1989年創立 個の出会いと交流の場 研究会インフォネット
HOME 研究会インフォネットとは 会員規約 お問い合わせ
会員専用ページ
過去のINFONET REPORT カレンダー 会員連載エッセイ なんでも掲示板
会員紹介 財務報告
会員連載エッセイ
最近の記事 以前の記事
縁の下のバイオリン弾き
97 行水
2014年7月15日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 下田港の朝
新聞を読んでいたら伊豆半島の伊東市で7月6日に「たらい乗り競争」があったというニュースがあった。 直径1メートルの大きなたらいに乗り、大型のしゃもじを櫂(かい)にして川をくだるそうだ。もっともちゃんと乗ることはたいへんむずかしく、たいていは浸水したりバランスをくずしたりして沈没、ということが多いようだ。

動画もあったので見てみたらむかしながらの木でつくったたらいで、そういうものがまだある、ということに感心した。以前温泉旅館でせんたくに使ったものだというが、そんな古いものばかりではあるまい。今でもどこかで作っているのだろうか。

いったいどうしてこのような競争ができたのだろう。私はその遊び心に感心した。たらいに乗って川に浮かぶ必要なんかまったくない。そういうふうに、しなくてもいいことをするのが遊びだ。「お椀の舟に箸のかい」の一寸法師じゃないのだから。

なぜたらい乗り競争に興味があったかというと、実はその数日前たらいを買ったからだ。

もちろん木で作った本物の、むかしながらのたらいはアメリカでは手に入らない。むかしながらのものでなくても、たらいに相当するものはアメリカでは売っていない。

アメリカでだって洗濯機が普及する前は木や金属のたらいで洗濯をした歴史があったのだけど、今ではたらいを使うことはまずないらしい。デパートにいってもスーパーにいってもたらいは売っていない。

ではどこで買ったのかというとコリアン・マーケットだ。伊東市のに比べるとおよそ三分の二の大きさのプラスチックのたらいだ。韓国ではどのように使うのか知らないけれど、ここならあるに違いないとにらんだ私のカンはあたった。

以前にもここで丸鍋のような形のプラスチックの大きなひしゃく(手桶というべきか)を買った。風呂場でバケツに水を汲むのに使う。むかし日本にもこのようなものはあったはずだけれど、少なくともアメリカの日本商店では売っていない。韓国ではひょうたんを使ったひしゃくが有名だ。日常水を汲むということが日本よりはるかに多いのではないだろうか。

このたらいを買った目的はほかでもない、行水(ぎょうずい)を使うためだ。行水ってわかりますね。たらいに水をはってその中にすわってからだを洗うことだ。でも今では行水を使う人はほとんどいないだろう。風呂が短い人のことを「からすの行水」と形容するのがただ一つ残っているこの言葉の使い方ではないだろうか。

ことわっておくが私だって行水なんかしたことはない。赤ん坊のときはともかく、物心ついて以来たらいなんぞ使ったことはない。第一うちにそんな大きなたらいはなかったと思う。

けれども江戸時代の風俗として私は行水のことを知っていた。そのころ江戸の町家では内風呂をつくることは厳禁されていて(火事をふせぐため)人々は湯屋つまり銭湯に行かなければならなかった。夏場の暑いときにはわざわざ銭湯に行かなくてもたらいに水をはって行水を使ったほうが簡単だったわけだ。

庭があって塀でかこまれていればそれにこしたことはないが、そんなごたいそうな家に住んでいる人は多くはなかっただろう。裏長屋でもどこでも人々はたらいを持ち出して行水を使った。「行水の捨てどころなき虫の声」という心やさしい俳句がある。作者の上嶋鬼貫(うえしま・おにつら、1661-1738)をからかった「鬼つらは夜中にたらいを持ちまわり」という川柳まであった。

行水を経験したことのない私がなぜたらいを買ったか。それは今年の天候だ。五月に山火事があった。サンディエゴかいわいで9カ所、ほとんど同時に火の手があがった。気温が今までにないほど高く、空気がからからに乾いていたのでまたたく間に火は燃え広がった。鎮火のためにカリフォルニア中から消防士が集まった。南カリフォルニアでは山火事は大規模なものになることが多く、人々はいつもそれを心配し、用心している。でも5月に火事なんて聞いたことがない。

これも地球温暖化のあらわれだろうか。5月の暑さはここ何十年なかった記録的なものだった。それと同時に日照りがはじまり、雨はもちろん降らないし、貯水池の水位はどんどんさがる。サンディエゴでは節水が呼びかけられている。

