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縁の下のバイオリン弾き
94 グーリックさんのこと
2014年5月15日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ グーリックさんの字
▲ グーリックさんの絵
平戸に行ってきた。「日本人の肖像」で知ったかぶりを書いて以来、いつか行ってみたいと思っていたが、その機会が思いがけず早く訪れた。

平戸は新緑の真っ盛りで川内峠から見下ろす島々の景色はすばらしかった。魚がうまい。漁業組合のビルの中に食堂があってとれたてのひらめを刺身にしてくれる。

まっさきに「松浦史料博物館」に行った。これは平戸藩主の屋敷を史料館にしたもので、建物は1893年(明治26年)にたてられたそうだ。

さまざまな歴史的展示品がならべてある。ところが一番奥にある部屋に至ったとき、私はおもわずあっと声をあげた。おどろいたともなんとも、自分の目が信じられない思いがした。

それは史料館が歴史的に重要だとして陳列してある展示品ではなかった。現代人の手になるもので、それがそこにあるのはただただ史料館がその人に敬意をはらっているからにすぎなかった。

その部屋には狩野探幽(かのう・たんにゅう)の筆になる獅子の屏風ほかたいそうなものがいくつも置いてあるのがガラスごしによく見えた。その鴨居(かもい)のところにいくつか額がかけてあるのだけれど、その中に墨のあともあざやかな四字をならべたものがあった。私には「鶴鳴九皐」(「かくめいきゅうこう」ー 右から左に読む)と書いてあるそのすべてが読めたわけではない。どういうわけか「九皐」は読めた。鶴もたぶんそうだろうと思ったけれど、確信がもてなかった。読めなかったのは「鳴」の字だ。

あとで史料館の人に聞いてこれは「つるきゅうこうになく」と読むのだと教わった。意味までは聞かなかった。

私がおどろいたのはその署名である。「昭和四十一年正月五日為松浦史料博物館(松浦史料博物館のために) 駐日和蘭大使ヴァン・グーリック書」と書いてあるのだ。和蘭はオランダのことで、このヴァン・グーリックさんは当時、つまり1966年には日本に駐在するオランダの大使だった。

この額はだから西洋人によって書かれた物だ。そのヴァン・グーリックという名前を私はよく知っていた。知ってはいたが、その人がこんなに達筆だとは夢にも思わなかった。それでおどろいたわけだ。

このひとは本名をロバート・ハンス・ヴァン・グーリック (Robert Hans van Gulik, 1910-1967)というのだが、本人がそう書くので R.H.ヴァン・グーリックで通っている。

職業は外交官だったけれど、その一方で中国を専門とする学者でもあった。

彼の書いたものでもっとも知られているのはディー判官を主人公とした推理小説シリーズだろう。Judge Deeというこの主人公は実在の人物で、狄仁傑(てき・じんけつ、630? – 700?)という。

狄仁傑は日本の大岡越前守とか遠山の金四郎といったような伝説的な中国の「名判官」だ。中国にはもともと彼を主人公とした公案小説(裁判小説)があった。でも公案小説では包公という人が最も有名な中国の裁判官で、それに比べると知名度がぐっと落ちる。その狄仁傑をわざわざ主人公にして近代的な推理小説を書いたのがグーリックさんだ。

グーリックさんは話のあらすじを中国の小説からとった。そのことを本の中ではっきり言っている。中国の裁判小説は西欧近代の推理小説におとらない興味あふれる読み物だ、という考えからそれを紹介する、という意味で自分で推理小説に仕立て上げた。

推理小説というものはエドガー・アラン・ポーが「モルグ街の殺人」などのデュパンものを書いたのがはじめだとされている。それ以前にも推理をあつかった小説や芝居はあったのだろうけれど、厳密な論理だけによる水ももらさぬ犯罪の解明、というのはポーを待たなければならなかった。

たとえばシェークスピアの「ハムレット」は一面から見るならば父親を殺したのは誰か、という謎解きの劇だということができる。ただこまることは芝居の最初に殺された先王の幽霊が出てきて真犯人を示唆することだ。最初から犯人が分かっている「倒叙もの」という推理小説のジャンルがあるが、「ハムレット」はなにしろ殺された犠牲者が犯人を告発するのだからそれにもあてはまらない。

つまりそういう風に神様だの幽霊だのがでてくるのが近代以前の推理小説や劇であって、だから興味の中心は裁判官がどのような「名判決」を出すか、というところにある。理詰めで犯人を追いつめてゆく、ということにならない。

グーリックの小説は中国に背景をとり、話の筋(一篇の小説に三つぐらいの異なった謎解きがからんでくる)も中国の小説に借りながら、神秘的な要素をいれなかった。それが彼の推理小説を現代人が読むにたえるものにしている。

それだけでなく自分で挿絵まで描いた。中国の木版画にならって描いたペン画は遠近法も明暗法も無視していて雰囲気満点だ。

彼は原文を英語で書いた。ディー判官ものの最初の小説はまず日本人によって日本語に訳されて日本で出版された。ついで彼自身が中国語に訳したものがシンガポールで出版された。そののちの小説はすべて英語で書かれた。

