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還暦 |
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2006年5月13日 |
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 | 中山 俊明 [なかやま としあき]
1946年4月23日生まれ。東京・大田区で育つが中2のとき、福岡県へ転校。70年春、九州大学を卒業後、共同通信に写真部員として入社。89年秋、異業種交流会「研究会インフォネット」を仲間とともに創設、世話人となる。91年春、共同通信を退社、株式会社インフォネットを設立。神奈川県・葉山町在住。 |
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▲ オリーブの木の下のベルフラワーが咲きはじめた。 |
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▲ マロニエの花が、雨のなかで満開。 |
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20歳。30歳。40歳。50歳。
年代の節目ごとにひとは自分の年齢をことさら意識する。そして、自分はこのままでいいのか、この先きどうなるのか、と来しかた行く末を思い、未来を案ずる。ひとはどうか知らないが、僕が年齢のことを考えるときは、「現在年齢×2」という計算がまず頭を支配してしまう傾向があるようだ。
20歳×2=40歳
→人生の半分の半分経過。いまからおもえばまだ人生スタートについたばかりだったのに、あの頃はあの頃でけっこうあせっていたなあ。
30歳×2=60歳
→うーん現役の折り返し点が近づいてきたなあ。いまのままでいいのか。あせり。そこで外国留学を当時勤務していた会社に申請。一度目は却下され、その不満のエネルギーは家の新築に向けられた。留学はその直後32歳で実現したので、30歳初頭の危機はなんとか乗り切った。
40歳×2=80歳
→日本人の平均寿命から考えて、人生の中間点前後にきた。これでいいのか。あせり。43歳。会社を辞め、独立、家族ともどもアメリカに渡った。40歳代初頭の危機は、誰もが驚き、家族を巻き込んだ大冒険になった。安定収入を失った。
50歳×2=100歳
→ほとんど間違いなく自分はこの世にいない。人生を山にたとえれば頂上を越え、一路下り坂。いまのままでいいのか。52歳、苦労して立ち上げた大企業とのジョイントベンチャー役員辞任。ここでもまた安定収入を失った。
考えてみると、つねに年代の節目から2、3年以内にとんでもない、他人様からみると無謀ともいえる、船出を決断しているのが、僕の人生パターンだ。特に40代、50代初頭の決断は、もっとも物入りの多いときに、安定収入を失うという大リスクをともなった。
あらためてそんなことに思いをはせるのも、先月60歳の誕生日を迎えたせいだろう。なんと還暦である。
ぴんとこない。信じたくない。あらためて冷静になって計算をしてみる。60歳×2=120歳。生きている可能性はまちがいなくゼロ。折り返し地点ははるか昔。それどころか間違いなく人生は終盤といえる時期にさしかかっている。むしろ余命何年、という計算のほうが先きに立つ。父は78でこの世を去った。母はいま81歳だがこのところ目に見えて体力が低下してきた。すると自分の余命も常識的に考えればあと20年。病気でもすればあと10年!!!
冗談じゃないよ。そんなあ、うそでしょう神様、仏様、とこういう事態になってはじめて、これまで見向きもしなかった神や仏を期待する気持ちが出てくる。60歳は重い。なんとも重い。あせりと脅迫観念にとらわれて、誕生日以来ある種のうつ状態が続いている。
研究会ができた頃、つまりもう17,8年前、僕は「男の勝負は養老院で決まる」というエッセイを書き、けっこう好評を博した。文化部記者が養老院を取材した。そこにはもてるじいさんともてないじいさんがいて、もてるじいさんはばあさんたちに囲まれ話題がたえない。もてないじいさんはたいてい、かつての大企業役員、役人、教師、警官、新聞記者、銀行員。いっぽうもてるじいさんは、現役時代、肩書きには縁がなかったが、波乱万丈おもしろおかしく人生を送ってきた人たち。で、僕は後者の人生を選ぶ、とエッセイで宣言したわけだ。男の勝負は最終的には養老院で決まる、と。
だが実際、還暦を迎え、「養老院」がそう遠くもない地点に達してみると、僕がこれから「もてる」じいさんになっていくのはけっこうしんどいことだなあ、と思わざるをえない。安定収入をなくしたあとの人生は、波乱万丈ではあるが、けして面白くもなければ、おかしい人生でもなかった。なんだかいつも資金繰りで眉間にしわを寄せてばかりの時間が経過してしまった気がする。いまのままでは、ばあさんたちを面白い話で笑い転げさせる自信がない。
たった一回の人生。これでよかったのか。これからどう生きる。そんなことばかり考える日々が続く。これまでのパターンでいくと、これから2−3年以内に、またまた僕に大転機が訪れるはずだ。できれば、ばあさんどもに囲まれた幸せな男になるために、ばあさんどもを抱腹絶倒させるためにこそ、この数年の勝負にかけたい。
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