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ドアを開けたら |
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2011年1月1日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ 我が家の番犬(?)ジプシー。 |
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新年おめでとうございます。
政治が混沌とする中、憂鬱な気分に陥りそうになりますが、自分の立っている場でなんとか人間性を見失わず、人と人とのつながりを大事にしながら、この社会を守っていきたいと考えています。新年のエッセイ第1回目は、そんな私の思いを綴らせてください。
もう10年以上も前のこと、ロサンジェルスから飛行機に乗るため、サンディエゴからレンタカーを借り、ロサンジェルス空港で乗り捨てたことがあります。レンタカー会社に着く直前のガソリンスタンドに寄って満タンにし、連れ合いがその代金を払いに行っている間、私は運転席に座ったまま待っていました。
すると、誰かが窓をコツコツと叩く。見上げると、少々年老いた黒人のいかにもホームレスらしい男が何か言っています。何を言っているのか、窓を開けようとしたのですが、自分の車はすべてマニュアルだし、その車はその日初めて運転したばかりなので、どのボタンを押せばいいのかわからない。それでドアを開けました。 「ハーツへ行くんでしょ?」 と、その男はレンタカー会社の名を挙げました。確かに車のナンバープレートの枠にはハーツと書いてあります。私が頷くと、彼は行き方をていねいに教えてくれました。そう教えてもらわなくても簡単に行けると地図でちゃんと調べておいたので、困りはしなかったのですが、サンキューとお礼を言いました。が、彼はそこに立ったままで、ちょっともじもじしながら、「1ドルくれませんか」とつぶやきました。
あぁ、そうか。結局は物乞いなのだ、と気が付いたのですが、ただ物乞いするのではなくて、まずサービスを提供し、(それが押し売りだったとしても)その代償をもらおうというわけです。すると、やり取りという点では彼と私は同等になる。よく考えたものですね。そう感心した私は、「行き方を教えてくれてありがとう」と言って1ドルを渡しました。その男もニッコリして、サンキューと言いながら1ドルを受け取り、そしてさらにこう言ったのです。 「私と話すためにドアを開けてくれてありがとう」 最後のこの言葉に私はちょっとびっくりしました。
窓の開け方がわからなかったからドアを開けただけなのですが、一見してホームレスをわかる男と、ドアはもちろん、窓を開けて話そうという人は、あまりいないでしょう。私だって交差点に立って物乞いをするホームレスとはなるべく目が合わないようにしてしまいます。いつも無視されては身が縮む思いで生きていことでしょう。そんな人のせつなさをちらっと教えられた気がしました。
そのことを思い出させることがつい最近ありました。大晦日の3日前の夕方のことです。夕方といってもすっかり暗くなっていた時刻に、玄関のベルが鳴りました。犬たちが大声で吠えながら階段を駆け下りて行きます。犬たちを追いかけるように私も急いで階段を下り、玄関の灯りをつけ、ドアを開けました。
途端にジプシーが首を出して吠えます。 「オー、犬は外に出さないようにしてくれ! オレは犬が怖いんだ」
そう言って後ずさりしたのは、背は2メートル近く、体重は150キロはありそうな黒人の大男でした。そんな大男なのに、犬が怖いだなんて。そんなことを正直に言う彼は優しい目をしていました。 「大丈夫よ。ちゃんと抑えているから」 私が首輪をつかむと、ジプシーはもう吠えることを止めてじっとしています。
男はやっと安心して、セールスの口上を始めました。雑誌購読の勧誘に来たのです。購読者を獲得するたびに点数が上がり、あるレベルの点数に到達すると、若者たちを指導する地位に上がれる、という仕組みの組織からやって来たセールスマンです。やっぱり… 同じ組織からセールスマンやセールスウーマンが毎年やって来ます。そのほとんどは20代前半の若い人たちなのですが、このごろはいつも断っていました。我が家では新聞や雑誌は飽和状態なのです。しかも購読してもいいなと思うような雑誌はあまりなく、私たちには興味ないものばかり。おまけに、この組織は雑誌購読を売る商売というより、若い人たちに自立への第一歩を踏み出させようという狙いが売り物で、購読料自体は決して安くないのです。山火事被害からの復興作業を続けているばかりで収入はない現在の私たちはできるだけ出費は控えようとしているので、読みもしない雑誌の購読を契約する余裕などありません。