それでなくても慢性的な水不足。いずれはトイレで使った水を化学処理して飲み水にしなければといった話が出る土地柄だ(うそではありません)。

私たちはふだんシャワーを浴びず、バスタブに湯をはって風呂に入る。その水をバケツで運んで庭の草木にまく。風呂といっても最小限の湯しか使わないから行水と似たようなものだが、それでもバケツ6、7杯にはなる。

行水ならバケツ1、2杯ですむ。朝バケツに水を入れて庭に出しておくと強烈な日光にたちまちぬるま湯、それもけっこうな温度のお湯になる。光熱費がいらない。使い終わった水はそのまま庭にまく。ささやかながら節水に協力しているつもりだ。

我が家の庭はまわりの隣家からは見下ろされる位置にあるのだけれど、一カ所だけ死角になっている場所があるのでそこにたらいをすえてはじめて行水を試みた。

外気にふれての入浴はじつによかった。日光をあびながら、草花を目にしながら体を洗う。

これも退職したからこそできることだ。我々はなるべく運動をしようと思っているのだけれど、年をとってくると運動といえば結局は散歩が一番、ということになる。リンダは坂をのぼることが運動として効果がある、と主張する。我が家はさいわい丘の上にあるのでどこに行こうと帰りは坂をのぼることになる。あえぎあえぎ坂をのぼって夏の暑さに汗みどろになって帰ってきて行水を使う。爽快とはこのことだ。

日本で行水がはやらなくなったのはシャワーが普及したせいだ。私自身はアメリカに来て初めて知ったのだが、シャワーとは本当に便利なものだ。シャワーがあればこそアメリカでの健康志向が発展したのだと思う。ジョギングやエアロビクスなどシャワーで汗を流すことが勘定に入っていなければだれがあんなことをするものか。

むかしの日本にはシャワーはなかったけれど、時代小説を読むと道場稽古の後などでよく若侍(わかざむらい)が井戸端で水を浴びている。人々は神仏に願をかけて水垢離(みずごり)をとる、つまり水を浴びて体を清めるなどということをしている。

「我が輩は猫である」には友達の家にかってに入って来て風呂場で水を浴び、その後はゆかたを借りて主人と語り合う、なんていう人物が登場する。そんなのはごくふつうのことだったのだろう。

私の知人に夏冬を問わず、朝一番に冷水のシャワーを浴びる、というオランダ女性がいる。「健康にいい」というのだが私にはそんな元気はない。むかしの日本には(今でも?)「冷水摩擦」なんてことをする人がいたからけっこう冷たい水が平気だったのかもしれない。

なぜシャワーを浴びないかといえば、使った水がそのまま流れてしまうからだ。シャワーで使う水の量は馬鹿にならない。私はその水をむだにしたくない。バスタブに栓をしてからシャワーを使えばいいようなものだが、それぐらいなら私は風呂にする。

水の豊富な日本ではこんな心がけは無用だろう。「朝シャン」という言葉ができるぐらいシャワーは普及した。それとともに夜一日の疲れをいやすために風呂に入るという意味がなくなって、朝一番に自分を最高のコンディションに仕立て上げるというアメリカ型の入浴方式に変わってきたと思う。

アメリカで日本語を教えていて「顔を洗う」ということばが出てくると私は特別に説明したものだ。というのはアメリカでは朝シャワーを浴びるからその時に顔も洗ってしまう。したがって日本人のように朝「顔だけを洗う」という行動がない。

朝顔を洗うのが伝統的な日本人だったが、でも今の若い人は顔を洗うのだろうか。それともアメリカ人のようにシャワーを浴びる中で顔も洗ってしまうのだろうか。今ごろこんなことをいうと「顔を洗って出直せ」といわれるかもしれないが。


