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縁の下のバイオリン弾き
98 再造(さいぞう)の恩(1)
2014年8月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 眼の検査のためのアムスラー・チャート。私の場合、左目だけで見つめると線がわずかにゆがみ、中心の黒点が消失する。
去年暮れもおしつまったころ、眼鏡を作り直した。私は年来の近眼でその上老眼がはなはだしくなっているから遠近両用のレンズをかけている。眼科医の診断では大して変化はなかったのだが新しい眼鏡を作った。

そしてすぐ異変に気がついた。ときどき直線がゆがんで見えるのだ。といっても全部がゆがむわけではなく、縦の直線だと一カ所が小さい三角形の2辺のように横に飛び出して見える。

はじめは気にも留めなかったがやはりなんだか変だと思い、1月に眼科医を訪れた。その時はレンズの作り方が悪かったんだろうぐらいに思っていた。医者には異変をちゃんと説明したのだが、検査の結果どこも悪いところがみつからなかったらしい。医者は「いや、眼鏡を換えるとたまにはあることですよ」とこともなげに言う。

それですっかり安心してしまった。ところがそのうちにその異変が現れる回数が増えてきた。私はバイオリンをひくからその弦に目をやることが多い。弦がわずかにゆがんで見える。でも実際上バイオリンをひくのには障害にはならないから、変だなとは思いながらも、これも新しい眼鏡のせいか、と考えていた。

しかし何ヶ月もたつとそんなのんきに構えていることはできなくなった。道路標識が読みにくくなったのだ。車で通いなれた道だと、こんなはずはない、以前はもっとはっきり読めたはずだ、と思うようになった。

それで6月の半ばにまた眼科医を訪ねた。 眼鏡を作り直せば問題は解決する、そのために新しい診断書をもらおうと思っていた。

ところがこの時は驚いた。右目はなんともなかったが、左目は検査の文字をまったく読むことができなかった。すぐに詳細な検査がされ、特殊なカメラで眼球が撮影された。技師は写真を見せてくれた。「目の網膜はね、焦点が合うところが少しくぼんでいるんだ。これを見てごらん。右目はちゃんとくぼんでいるが、左目のくぼみはほとんどなくなっている」という。

そんなことを言われてもそれが何を意味するのかわからない。眼科医が「網膜に変化が起きている。これはちょっと問題だから専門医に見てもらったほうがいい。来週にでもこの病院のリン先生に会ったらどうだろう」とすすめる。

「眼鏡のせいですよと言えればいいんだがね。実はもっと重大なことなんだ」と思わせぶりなことを言う。そんなことを言ったって、「眼鏡を換えるとよくあることですよ」と言ったのはあんたじゃないか、と言いたかった。「どういう病気なんですか、なおるんですか」ときいても「原因は加齢だね。もとに戻すのはむずかしい。ともかく専門医の説明を待った方がいい」というだけ。

結局要領を得ないまま次の週にその専門医リン先生とのアポイントメントをとった。

何がなんだかわからない。あの医者の様子では容易なことではなさそうだが、どう考えればいいのかわからない。

私はただでさえ「心配することがないのを心配する」と人に笑われる心配症だ。 家に帰ってきてコンピューターで調べまくった。原因は網膜にあることは確かだから網膜関係に集中して検索すると「加齢黄斑変性(かれいおうはんへんせい)」という病気が見つかった。

こんな病気は聞いたこともなかったが、加齢という通り、年を取ることによって起こる病気でアメリカでは成人男子の失明原因の第一位なんだそうだ。

黄斑というのは網膜上のある一点だ。黄色いから黄斑(黄色い斑点)という。その真ん中に中心窩(ちゅうしんか)というくぼみがある。これが医療技師が私に説明したくぼみのことだ。これがくぼんでいないと焦点があわないのだが、網膜の裏側に加齢による細胞の変化が起きて網膜を押し上げ、くぼみをなくしてしまうのがこの病気だ。そうなると物がゆがんで見えるだけでなく視野の中心が見えなくなってしまう。まさに私の症状だ。

左目だけでテレビを見ると人物の顔がゆがんで見える。コンピューターグラフィックスの発達で人の顔が急に変貌してモンスターになるSF映画がよくあるが、ちょうどそんな感じだ。

治療法はない。

放っておくと病気がどんどん進行する。ウェット型とドライ型のふたつタイプがあって、ウェット型だとまだ打つ手もあるが、ドライ型ではなすすべがない。いずれにせよ、視力をもとにもどすことはできない。ウェット型でも進行を遅らせることができるだけだ。

加齢によって生み出される病気だから最初は片方の目だけがやられるとしても、もう一つの目もいずれおなじ症状になる可能性が高い。患者の手記を読むと片方の目がやられてから数年後にはもう一つの目もだめになったと書いてある。最後は両眼失明にいたる。

私は絶望にたたきこまれた。果てしなく苦悩した。とくに「早期発見が大切」と書かれているのを読んで、最初に相談したときにいいかげんなことをいった医者のことが恨まれた。彼の一言がなかったら私だってもっと早く気がついたはずだ。

本が読めなくなり、ものが書けなくなり、美術をあじわうことができなくなり、絵を描くことができなくなったらどこに生きてゆく意味があろうか。できることはバイオリンをひくことだけになってしまうが、こういう状況になってみると音楽を演奏する気力もなえてしまう。

