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縁の下のバイオリン弾き
99 再造の恩(2)
2014年8月15日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 70歳を迎えた友人に贈ったバースデーカード。手術後初めて描いた絵。「さらなる飛翔(ひしょう)を…」と書き添えた。
リン先生の手術は失敗だった。いや、手術そのものはとどこおりなくすんだのだから失敗だとはいえないのだけれど、希望していたような視力回復が得られなかったので、わたしにとっては失敗とおなじことだ。

リン先生はこの手術を何回も執刀していて、いつも成功していたようだ。そして事実、かれはできることはすべてしたのだった。

黄斑円孔という病気も加齢と関係がある。眼の内部には硝子体(しょうしたい)といってゼリー状の透明な物質がつまっている。硝子というのはガラスという意味だ。これが加齢によって縮んで行く。そのこと自体はだれにも起こることで問題ない。

ところが硝子体が網膜とくっついていると縮むにしたがって網膜を前方にひっぱり、大切な中心のくぼみをなくしてしまう。ひっぱられた網膜の内部にごく小さな、1mm以下の穴ができる。これが円孔だ。

手術はこの硝子体を網膜から切り離し、眼の内部にガスを入れる、というものだ。ガスは気泡となって網膜を圧迫し、円孔をふさぐとともにくぼみを形成して視力を回復する。

15年ぐらい前まではこの治療法がなく、黄斑円孔もまた不治のやまいだったのだそうだ。

最初に診断した医者は専門医ではないので、黄斑円孔に十分な知識がなく、それで私の質問に答えられなかったのだろうとリン先生は言った。

この手術に1時間半ぐらいかかった。へその緒を切って以来手術というものはこれがはじめてだったけれど、リン先生を信頼していたからなんの恐怖も感じなかった。部分麻酔だったので手術中具合をたずねられて返事ができたぐらいだ。

でも大変だったのは手術のあとだった。網膜というのは眼球の一番奥にある。これを気泡で圧迫する為には気泡が下から押し上げるようにしなければならない。そのため、常時頭を垂(た)れて眼の奥が上にくるようにしなければならなかった。

私は特殊な椅子をレンタルした。顔面をサポートするドーナツ状のまくらのついた椅子だ。椅子といえば座ってうしろによりかかるものと相場がきまっているけれど、この椅子は逆に前に乗り出し、うつむきに顔をさしのべてドーナツに顔をふせる。顔面は安定する。しかし体のほうはこんな姿勢で座ったことはないのだから安息にはほど遠い。むかし猿之助がよくやった宙乗りの体勢だと思えばよい。

このドーナツ状のまくらをベッドにもとりつけて、眠るときもうつぶせに寝る。

はじめはこの体勢を一週間つづけるはずだったが、手術のあといざ始めるという時にリン先生から三日でいいと言われた。ところがその三日の長いこと。立っても座っても「思案投げ首」だった。私は頭がこんなに重いものとは知らなかった。

私と同年輩の方はむかしキングストン・トリオが歌った「トム・ドゥーリー」という歌をおぼえておられよう。恋人の命をうばったトム・ドゥーリーという男がもうすぐ縛り首になる、という古いマーダー・バラード(殺人を扱った歌)で、

Hang down your head, Tom Dooley,
Hang down your head and cry,
Hang down your head, Tom Dooley,
Poor boy, you’re bound to die.

(頭を垂れて、トム・ドゥーリー、
頭を垂れて泣くがいい、
頭を垂れて、トム・ドゥーリー、
おまえは死ぬんだ、あわれにも)

というリフレインが印象的だった。この歌が記憶の底からのぼってきて頭を離れない。内容はともかくとして「頭を垂れて」というのが身につまされた(その後この歌は私の持ち歌となり音楽パーティーで歌うようになった)。

重病人には床ずれというものができるそうだが、毎晩ドーナツに顔を押し付けて眠る私は顔ずれができるのではないかと思った。リンダに手を取ってもらわなければ歩くこともままならない。ストローなしでは水一杯飲めない。テレビを見る為には特殊な鏡が椅子についてくるのだが、そんなものは見る気にもならない。コンピューターももちろん役に立たない(iPadなら見ることがかなう)。右目だけなら本を読むこともできたが、なれないからすぐに疲れてしまう。

私は事前にBOOKOFFのサンディエゴ支店に行って落語のCDをしこたま買ってきていた。これと音楽のCDを聴くことでなんとか三日三晩を乗り切った。


左目に入った気泡は最初視界全体をおおっていたけれど、日が経つにつれて小さくなって行く。ためしに頭を上げてみるとちょうど船の窓の下半分が波に洗われているように見える。下を向くと円となる。この気泡が拡大鏡となって、円の中には別の視界ができ、眼の前にもってきた手などが大写しとなる。その部分にはなんのゆがみもないから最初喜んだのだけど、気泡が小さくなるにつれてその外側の視界には以前とおなじゆがみが見られた。

気泡は一週間存在した。気泡が小さくなるとその内部が暗くなって行き、あるときには皆既日食のようなイメージとなった。

「どうですか。ゆがみはなくなりましたか」と一週間後にリン先生は聞いた。
「いえ、前とおなじです」。
「え、そんなはずはない」

しかし検査をしてもやっぱり文字は読めない。写真を撮ってみると外に開いているべき円孔が前には見えなかった薄皮一枚でおおわれていることがわかった。これがあると気泡療法は効果がないらしい。それならその薄皮をやぶって再手術したら、と思うのだがリン先生はうんといわない。

