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ボリビア(4)小麦の都 |
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2010年7月8日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ 小麦畑の前に立つ比嘉徹さん。
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▲ お父さんご自慢の4シリンダートラクターのエンジンをかけてみせる比嘉さん。
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▲ 愛沖製粉工場。 |
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ボリビアのオキナワ移住地へ行くたびに、 爽快な気分になります。 その途方もなく続く平らな農地の広がりを目の前にして、アメリカ中西部みたい、と思いながら、穀倉地帯の豊かさが膚に響いてくるような感じがするのです。移住地の住民もおおらかでゆったりして、いっしょにいるだけで癒されるような気持になってきます。
でもオキナワ移住地が豊かになるまでが大変でした。入植当時の苦労についてはボリビア報告2回目「2つの日系移住地」でちょっと触れましたが、その後も苦難の連続。特に1968年の大洪水は大打撃で、ボリビアでの農業を諦めて町に出たり、隣国に再移住したり、沖縄に戻っていったりする人々が続出しました。同時に、その年にはオキナワ移住地は沖縄県より一足早く米国軍政下から抜け出して日本国政府管轄下に入り、JICAの指導を受けながら換金作物を模索するようになりました。
ちょうどその頃、ボリビアのサンタクルス地方では綿花の栽培がブームになり、オキナワ移住地もやろうという気概が生まれました。綿花栽培は大規模にやらないと採算が合いません。そこで、移住地を離れた人たちの土地を買い、JICAの融資で大型機械を取り入れて本格的に機械化農業を始めました。
ところが綿花栽培は大失敗。国際価格が大暴落し、多量の農薬使用で健康も環境も傷つき、機械導入のための借金でクビが回らなくなってしまいました。オキナワ移住地の方々の心はどんなに重くて暗い雲に覆われたことでしょう。簡単に想像などできないくらい大変だったろうと思います。
でも、綿花栽培のために耕地を広げ、機械化したことは無駄ではありませんでした。1980年代からブラジルやアルゼンチンで大豆栽培が始まり、ボリビアにも大豆熱がやって来て、オキナワ移住地でも藁をも掴む思いで大豆を植え始めたところ、それが大成功したのです。オキナワ移住地はやっと経済的に安定し、順風満帆に動き出しました。
オキナワ移住地の東側をアマゾン川に向かって北上するグランデ河は、洪水で大被害をもたらしますが、そのときにアンデス山脈からの栄養分を残していってくれるので、 オキナワ移住地の土壌は入植以来全く肥料を必要としなかったほど肥沃です。亜熱帯気候なので、「冬」は北半球とは反対の時期になりますが、平均気温は20℃を越し、容易に二毛作ができます。そこで、夏に大豆、あるいは トウモロコシやヒマワリ(油用)やコウリャン(飼料) を植える農地に、冬は何を植えたらいいかを検討した結果、小麦を植えることにしました。
「ボリビア低地のような亜熱帯で小麦が育つというのは大変なことだ」と、昔タンザニアの高原地帯で小麦栽培指導をしていて我が連れ合いは言います。小麦は雨が降りすぎる所ではだめで、暑過ぎても寒過ぎても育たないそうです。が、オキナワ移住地は冬は乾燥しているので、多少の高温に耐える品種を使って、本格的に裏作として小麦生産を始めました。
私がオキナワ移住地に行くのは8月中旬が多いのですが、そのころはちょうど小麦が立派に育って収穫が始まるころです。それでも収穫が終わるまでは油断できません。せっかく育った小麦が雨が降って台無しになったり、大風で倒れたりしてしまうことも珍しくないからです。冷たい空気が南極から流れ込んで風が吹くこともあります。私もその風に遭遇して身震いしながらあわててお店に飛び込んでセーターを買ったことがありました。
そういう自然環境の中で作物を育てていくのは大変な仕事ですが、オキナワ移住地は試験場で小麦生産について研究調査をし、1ヘクタールあたりの収穫量はボリビアで一番の成績を上げて、ボリビア政府農業畜産農村発展省から「ボリビアの小麦の首都」に指定され、「全国小麦の日」の小麦博覧会を毎年主催しています。
