって、呪われた作家として歴史の表舞台から抹消されてきました。そして亡くなったのも精神病院でした。でも、20世紀初頭に、アポリネールやブルトンによって光を当てられ、文学の舞台に再登場してきたのです。

サティとサドの間には、関係はありませんし、おそらくサティはサドがアルクイユでそのような事件を起こしたことなどは、知らなかっただろうと思われます。サドが文学の世界で生き返ってくるのは、サティの晩年以降のことだからです。

それにしても、フランスには、こうした様々な反逆者というか、革新者の強い伝統がありますね。パリ近郊の小さな町にも、こんな歴史があったのです。オルリー空港からも遠くないこの町からは空港に発着する飛行機がよく見えると言います。

猛暑の中、外へ出かけるのは早朝のウォーキングだけという日がここ一両日続いておりまして、外の炎熱を見ながら、涼しくした部屋の中で、久しぶりにジムノペディを聞きながら、ゆっくりとくつろいで、このおしゃべりを書きました。勝手なストレス解消法におつき合いいただきまして、ありがとうございました。
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