「残念ですがこれ以上できることはありません。でもまだ失望するには早い。一年ぐらいたてば自然に回復するかもしれません。それに希望をつなぎましょう」

三日間の苦行もむだに終わった。リン先生、あんなに自信満々だったのにそれはないよと言いたいところだったが、でも私はあの「再造」の喜びを肝に銘じていたのでそれほど落胆しなかった。

硝子体と網膜との結合は手術で切れている。したがってこれ以上眼が悪くなることはない。ついでに調べてもらった右目は硝子体の縮小がうまくいっていてこちらは黄斑円孔になる危険はない。

つまりじり貧で失明まで持って行かれることはなく、なんとか今の状態が維持できるのだ。左目の不具合は焦点を当てたところが欠落するのだが、周辺視力にはあまり影響がない。加齢黄斑変性ではこの焦点の欠落が徐々にひろがっていって視界全部がやられてしまう。私の場合はごく小さなものにとどまった。不幸中の幸いといえよう。

人間の体はよくしたもので、左目が悪くても健常な右目がそれをおぎなってくれる。現在のところ、道路標識を読むのに問題がある程度だから、勝手知ったるサンディエゴ市内なら運転できるし、日常生活に支障はない。本を読むこともできる。


「喉元すぎれば熱さを忘れる」とはよく言ったものだ。失明のおそれがないとわかると心の中であれだけ大騒ぎしたのもけろりと忘れてしまう。

それと同時に私はつくづく反省した。いまこの瞬間にも加齢黄斑変性で失明の恐怖にふるえている人がたくさんいるだろう。それだけではない。世の中にはもっともっとひどい災難に見舞われている人々がいる。

イスラエルとガザの紛争、ウクライナとロシアの領土争いなどで命を失ったり、大切な家族を奪われた人々がいる。それに比べれば私の悩みなどちっぽけなものにすぎない。

おかしいのは私がこののち20年も30年も長生きするつもりでいたことだ。客観的に見て五体満足に活動できる期間があと何年あるというのだろう。だから一日一日を大切にしなければならない。浪費できる時間などないのだ。失明してからの長い人生をいかに生きようかと思いわずらうひまがあったら今日一日の成果を問うべきではないか。

また今回が黄斑円孔だったからといってのちのち加齢黄斑変性が襲ってこないという保証はない。その時にはまた苦しむかもしれない。でも今回の経験があるから自己憐憫におちいることだけはまぬがれられそうに思う。すくなくともそう希望したい。


絶望していた時の私はよくベートーヴェンのことを考えた。かれが聴力を失いながらも渾身の力をふりしぼって作曲に精進したことを考えた。その話はもちろん子供の時から知っていた。でも今まで私はかれの苦悩が本当にはわかっていなかったように思う。自分が同じような境遇に投げ込まれ、獄につながれた死刑囚の恐怖と懊悩(おうのう)を肌で感じて、はじめて自由ということの尊さが骨身にしみて感じられた。

ベートーヴェンは私と違って再造の恩にあずからなかった。それでも負けずに偉大な音楽を創造した。およびもつかないことながら私もそれにあやかりたい。

先日スペイン語のクラスに出席したら先生が、「みなさん、今からペアをつくって2週間後にインタビューをしてもらいます。一人がインタビュアーになり、一人がインタビューされるほうになります。その会話を作ってください」と課題を出した。語学のクラスではよくやることだ。

私のペアの相手は20代の女性だ。音楽家のインタビューをやりたいという彼女に「今の音楽についてはあんまり知らないんだけど…」といったら「じゃあ、クラシックの作曲家にしましょう」といわれた。

モーツアルトかベートーヴェンがいいんじゃないかということになって、結局ベートーヴェンにきまり、コインを投げ上げて私がベートーヴェンを演じることになった。

アメリカでは以前は本屋にレコード屋が併設されていることが多かったけれど、現在ではみなつぶれてしまった(レコード専門店はその前につぶれてしまった)。CDなどだれも買わないのである。でも私はコンピューターでダウンロードする現在のやり方になじめないので、音楽を聴くならやはりCDがほしい。その足で「のみの市」に行ってベートーヴェンを中心にクラシックのCDを15枚10ドルで買った。安いから買ったんじゃない。ほかに買いようがないからだ。

ところがそのあと、サンディエゴの近郊の本屋でまだCDを売っているところがあると聞いて、なじみのないその本屋に行ってみた。そこでカラヤン指揮のベートーヴェンの9つの交響曲のセットを見つけて買ってきた。

私が好きなのは室内楽で大げさなシンフォニーは好みではない。でもベートーヴェンの苦悩の結晶だと思うとかれの交響楽をじっくり聞いてみる気になった。

スペイン語のクラスにはこんな準備は実は必要ない。これは全く私自身の興味のためにしたことだ。その興味というのが黄斑円孔という病気にならなかったら絶対にといっていいほど生まれなかった興味だ。

「転んでもただでは起きない」なんていう図太い了見(りょうけん)ではない。

ベートーヴェンにとっても私にとっても、苦悩は苦悩だ。苦悩にいろいろ種類があるわけではないだろう。

私は苦悩を通じてベートーヴェンという人に向き合いたくなったのだ。
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