行水のおかげで近代以前の日本人の感覚を味わうことができた。べつに必要にせまられてするわけではなく、これは遊びである。アメリカには風流と呼べるものは薬にしたくもないが、これなんかはちょっと風流だといえるんじゃないだろうか。
最近の記事 ページトップへ 以前の記事
ボーダーを越えて
雨宮 和子
かくてありけり
沼田 清
葉山日記
中山 俊明
寄り道まわり道
吉田 美智枝
NEW
僕の偏見紀行
時津 寿之
ぴくせる日記
橋場 恵梨香
縁の下のバイオリン弾き
西村 万里
やもめ日記
シーラ・ジョンソン
徒然.... in California
明子・ミーダー
きょう一日を穏やかに
永島 さくら
ガルテン〜私の庭物語
原田 美佳
バックナンバー一覧
144 「外国人」
143 微妙なたわみ
142 黒い雨
141 ベーコン
140 根付
139 プリーズ
138 キャベツあれこれ
137 スピリチュアル
136 柿と卵焼き
135 移動と定住
134 ベジタリアン
133 王女と真珠
132 七人
131 イディオムということ
130 平等
129
128 名誉殺人
127 ラフカディオ・ハーンのこと
126 楽器
125 ビスケット
124 動物
123 アイヌ
122 ヘクター・ザ・ヒーロー
121 レッツ・リヴ・ア・リトル
120 果実の皮
119 コンニャク問答
118 安岡力也の生涯
117 事実は小説より奇なり
116 レイルウェイマン
115 火を起こす
114 ふし穴
113 ジュリー・デューティー
112 目玉焼き
111 歌に歌われる
110 組織
109 人種差別
108 丸い足
107 宗教と女性
106 ディーベンコーン
105 神の味噌汁(みそしる)
104 健さんと平戸
103 バグパイプ考
102 ないです
101 聖地
100 マッカンチーズ
99 再造の恩(2)
98 再造(さいぞう)の恩(1)
97 行水
96 かまわぬ
95 本場もの
94 グーリックさんのこと
93 ケセラセラ
92 日本人の肖像
91 センス・オブ・ワンダー
90 カティ・フラードのこと
89 屋根瓦(やねがわら)
88 一人っ子政策
87 文化の違い
86 干し野菜
85 恐れを知らないギター
84 銀シャリ
83 ターナー
82 デリシャス
81 モハメッド・アリの大勝負
80 ハンマーダルシマー
79 白無常(はくむじょう)
78 アメリカいれずみ事情
77
76 ひつじ
75 ひげにまつわる話
74 ぐちゃぐちゃ
73 宗教の周辺(2)ヘズース
72 宗教の周辺(1)翼と銃
71 となりの芝生
70 ピンピンパンパン
69 帯とバックル
68 レ・ミゼラブル
67 テーブルマナー
66 朝の穀物
65 二人松浦
64 好きこそものの上手なれ
63 パイについて
62 Xのこと
61 琴棋書画(きんきしょが)
60 爪紅(つまべに)
59 絵に描いた餅(もち)
58 ブレーキ
57 シャーロック・ホームズとカレー
56 ポール・マッカートニー
55 野蛮な茶
54 パサディナ
53 複数たち
52 玉米(ぎょくまい)
51 それにつけても
50 はしとさじ
49 ローズバーグ
48 ジャカランダ
47 サンドイッチの話(2)「O.J.シンプソンとハンバーガー」
46 バンジョー
45 ジャージー・リリー
44 工夫
43 かゆのいろいろ
42 ホイットニー・ヒューストンと「ボディガード」
41 イニシャルについて
40 無用の人
39 具眼の士
38 天使も踏むをおそれるところ
37 ビスカイーノ
36 サンドイッチの話(1)「センス・オブ・プロポーション」
35 パトリシア・ハイスミス
34 茶飲み話
33 柴五郎とジョニー・ビーハン
32 戦場のゴムぞうり
31 やきもの
30 記憶としての絵
29 アイリッシュ・ミュージック
28 乳と蜜の流れる土地
27 レディ・ハミルトン
26 Mto.
25 『チャイナタウン」
24 ドライ・ランチ
23 プリンス談義
22 帽子の話(3)「新撰組」
21 アメリカの大学から
20 帽子の話(2)「衣冠を正す」
19 帽子の話(1)「男はつらいよ」
18 マイ・バレンタイン
17 理想
16 ビリー・ザ・キッドの恩赦
15 おらんだ正月
14 シャーベット(下)
13 シャーベット(上)
12 カナダロッキーへの旅―最終回
11 カナダロッキーへの旅―11
10 カナダロッキーへの旅―10
9 カナダロッキーへの旅―9
8 カナダロッキーへの旅―8
7 カナダロッキーへの旅―7
6 カナダロッキーへの旅―6
5 カナダロッキーへの旅―5
4 カナダロッキーへの旅―4
3 カナダロッキーへの旅―3
2 カナダロッキーへの旅―2
1 カナダロッキーへの旅―1
ページトップへ
Copyright(C) FORUM INFONET, All rights reserved. Copyright(C) FORUM INFONET, All rights reserved.
掲載の記事・写真・イラスト等、全てのコンテンツの無断転載・複写を禁じます。
0 7 7 8 3 3 5 4
昨日の訪問者数0 4 3 3 3 本日の現在までの訪問者数0 4 5 7 9