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ボーダーを越えて
148 中絶抗争
2009年6月21日
雨宮 和子 雨宮 和子 [あめみや かずこ]

1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。
▲ プランド・パレントフッド・フレンズの今年の会長さんは80歳のフラン・ローゼンバーグさん。
▲ ローゼンバーグさん(左)と一緒に活動を続けて来たマーガレット・ムーディさん(右)は74歳。
▲ 4月の会の集まりにはプランド・パレントフッド専属のケート・シーハン医師が医療の面での活動を説明してくれました。
私がアメリカの地を踏んだのは1973年2月、はっきりした日付は覚えていないのですが、下旬でした。そのあとすぐウォーターゲート事件のからくりが発覚して、5月から始まった米国議会上院での審問のテレビ中継に私は釘付けになり、アメリカでの生活を始めるいい勉強だと感心していました。

でも私がアメリカに来るちょうど1ヶ月前に、ウォーターゲート以上に市民(特に女性)にもっと直接的に大きな影響を与えることが起こっていたのでした。それは「ロウv.ウェイド」(Roe v. Wade)という一件に関する米国最高裁判所の判決だったのですが、当時の私はそのことの重要性には全く気が付かないどころか、「ロウv.ウェイド」なんて耳にしたこともありませんでした。

ところが、1980年頃だったと思いますが、生命はいつ始まるのかという議論が政治の場で大きく取り上げられて米国議会上院で公聴会が開かれ、初めて「ロウv.ウェイド」ということを知ったのです。「ロウv.ウェイド」というのは、アメリカ全州で妊娠中絶を合法化した米国最高裁判所の判決のことです。妊娠第1期(12週間目まで)の妊娠中絶は女性のプライバシーの問題として、妊娠中絶を禁止する州法はアメリカ合衆国憲法に違反するというその判決が出されたのは1973年1月22日でした。(その判決では、妊娠13-24週間の第2期の中絶は女性に選ぶ権利があるけれど州が条件をつけることができ、第3期の中絶は胎児に深刻な異常がない場合は州が禁止できるとしています。)

妊娠中絶は1967年までアメリカの全州で禁止されていました。が、中絶合法化への運動が高まって、全州の3分の1ぐらいが条件付きで(条件の内容は州によって違いますが)中絶禁止が緩和されるようになり、一握りの州では完全に合法化されるまでに至ったのです。が、残りの30以上の州では相変わらず中絶は禁止のままでした。「ロウv.ウェイド」の判決はそういう中絶禁止をすべて払いのけてしまったわけです。

それまで中絶の合法化運動を進めて来た人たちが「ロウv.ウェイド」の判決を大勝利として受け止めたことはもちろんです。逆に中絶反対派は、これで負けたと匙を投げるどころか、「ロウv.ウェイド」の判決を覆そうと、様々な巻き返しを始めました。その戦略の一環として、米国議会で「生命はいつ始まるか」といういわば哲学的問題を政治の場へ持ち込んだのです。

ブッシュが大統領だった間は、中絶禁止を米国憲法に盛り込もうという動きさえありました。それはむずかしいとしても、大統領選挙や連邦議員選挙では中絶がリトマス試験紙となりますし、最高裁判所判事の任命では候補者が「ロウv.ウェイド」をどう考えるかが必ず大きな焦点になります。ソーニャ・ソトマヨール判事の諮問でもその件が持ち出されるのは必須です。

それだけではありません。反対派の戦略は次第に過激化して、政治家への働きかけにとどまらず、中絶を行うクリニックや医師にデモや嫌がらせや脅迫や妨害を仕掛け、次第に放火や殺人にまでエスカレートして国内テロ集団になってきました。こうした反中絶の動きは医師教育や医療にも圧力をかけることになり、現在中絶技能を教える医学校は皆無に等しく、中絶をする医師の数は1970年代から半減して、合法である中絶を受けられない地域が広がっているのです。そして去る5月31日、カンザス州で第3期の中絶を行うジョージ・ティラー医師が、急進的反中絶派の男性によって射殺されてしまいました。これで第3期の中絶を行うクリニックを開いている医師は、全米でたった2人だけになってしまいました。中絶が自由な日本に生まれ育った私には、これはなかなか理解できません。

中曽根康弘が首相だった頃だったと思います。日本の政治家が、アメリカでは中絶問題などという些細なことが大きな政治論争になっている、といかにも見下した言い方でアメリカを揶揄したことがありました。中曽根首相自身が「アメリカ人は程度が低い」などと発言して、論議をかもしたのと同じ頃のことです。どちらもバブル崩壊前の日本の自信過剰を象徴する発言でした。が、中絶が実質的に自由な日本で、中絶をめぐるアメリカの抗争を理解するのはむずかしいと言えるでしょう。

日本でも厳密に言うと、中絶は完全に自由化されているわけではないということをご存知ですか。刑法には「堕胎罪」という条項が残っているのです。それを1948年に施行された優生保護法に翌年の改訂で中絶要件に「経済的理由」を加えることによって中絶を実質的に解禁しました。(この優生保護法は1996年に優生思想を取り除く大改訂を受け、母体保護法として再出発しましたが、中絶要件は変わっていません。)1972年から74年にかけて、生長の家が中心となって「生尊重運動」という名目で中絶を規制しようという運動を起こしたことがありましたが、成功しませんでした。

合理的に考えると、中絶を防ぐには避妊を徹底させることのはずですが、不思議なことに、中絶反対派には避妊も反対、避妊を教える性教育などもってのほか、と考える人が多いのです。 それで(もう随分昔の話になりますが)私は中絶をめぐる日米社会の違いを大学院で研究することにしました。同時に、低所得者に避妊や中絶を提供し、家族計画教育を広め、若い人たちに性教育をするプランド・パアレントフッド(Planned Parenthood)という組織でカウンセリングのボランティをしたり、理事を務めたりしました。いまでもその組織を支援するプランド・パアレントフッド・フレンズという会に参加しています。

この会のメンバーの主流はおばあさんたちです。つまり、自分自身や身近の女性が中絶の必要に迫られても簡単に中絶できなかった時代を生きて来た人たちなのです。彼女たちが、子どもを産むか産まないかを自分で決める権利を、法律的にも実質的にも次の世代のために守っていこうと闘志を静かだけれど、絶やすことなく燃やしているのがよくわかります。もう決して若くはない私よりはるかに年上のおばあさんたちが、こつこつと活動を続ける姿を毎月の集まりで見るたびに、こういうおばあさんになりたいと私はいつも元気をもらってくるのです。
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