去る5月に行ったときには、若い小麦が育ち始めていました。オキナワ移住地生まれの比嘉徹さんに案内していただいた小麦畑は、ところどころ、2メートルほどの幅に植えられたトウモロコシの列が続いています。 「トウモロコシは小麦よりずっと背が高くなるでしょう? それで防風林の役目をするんじゃないかなと思って、試験的に植えてみたんですよ」と、比嘉さんは説明してくださいました。 「それは試験場のアドバイスですか?」 「いや、自分で試してみることにしたんです」 専門家からの指導を待たずに、自ら積極的に改善を試みる。サンファン移住地もそうですが、1人1人の向上心がオキナワ移住地の成功の秘訣なのでしょう。
天候不順や洪水のために7回連続不作を経験したことがあるという比嘉さんは、そんな経験も試練として受け入れてしまうほど前向きで、何事にも柔軟な姿勢でいつも接しているようです。と、口で言うのは簡単ですが、実際に苦難の連続に打ち勝つのは生易しいことではありません。連れ合いの事故や農園の火事でここ数年思わぬできごと続きの私は、自分よりずっと若い比嘉さんに見習わなくては、と思いつつ比嘉さんのお話を伺っていました。
農業機器は引退した両親の家に置いてある、ということで、比嘉徹さんのご両親のお宅に伺ったところ、引退されたはずの父上、比嘉敬光さんはじっとしていられない様子で、トラクターの整備を監督しておられました。巨大なコンバイン収穫機や種蒔き機の横に、旧式の4シリンダーのトラクターが置いてあります。 「当時はみんな3シリンダーのトラクターを使っていたんですが、私は4シリンダーのを買ったんですよ。馬力が違いますから」と、もの静かに語りながらも、敬光さんの顔は自慢そうにほころんでいます。 「私は10歳のときからこれに乗って親父の仕事を手伝ったんですよ」と、徹さんは再びそのトラクターに乗って、エンジンをかけました。30年以上にもなるそのトラクターは、問題なくエンジンがかかるのですから、たいしたものです。「この親にしてこの子あり」という諺がありますが、徹さんのご両親は笑顔を絶やさず、淡々と苦難も乗り越えて来られたように見受けられ、一人っ子の徹さんは優しいご両親の愛情をいっぱい身に受けて育ち、今日の姿になったのだろうなぁ、と思わずにはいられませんでした。
比嘉徹さんは農業の他にもう1つ事業に関わっています。同世代の仲間2人と一緒に、小麦の製粉企業、Aioki(愛沖)の経営です。大規模ではありませんが、小さくもなく、イタリア製の機械が24時間駆動しています。
6年前に、私は比嘉さんに立ち上げたばかりの事業について聞いたものです。 「製粉機械をどこから入手したんですか」 「インターネットで見つけました」 「エッ、本当に?」中規模とはいえ、決して小さな機械ではありません。 「本当ですよ。インターネットで探して、ちょうど良さそうなのが見つかったので、仲間といっしょにイタリアのパドアという所に出かけて行ったんです。イタリア人も自分たちをうんと気に入ってくれて、とてもいい条件の分割払いで売ってくれました」
今年は愛沖製粉工場の中も見せてもらうことにしました。 「支払いは無事全部終わりました」比嘉さんは案内しながら、さりげなくそう教えてくださいましたが、「あのときはやっぱり若かったんですね。いまだったら、あんなに簡単に踏み切れるかなぁ」と笑います。 工場の中には小麦の検査室もあり、器具は全部中国製でした。 「去年、上海の産業フェアに行ったとき買って来たんです。値段はヨーロッパ製の半分で、性能もいいですよ」 比嘉さんの言葉からは、中国製品が世界中に広がっているだけでなく、比嘉さんには国境という観念がほとんどないと感じられます。
比嘉さんはまだ20代の頃、研修で日本で2年間過ごされたそうです。 「何を勉強しに行ったかって? 低圧電気です。技術の進歩が速くていまでは使い物にならなくなりません。でも、日本で学んだことは大きいですよ。特に、人間関係では勉強になりました。ボリビア人の雇い方に役に立っています」 愛沖工場の入り口には従業員用タイムカード機が置いてありますが、それは日本で学んだことの1つだそうです。 「時間に厳しくするためというより、きちんとメリハリを付けて仕事をしてもらうためです。そうでないと、ダラダラしてしまいますからね」 たしかに、東部低地のボリビア人は呑気なのんびり屋だと定評なのです。
オキナワ移住地農協「カイコ」(CAICO)は、現在、「ボリビアの小麦の首都」の名前に負けないくらい大規模な麺工場を建設中です。近いうちに「小麦の都」産のおそばやマカロニ、スパゲッティがボリビアに出回るようになるのでしょう。
主要穀物の小麦とお米の生産が、ボリビアでは2つの日系移住地が中心だというのは、すごいことだと思いませんか。ちなみに、2つの移住地の日系総人口は2千人に満たないのです。
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