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ボリビア(5)卵の力、女性の力 |
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2010年8月6日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ 鶏たちもよく見るとかわいいものです。飼い主が近づくと一斉に声を上げていました。背後の鶏は水を飲んでいます。 |
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▲ 23年間も養鶏の仕事を続けて来られた池田典子さん。 |
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▲ H夫人の成鶏棟。 |
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サンファン移住地の日ボ(日本ボリビア協会)会長室の壁にも、サンファンの農協カイシ(CAISY)の応接間にの壁にも、しっかり木枠で梱包された大きな箱が大きな貨物輸送機いっぱいに搭載中の写真が飾ってあります。とっても大事そうな荷物のその中身は、というと、実は、鶏卵なのです。
時は1982年。サンタクルスのビルビル空港からボリビアの行政首都ラパスに向けて、サンファン移住地産出の卵がチャーター機で送り出されたのでした。
普段はサンファン移住地から卵を積んだトラックがラパスへと毎日出発していたのですが、異常事態が発生したのです。 大雨で道路の一部が崩れ、輸送が完全に不可能になってしまったのです。 おまけに大変なインフレの大嵐が吹き荒れ始め、物価は日毎に急騰。それで一番困るのは賃金労働者です。賃金がインフレに追いついていかないので、生活は厳しくなる一方だし、インフレはますます激しくなっていきました。そこでサンファン移住地からラパスまで鶏卵運送をやっていた運転手たちは賃上げを要求してストライキに入ってしまいました。一番困ったのはラパスの住民です。なにしろ、当時はラパスの鶏卵市場の90%はサンファン移住地が供給していたのだそうですから。
菜食主義者なら話は別ですが、卵は必需食品。特に貧乏人にとっては、卵は少しでも手に入る重要な動物性タンパク質源。 貧富の差が激しいボリビアでは、卵は1個ずつ買うことができるのです。中産階級は、というと、卵がなければケーキやクッキーは焼けません。そういう大事な卵がラパスの市場から姿を消してしまった。それは大変なことでした。
困ったラパス市長は農協カイシに「何とかしてくれ」と電話をかけて来たーーと、以前誰かから聞いたのですが、と、サンファン日ボ会長の日比野さんに確認したところ、「いや、カイシのラパス出張所の職員が手配したのですよ」と笑っておられました。会長さんの謙遜でしょうか。どちらにせよ、卵を空輸するなんて並大抵の話ではありませんよね。
通算5回にわたる空輸で120万個の卵をラパスに供給したそうです。サンタクルスに戻る便をカラのまま飛ばすのはもったいないので、 帰途はラパス産のパセーニャというビールをサンタクルスに運ぼうと、最初は飛行機いっぱいに積めるほど買い込んでラパスの空港で待機していたとか。ところが空港のあるラパス郊外のエルアルトという所は海抜4150mもあって、そんな重たい物を積んだら離陸できない言われ断念したという笑い話も聞きました。(話は脱線しますが、パセーニャはボリビアで一番おいしいと定評のビールなのです。)
その年はサンファン移住地は5千万個の卵を産出したそうですから、ラパスに空輸したのはそのうちのほんの僅かではあります。でも、サンファン移住地の卵生産がどんなに大きな影響をボリビア社会に与えているかを象徴するできごとではありませんか。
オキナワ移住地でもサンファン移住地でも、農業の多角経営を目指していろいろな作物を栽培し、試行錯誤を経てそれぞれの条件に合った作物に到達しました。オキナワ移住地では大豆、小麦、サトウキビ、ヒマワリ、コーリャン、そして近年は水稲が、サンファン移住地ではお米(水稲、陸稲)、ポンカン、マカダミアナッツ、そして鶏卵が主要産物です。
サンファン移住地での養鶏事業は、1961年に11軒の農家が集まって1050羽の鶏で養鶏組合を作ったのが始まり。最初は地鳥で卵生産をしていたところ、鶏チフスが発生。ブラジルからJICAの養鶏専門家に来てもらってワクチンを投入したりして、没滅と発生予防に努めても、鶏を地面から離さないと鶏チフスは防げないという結論に達してすべてケージ飼育に切り替えたそうです。ボリビアでは初めてのことです。現在では、年間2億5千万個の卵を70戸余の養鶏世帯が産出しています。それでもラパスの市場を占める割合は60%ほどに落ち、ボリビア全体の卵市場に占める割合もかつての30%から25%に落ちているそうです。つまり、卵の消費量が増えたと同時に、生産者も増え、競争が激しくなったということですね。それは養鶏に限ったことではなく、日本人がおいしいものや商品価値のあるものを作ると、ボリビア人がそれに習って同じように生産を始めるということが 米作でも果実栽培でも繰り返されています。
