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縁の下のバイオリン弾き
102 ないです
2014年10月16日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
何に関してのことだったのか忘れてしまったけれど、次のような談話が新聞にのったのでメモをとっておいた。

「共同通信の総務局次長の話 

不適切ではあるが、捏造(ねつぞう)とは思っていない。誤った所があったので速やかに訂正し、おわびも配信した。訂正を載せる必要があるかを判断するのは、加盟紙がすることで、悩(なや)ましい。」

共同通信は通信社なので、記事訂正を新聞各紙に通達しても、それがかならず新聞に掲載されるかどうかわからない。責任ある立場の総務局次長としては「こまってしまう」という意味だ。

悩ましいだろうか。全然悩ましくなんかない。

悩ましいのではなく、「悩む」場合だ。「悩ましい」などとのんきに構えていないで、ちゃんと悩め!と言いたくなる。

悩んでも打つ手がない、といいたい時には「悩みはつきない」という言い方もある。

なぜこんなことを言うかというと私の理解では「悩ましい」は女性について使う言葉だからだ。

「すきとおるような皮膚をしたしなやかな彼女の手、赤い花片に似た薄い受唇(うけくちびる)、黒ダイヤのような美しい目と長いまつげ、それにほおから口元へかけての曲線の悩ましい媚(こび)」
(徳田秋声「仮装人物」)

というようなのが本来の使い方だと思う。「悩ましい」は美しくなくてはならない。訂正記事のどこが美しいか。

むかしは「悩殺(のうさつ)する」という言葉があった(「殺」は強調のための言葉で「ひどく悩ます」ということ)。この悩みは女性の魅力にあらがえないこと、つまり恋の悩みを指す。

恋愛に関係ないとしても「悩ましい」といえば「悩ましいメロディ」とか「悩ましいスタイル」とか、心の琴線にふれるものに使う。

「でも辞書にはのっているよ」と言われるかもしれない。確かに辞書には「悩ましい」という言葉の語義として「苦しい」という言葉がのっている。

私はグーグルの辞書にあたってみた。国語辞典には「焦(あせ)りといらだちの悩ましい日々を送る」という例があった。英和辞典には「のみに食われて悩ましい一夜を過ごした」という冗談みたいな用例がのっていた。どちらも出典を示していない。前者はこの言葉の用例という制約さえなかったら「苦しい日々を送る」のほうがいいだろうし、後者は「一晩中のみの攻撃に悩んだ」と書くのがふつうじゃないだろうか。私はまだ「悩ましいのみ」を見たことがない。

今浦島の私からみるとひどく違和感がある使い方だけど、日本語教師でもある私は「言葉は変化する」ということをよく知っているからこれをうけいれるしかないということもわかっている。辞書は頼りにならないとしても、辞書の先をいく現象そのものは認めなければならないからだ。

そんなふうに考えを改めなければならない言葉に出会うことが多くなった。最近日本に帰ってよく聞くのは「ないです」という言葉だ。

「おにぎりある?」
「あります」
「おでんは?」
「ないです」

というように使う。これのどこがおかしいんだ、と思われるかたは多いと思う。

でも私が1970年に日本を離れる前にはこんな言い方はまず聞かれなかった。「ありません」と言った。

察するところ、「ないです」は友達同士のことば、つまりいわゆるため口の言い方をていねいにしたものなのだろう。

「おにぎりある?」
「あるよ」
「おでんは?」
「ない」

の「ある」「ない」をていねいにいうと「あります」「ないです」になるのだろう。つまり物のいい方がため口が基準になっている。

昔はていねいな言い方とそうでないものとが二本立てになっていた。今はため口が標準で、場合によってそれに「ます」「です」をつければいい、ということになったもようだ。

私はことばというものは簡単なほうがいいという考えだ。だから「あります/ありません」と「ある/ない」の二本立てではなく、一本に統一できるならそれにこしたことはないと思う。現実にそうなっているのだからもろ手をあげて賛成していいはずだ。

しかしこの場合にはどうもそういうわけにはいかない。「ないです」が異様にひびくのだ。

言葉自体は前から耳にしていたけれど、「異様にひびく」ということにはじめて気がついたのは数年前京都をたずねた時だった。東本願寺ではお金を払えば「おとき」(この場合は昼食)を食べることができる。仏寺の食事だからもちろん精進料理だ。ベジタリアンのリンダにぜひ食べさせてやりたいと思ったのだけど、次は西本願寺に行くことにしていて食べる時間がない。西本願寺もお寺だからおときをたべられるのではないかと期待して西本願寺に行き、「おときの接待がありますか」と受付の若い寺僧に聞いたら「ないです」と言われてしまった。

この時「ありません」と言われたらその印象はだいぶちがっていただろうと思う。「ないです」は「にべもない」という感じだ。よく漫画でせりふを言っている人物の横に「キッパリ!」と書かれているのをみることがあるが、そういうものいいではないだろうか。