ことわっておきますが、この人はオランダ人だ。したがって英語は彼にとって外国語なのだ。

中国語に訳する、といったって、現代の中国語に訳したのではない。種本が出版された明の時代、400年前の公案小説のスタイルで書いたのだ。それがどんなにむちゃくちゃにむずかしいことか私にはそれを伝えることばがない。

たとえば外国人が馬琴の「南総里見八犬伝」のスタイルで伝奇小説を書く、などということを想像してもらってもいいだろう。それは単なる文体の問題ではないのだ。昔の人がだれでも共有していた知識、しゃれや地口などの言葉遊び、ものの見方などをよく知っていなければ書けるものではない。

というわけでこのヴァン・グーリックさんがとんでもない怪物だということは納得してもらえたと思います。私はこのジャッジ・ディーものを香港にいるときに愛読した。主題が中国で文章が英語というのはそれこそ香港そのものを象徴している。

狄仁傑は最近中国の映画に主人公としてよく取り上げられる。論より証拠、日本からアメリカに帰ってくる飛行機の中で私は徐克(ツイ・ハーク)監督の「狄仁傑之神都龍案」(日本ではどういう題がついているのか知らない)という映画を見た。そういう映画はグーリックの小説とはまったく関係がなく、したがって原作者として彼の名前がクレジットにでてくることはないけれど、狄仁傑を取り上げる、ということ自体がグーリックの推理小説がなかったらありえなかったことだ。彼が小説にするまでは狄仁傑なんて誰も知らなかったのだ。

グーリックさんは1967年に57歳でなくなっている。57歳なんて今なら若死にといっていいと思う。私は1970年までは日本にいたからいわば同時代人だったのだ。しかし私はそのころ彼の名前を知らなかった。私の兄は大学祭での講演を頼みに大使館に行って会ったそうなのだが。

外交官としての業績については知らないが、グーリックはそのほかにも「古代中国の性生活」とか「中国の琴」とかいろんな研究書を書いている。長生きしたらどんな活躍をしたかわからない。

平戸はオランダ人が日本との貿易のためにはじめて商館を建てたところでオランダとの縁はかくべつに深いからオランダ大使がこの九州の西の果て(松浦鉄道の終点たびら平戸口駅には「日本最西端の駅」という看板がかかっている)までやってくるのに不思議はない。でも彼が史料博物館に頼まれて一筆書いた、というのはとても普通のこととはいえない。

私は習字が苦手だから確信を持って言えるわけではないのだが、彼のこの筆勢を見て感心しないわけにはいかない。外国人で日本語あるいは中国語に堪能なひとはずいぶんいるだろう。また日本にやってきて書道を勉強している外国人にもことかかないかもしれない。私もそういう人を知っている。

しかしグーリックさんのこの書は一点一画をゆるがせにしない楷書ではなく、奔放な行書だ。「墨痕淋漓(ぼっこんりんり)」とでも形容するほかない字だ。

こういう勢いのある字を書くためには自信がなくてはならない。その自信をつちかうためにいかに練習に打ち込んだだろうか。これを書くための筆の大きさを想像してみてください。そんなものを持って、たとえどんなにへなちょこでも字が書けたらそれだけで私は尊敬する。

「九皐(きゅうこう)」を辞書で引いてみると「奥深い沢」という意味だとある。そして「鶴九皐に鳴く」は詩経という中国の古典にでていることばなんだそうだ。これは前半で、後半は「その声天に聞こゆ」という。「鶴が奥深い沢で鳴いてもその声は天まで聞こえる」ということで「賢い人は身を隠してもその名声は広く世間に知れ渡る」ということのたとえだそうだ。

この建物は前にも書いたように平戸藩主の子孫が寄贈したものでそれまではこの部屋はあるじの書斎として使われていた。だからグーリックさんはそのあるじをこの言葉の指す賢人としてもちあげているわけだ。

「書は人をあらわす」という。私はグーリックさんの深い学識に打たれた。

グーリックさんは語学の天才で15の言葉に通じていた。世の中にはすごい人がいるものだと思う。

彼は高羅佩(こう・らへい)という中国名を持っていた。その名前を題名とした中国語の伝記によると彼の中国語の発音はアクセントがひどく悪かったということでそれだけが私が彼のことを考えるときにほっとすることだ。


(追記)この文章ではグーリックさんのことをヴァン・グーリックと書いたりグーリックと書いたりで統一がありません。ヴァンというのは「どこそこ出身の」という意味で姓の一部です。名前ではありません。ですから欧米ではたとえばゴッホのことを言うときにはかならず van Gogh と言います。でも日本ではめんどくさいのでゴッホで通っていますね。もっともベートーベンはLudwig van Beethovenというのが本名ですが、これは欧米でもベートーベンだけで通用しています。あのぐらいの有名人になるとvan Beethovenなどというほうがおかしい。

それからオランダ語の発音はとてもむずかしく日本語に写すのは簡単ではないようです。Vincent van Gogh をフィンセント・ファン・ゴッホと書くのはそのあらわれです。グーリックさんもファン・ヒューリックと書いたほうが原音にちかいようでそう書かれることもあります。しかしこの額にみるようにご本人がヴァン・グーリックと英語読みで署名していますので私はグーリックでいいと思っています。中国名の高羅佩の高という姓もグーリックと読んでいるからこそ選んだ字だと考えます。
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