でも、ラパスの卵の値段はいまでもカイシの卸値が基準になっているそうですから、サンファン産の卵はボリビア市場で重要な位置を占めているのが伺われますね。それに、サンファン産の卵は黄身が濃くて盛り上がっていると、サンファン日ボ協会長の日比野さんは誇りを持っておっしゃいます。卵はサンファン移住地の経済の安定性を支えて来た重要なものなのです。それともう1つ特異な点がサンファン移住地の養鶏にはあります。生産責任は女性が担っていることです。「だから、サンファンの女性は強いですよ」と、十年ほど前に当時のカイシ会長(故)加藤重則氏がちょっと自慢そうだったのが印象に残っています。今回のボリビア訪問では、サンファンの女性の活躍ぶりも見せていただきました。
「サンファンの農家のセニョーラ(奥さん)はしあわせですよ」と、成鶏1万6千羽、まだ卵を産むまでには成長していない中ヒナや大ヒナをくわえると全部で2万羽を飼う池田典子さんはおっしゃいます。サンファン移住地では使用人をすぐ雇えるので「自分で身体を動かさなくていいから」だそうで、 それに比べると、「日本の農家の女性は何でも自分でやらなければいけないから大変ですよね」と、典子さんは同情的。つまり、サンファン移住地の農家の女性の仕事は管理職なのですね。それだけ責任も大きいということででょう。
2ヶ月おきに2千羽のヒヨコを仕入れ、温度をほぼ一定にしたヒヨコ小屋に21日間隔離して育ててから、戸外の中ヒナ棟のケージに移します。棟に屋根は付いていますが、壁はないので鶏たちは外の空気を吸いながら、エサを食べ、水を飲んでいるわけです。60日目が過ぎたら今度は大ヒナ用の飼料を与え、120日目が過ぎると卵を産み始めるので成鶏用飼料を与えるのだそうです。
餌はカイシの飼料工場から配達されますが、ニラやアロエを混ぜるといいとかで、棟と棟の間に植えたものを刻んで餌に混ぜたりもします。「鶏たちはアロエが大好きで、競い合って夢中に食べますよ」と、H夫人は顔をほころばせて、話してくださいました。H夫人は養鶏事業を息子に譲り渡して、退職生活を始めたばかりだそうですが、まだまだ活力に溢れています。H夫人からも池田典子さんからも、大事な仕事を担う女性たちの強さに満ちた自信が静かに、でもしっかりと感じられます。
60週目ごろになると、卵は小さくて殻も柔らかくなり始めるのだそうです。そこで強制換羽といって、餌切りを10日間するそうです。断食させるわけですね。それから中ヒナ用の餌を混ぜて徐々に元通りにしていくと、不思議や不思議、殻が堅くて大きな卵をまた産むようになるんですって。それが5−6ヶ月続くそうですよ。その後は?と池田さんに聞くと、「ボリビア人業者が引き取りに来ます」ということでした。きっと食肉用として売られていくのでしょう。「卵を産むだけ産ませられて、それで死んでいってしまうのだから、かわいそうですよね」と、池田さん。菜食主義になるつもりのない私は卵も食べますが、せめて卵を産んでくれる鶏にはできるだけ本来の鶏らしく生きてもらいたいものだと、ケージフリーの地鶏の産んだ卵を買っています。でもボリビアでは鶏チフスがあるので、ケージフリーは無理だそうです。
腸チフスはほぼ皆無になっても、別の病気が持ち込まれて、養鶏には最近特に手がかかるようになったそうです。特に近年深刻なのは、地球温暖化のせいか、夏の暑さがひどくなってきたこと。鶏は暑さに弱いのです。最近の夏は摂氏40度になる日もあり、そういうときは水をかけて冷やしてやらないと、バタバタと死んでしまうとか。
いま、南半球のボリビアは真冬。といっても、日系人移住地のあるサンタクルス地方は暖かいのが普通なのですが、今年は異常に寒いそうです。私が行った5月はまだ「秋」のはずなのに夜はかなり冷え込んで、寒さの準備をしていなかった私は慌てたものですが、あれよりはるかに寒くなって、先月には霜まで降りたそうです。冬にはときとして、南極から冷たい空気が数日間流れ込んで、ブラジルのコーヒーが大打撃を受けることがあるのですが、今年はそれが長引いているのでしょうか。暑さに弱いという鶏たちは、寒さには大丈夫なのでしょうか。産卵の仕事をせっせとしている池田典子さんやH夫人の鶏たちのことが、気になるこのごろです。
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