仏様にご奉仕するお坊さんは柔和でていねいにちがいない、というのは私のかってな思い込みだろうか。仏僧といっても20代の若者なのだから現代日本の最先端の言葉遣いをするのに何のふしぎもない。

なぜ「ないです」が強くひびくのかつぎのように考えた。

「ありません」は「あります」の否定形だ。「ノー・あります」だ。「あります」なくして「ありません」はない。

ところが「ない」は「ある」とはまったく関係がない。「ある」を否定しているのではなく、積極的に「ない」ことを主張している。

悪人を非難するときに「人間じゃない」というのと「鬼だ」というのとどっちがひどいだろうか。「ない」はいわば「鬼」と言っているようなものなのだ。

まあそこまで深刻に考えることもないのかもしれないけれど、「ないです」がふつうになれば「もうしわけありません」という言葉はきかれなくなって「もうしわけないです」になるのだろうか。「すみません」はなくなって「すまないです」、「できません」ではなく「できないです」… なんとなく切り口上、という気がする。


日本に帰って感じるのは日本語のやさしさ、ていねいさだ。相手をうやまう言い方はどの言語にもあるけれど、たいていはていねいさをあらわすシグナルのことばを基本的な言い方にくっつける、という方式だ。

たとえばアメリカの子供はなにを頼むのにも「プリーズといえ」ということを常に教えられる。プリーズをつけさえすればていねいになるからだ。

でも日本の敬語体系ではたとえば「食べる」が「めしあがる」に、「行く」が「いらっしゃる」になるというように基本的なことばから変わってしまう。相手をもちあげるために自分をひきさげるというシーソーの原理が応用される。

そういう敬語がかんぺきに使われるとこれはもう芸術的といっていいほどのおくゆかしさがただよう。

しかしその美しさにただ感心してはいられない。敬語はもともと「階級」にその根を持っているからだ。

「あります/ありません」と「ある/ない」の違いにあらわれるように相手の地位・出身・立ち位置によって言い方を変える。

心からうやまえる人に敬語を使うのは見ていて気持ちがよい。でもいわゆる「マニュアル敬語」でいかにていねいにあつかわれてもそんなものは薄皮一枚で覆われた見てくれだけだ。

店員さんに美しい敬語で応対されても、彼または彼女の心のなかで「おじんが何いってんだ。ざけんじゃねえよー」などと(あるいはもっとひどいことを)思われているんじゃないかと考えるとつい感動の何割かを差し引いてしまう。

それはおたがいに不幸なことではないか。それぐらいなら敬語なんかないほうがすっきりする。欧米のことば、あるいは中国語でも、もともとが日本語に比べてぞんざいだからこのようなはげしい落差はないと思う。

「ないです」のようなため口敬語はこのような矛盾を無意識的にでも感じている若い人々が言葉の上の平等をもとめてつくりだしたものではないだろうか。

くりかえすが私は言葉は簡単なほうがいいと思う。それに日本語を教えた経験からいうと敬語というものは外国人にとって難物である。とくに「やる/あげる/さしあげる、くれる/くださる、もらう/いただく」とそれから派生した「〜していただく」系の文型はよほど腰をすえてかからないと学べない。

もちろん日本人は日本語を外国人のために変化させる必要はない。

けれども日本人の内部から敬語の簡略化が自然に起こってきているならば私は自分の好みに関係なく、それを支持したいと思う。

でも…。

北京に行ったとき、友人の孫慷(そんこう)にレストランにつれていってもらった。店の前に屈強(くっきょう)のわかものが何人も立っていて、我々を見ると口々に何かどなる。はじめは何を言っているのかわからなかったけれど、よく聞いてみると「歓迎光臨!」(ホァンイン・コァンリン)といっているらしい。「おいでを歓迎します」という意味だ。光臨などという言葉は文章ならともかく、口でいう言葉ではない。歓迎するなら「歓迎」だけでたくさんだ。でもその時気がついた。これは日本語の「いらっしゃいませ」のまねなのだ。観光客がとほうもなく増えた中国で、昔風のぶっきらぼうではやってゆけない。しかし「歓迎」だけでは「よくきた」「やあ、いらっしゃい」「いらっしゃいませ」のような異なったニュアンスがあらわせない。「ませ」のようなことばにとけ込んだ敬語法がないからしかたなく「光臨」などという「死語」を口にしているのだ。

つまり、日本の敬語が外国語にも影響を与えているのだ。それはやっぱり日本人の礼儀正しい態度が外国人にも好ましくうつるからだろう。もしそうだとするならば、われわれ日本人はもっともっと敬語をもりたてて、外国人へのロール・モデルになるべきではないだろうか。

というふうに敬語のことになると私の考えはさまざまに乱れるのである。
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