それでも、「どうしてこう、読みたいと思わせるような雑誌を売らないの?」と言いながら、渡された雑誌のリストを何回もひっくり返してみました。スポーツとかゴシップとかお金儲けとか、その種の雑誌ばかり。でなければ、子どもの雑誌。 「自分で読みたくなかったら、チャリティーとか幼稚園とかに寄付したら?」 「以前そういうことをやったことがあるわよ。でもちゃんとそういうところに配達されているのか、配達されたとしても喜んでちゃんと読んでくれているのかわからないから、もうそれはしたくないわ」 「そんなこと言わないで、何か買ってよ。これでオレは人生をやり直したいって思ってるんだから」 やり直し、って? 雑誌のリストから目を離して、私は大男に聞きました。
彼はためらわずに話してくれました。アトランタ出身の彼はシングルマザーに育てられ、ハイスクールを中退してしまい、ドラッグをちびちび売るようになり、やがてドラッグディーラーのボディーガードになったそうです。その頃は羽振りがよかったけれど、警察に捕まり、2年半監獄に入ったとか。ドラッグは売っても、自分ではマリファナさえ吸ったことがないと言います。そうなのです。ドラッグを買うのは中流の白人層が多いけれど、彼らが罰せられることはむしろ稀。他方、ドラッグを売るのは組織の末端にいる貧困層の少数民族が多く、アメリカの監獄は彼らで満員なのです。 「監獄はこりごりだ。もう2度と違法行為はやるまいって決めたんだ。学校にも行き直してちゃんとした知識を身につけたいよ」 そして14歳と4歳の娘のために生活を立て直したいとも言いました。娘たちの母親は路上でひったくりに殺されてしまい、彼の母親がアトランタで娘たちの世話をしているとか。 「カリフォルニアはいいとこだね。こっちに移りたいよ」そして、娘を呼び寄せたいとも言いました。 それにはちゃんとした職が必要です。職が欲しい。私の連れ合いが山火事で大被害を被ったアボカド園の復興作業をしていると言ったら、「農園に職はない?」と聞きます。長年働いている労働者がいるから、と諦めさせましたが、こんな大男にははしごを上ってアボカドを穫るなんていうことは無理でしょう。
でも、娘の話をするたびに目が輝くこの大男がなんとか人生のやり直しに成功してもらいたいという気持で私の胸もいっぱい。とりあえず、雑誌を購読してあげたくなりました。そう思ってリストを見直すと、『アトランティック』誌が目に留まりました。これなら購読してもいい。でも、自分の懐具合も考えなくちゃ。余計な出費はなるべく避けなければならない我々の事情を話して、「悪いけど、1年だけよ」と大男に納得してもらいました。
購読の手続きをしている間、彼はちゃんとネクタイを締めているものの、着ているワイシャツの袖は肘から切ってあって、その下にトレーナーらしいものを着ている理由を聞きましたら、「これしかないんだよ」と言って彼は屈託なく笑いました。「もっと点数を上げたら、シャツとネクタイがもらえることになっているんだけど… あんたのダンナさん、オレみたいに大きかったらシャツを1枚くれないかなぁ」とまじめな顔で付け加えたところをみると、そのシャツしかないというのは本当なのでしょう。残念ながら、わが連れ合いは標準より大きいけれど、とてもとてもこの大男のようなサイズではありません。
聞けば聞くほど悲惨な状況にいるらしいのに、この大男は人生の立て直しに一生懸命で希望に燃えてすらいます。34歳だそうですから、まだまだやり直しがきく。なんだか彼の元気に私まで包まれたような気がしてきました。
それにしても、うちの近所は大きくて洒落た家が並んでいるので、雑誌の勧誘などはさぞかしやりずらいことでしょう。私がそう言うと、大男はうなずいて、 「その通りなんだ。あんたはよくオレにドアを開けてくれたね。黒人の男には警戒する人が多いのに」
私はそれだけ人を信頼するからだと言ったら格好いいんでしょうけど、実のところは、ジプシーがいるので安心してドアが開けられるのかもしれません。ジプシーはまずドスのきいた声で吠えてくれるし、大変な力持ちだし、おまけに本能的に人の善し悪しが見分けられると思うのです。何かあったらジプシーは必ず私を守ってくれるでしょう。私がこの大男と話している間に、リラックスして寝転がってしまいましたが、それもこの大男がいい人の証拠。
ドアを開ければ、全く違った世界を垣間見ることができます。しかも生身の人を通して。ドアとは心の扉でもあります。そこに鍵などかけないで、自分の小さな領域から外に目を向けて、いろいろな人生に触れてみたら、自分の人生も豊かになっていくだろうと、大男との出会いでますます確信したのでした。
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