これはとりもなおさず自分の人生が根本から破壊されるということだ。家には引退したら読むつもりだった未読の本が山と積んである。本が読めない人生など考えたこともなかった。絶海の孤島に流されるとしたらどんな本を持って行くか、みたいなことばかり考えていた。

日本人は他の国民にくらべて日記をつける人が多いそうだ。私もご多分にもれず日記を子供の時からつけている。ここ何十年というものそれは全部手書きで万年筆で書いている。しかも漢字は一画一画ゆるがせにしないでていねいに書く。これはなぜかというとアメリカに暮らしているために日本語を忘れることをおそれるからだ。私は日本語教師を職業としていたから日本語があいまいになることは絶対に許されないことだった。

5年生という最高レベルのクラスを教えていた私の一番の財産は「書けない字がない」という自信だった。どんな字であろうとすらすらと黒板に書いた。学生の中には困らせてやろうとことさら難しい漢字や単語について質問する者もいたけれど、苦もなく撃退できた。私にだって書けない字はもちろんあるが、少なくとも大学生のレベルで書けない字はない。

だれもがコンピューターを使う現在、海外で日本語を教える先生が必ずしもすべて漢字に堪能だとはかぎらない。またそれで深刻な問題が起こるわけでもない。でも学生の心をとらえるためにはよどみなくどんな漢字でも書ける、という能力は大きな力を発揮した。漢字が書けることがえらいのではない。そのことによって私に対する信頼と学生自身の向上心を高めることができる、ということに大きな価値があった。

その能力はキーボードを打っているだけでは維持できない。毎日のように漢字を手で書いていなければすぐに忘れるのだ。

そういう習慣の私が字を書けなくなったらいったいどうしたらいいだろう。これまで書きついだ日記だって何年もたって読み返す楽しみがなければつける意味がない。リンダは読めないから私が失明すればその大部な日記や記録の類は単なる紙くずになってしまう。

すぐにも暗黒がおそうように私は感じた。牢獄に入れられたような気がした。これはなにかの天罰ではないかとさえ疑った。

いずれは点字の勉強をしなければならないだろう。日本語の点字を教えてくれるところはアメリカにはないだろうから勉強するのは英語の点字になってしまうが、それでは日本語の本は読めなくなるのだろうか。いやそもそもこの年になって点字がちゃんとものになるのか、まだ目は見えるけれども今から勉強に取り組んだほうがいいだろうか、などとさまざまに思い悩んだ。視覚障害者のもちいる白い杖だって訓練なしでは使いこなせないだろう。

医者に会う前日まで私は今の生活に満足し、しあわせだと思っていた。それが一瞬でひっくり返された。引退したらあれもやりたい、これもやりたいと思っていたことがすべてフイになるのだ。

スペイン語の勉強を再開したのだって将来に希望を持っていたからのことだ。辞書が読めないようになってはおしまいだろう。

ブログのエッセイも、急に書く意欲が失せた。

失明してしまえば生まれたばかりの姪の子供の顔を見ることもできない。電車や地下鉄の標識が読めないからリンダをつれて日本に帰ることもできない。車の運転ができないから行動範囲が激減する。映画を見ることができないし、見る意味もなくなってしまう。今まで展覧会に行くごとにせっせとカタログを買ったのもむだになってしまった。

死ぬ瞬間にまなこに映る景色を末期の眼(まつごのめ)というが、いったん失明してしまえば死ぬまで光が戻ってくることはないのだから、もうすでに末期の眼なんじゃないだろうか。

どう考えても逃げ場がない。思いわずらった数日は実に苦しかった。

ようやく期日がきて私たちは病院にリン先生に会いに行った。リン先生は私の学生に毛の生えたような若者だったが腕はたしかなのだそうだ。

「網膜にちょっと穴があるみたいですね」という。穴?くぼみのことは聞いたけれど、穴なんて聞かなかった。「加齢黄斑変性じゃないんですか」と聞くと、「加齢黄斑変性ではありませんねえ」という。
「えっ、じゃ何なんですか!」
「これは黄斑円孔(おうはんえんこう)といってね、網膜に穴ができる病気です」
「な、なおるんでしょうか」といった私の声はふるえていた。
「治療法は3つあります。一つは何にもしないこと。でも最初の兆候から現在まで6ヶ月たっていますから、これはあまり効果が望めないでしょう。もう一つは薬物療法ですが、この薬はまだ新しくて50%ぐらいしか成功しないようです。
3つ目は手術。これは手術後一週間ぐらい頭をずっと垂れていなければならないんで大変ですが、成功率はおよそ80%といったところでしょうか。手術が成功しても視力は30%から50%ぐらいの回復しか期待できないんですが」

私はうれしくて躍り上がりたい気持ちだった。不治のやまいだと決めつけていたのにそうではなかったのだ。視力を失わずにすむのだ。まよわず手術を選んだ。

古い言葉だが「再造の恩」という文句が頭をよぎった。再造とは「生き返る」という意味なのだが「再生」とか「復活」とかとはちょっとニュアンスが違う。「ふたたびつくってもらった」「つくり直してもらった」という意味なのだ。だれに? 私は無神論者で神も仏も信じない。でもこの時ばかりはそのだれとも知れぬ造物主にはかりしれない恩をうけた気がした。(つづく)
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