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黒い雲の行方 |
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2011年1月23日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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行き着くところまでとうとう来てしまった… 暗い雲が私の頭の上に重く垂れ下がる。そんな思いで1月8日以来鬱々とした日々が続きました。
アリゾナ州トゥーソンでガブリエル・ギフォーズ下院議員が襲撃の標的となり、6人が乱射に巻き込まれて殺されてしまった事件に、私は「9・11」以上に揺すぶられました。犯人は精神問題を持っているらしいといっても、4年近く前のバージニア工科大学で情緒障害のある学生が引き起こした銃乱射事件とも、それよりさらに前にコロラド州コロンバイン高校で起きた銃乱射事件とも社会背景が違うのです。
「行き着くところまでとうとう来てしまった」と感じたのは、医療制度改革への動きが具体化してきた2年ほど前から、それにからんで保守右翼による反オバマ、反政府の言葉の暴力が急速に過激化してきたからです。その過激化の先頭をいくのがティーパーティーです。その勢いに押されて、共和党はますます右傾化していき、医療制度改革法案が議会を通過してオバマ大統領の署名で法律として成立しても、11月の選挙で共和党が勢力を伸ばすと、医療制度改革法は撤回すると宣言して、ラッシュ・リンボーやグレン・ベックなどの扇動家たちは反政府、反オバマ、反民主党、反医療制度改革法を過激な言葉で訴える扇動を強めていきました。そうして行き着くところまで行ってしまったのが、トゥーソンでの銃乱射事件でした。少なくとも私はそう思います。
医療制度改革の必要性は以前から議論されてきました。アメリカの医療技術は優れていますが、医療費は法外に高い。しかも国民保険のようなものはないので、雇用者が提供する健康保険のない人は、個人で高い保険に入るか、病気や怪我のないことを祈りつつ保険なしでいるかのどちらかしかありません。例を挙げれば、私は健康そのもので、過去12年間、全く医者にはかかっていませんが、63歳という年齢のため、毎月397ドルもブルークロスという保険会社に払い込んでいます。これでも一番安いのを選んでいるので、もし医者にかかるようなことがあっても、5千ドルまでは自腹を切らなければなりません。65歳になればメディケアという連邦政府が管理する医療保険を受けられますから、あと1年半ほど頑張らなくっちゃ。(メディケアには毎月払い込んでいます。)
ちゃんとした会社の保険に入っていても安心はしていられません。大怪我や大病をしてもその治療法を保険がカバーしてくれるという保証はありませんし、カバーされてもそのあとは保険から外されてしまうこともあるのです。何のための保険かと思いますよね。それなら別の会社の保険に入ろうとしても、受け入れらないということは珍しくありません。それどころか、過去に病気をしてすっかり回復してもだめということもあるのです。
ですから、アメリカ全人口の15%以上(つまり4600万人ほど)は健康保険にかかっていないという驚くべき状態が生まれているのです。貧困であれば政府の保険が助けてくれますが、豊かではないけれど貧しくもない勤労層が一番大変。また、不景気が続くと、雇用者も高い医療費を節約しようと、健康保険を雇用条件から外したり、保険のないパートタイムの仕事を増やしたり、という状況が広がってきました。これは本当に深刻な問題です。
医療制度改革はクリントンが大統領になったときに手がけようとして大失敗したものです。それをオバマはやり遂げようとしたのです。当然、保険会社は大反対。保険会社と密接している共和党も大反対。政府が健康保険に関与するのは社会主義だ、また個人に健康保険を義務づけるのはファシズムだとかと主張して大反対の先頭に立ったのはティーパーティー。大不景気に不安を抱いている人たちを議員の政治集会に動員して、社会主義やファシズムとは何かということを全く知らないくせに、オバマは社会主義者だとか、ヒットラーと同じだとか、むちゃくちゃなことを大声で罵倒して、医療制度改革に賛成する議員を問答無用とばかりに攻撃してきたのです。それこそファシズム追随者の行為ではありませんか。
そんな勢力が政治を左右する。アメリカ式ファシズムの台頭を見る思いで、私は憤慨を通り越して、なんと恐ろしいことだと心配していたのです。が、反政府の声は強くなる一方。アメリカにはケーブルテレビ局がわんさとあり、普通のテレビ局のような規制を受けないので、既述したグレン・ベックを始め、ビル・オライリー、ショーン・ハニティ、またラジオのトークショーでは既述のラッシュ・リンボーなどが、ティーパーティーの追随者たちを煽って、医療制度改革を阻んできました。サラー・ペイリンなどは自分のウェブサイトにアメリカの地図を載せ、下院議員が医療制度改革に賛成している地区に射撃の標的マークを付けて、そんな議員は撃ち倒せ!と呼びかける始末でした。
ガブリエル・ギフォーズ議員もその標的の1人だったのです。昨年3月に最初の医療制度改革法に賛成を表明した後、彼女の地元事務所はドアのガラスを割られてしまいました。そのときギフォーズ議員はテレビのインタビューに答えて、ペイリンの射撃標的マークの着いた地図を載せたウェブサイトについて、「こういう行為の結果どういうことが起きるか」ということを真剣に考えるべきだとはっきり警告を出しました。結局彼女の警告が当たってしまったわけです。
銃乱射犯人がペイリンのウェブサイトを見たという証拠はないし、彼の行為の引き金はペイリンの射撃マークだとは断言できないという論理で、右翼の言葉の暴力の罪を認めまいとする議論もあります。単に1人の精神に問題のある者の行為なのだ、と。しかし、それならなぜギフォーズ議員が犯人の標的になったのでしょう。彼の行為が直接ペイリンのウェブサイトに触発されたものではないとしても、アメリカの視覚と聴覚に蔓延した言葉の暴力が、犯人の怒りを民主党議員に向けて爆発させたのだと私は思います。
この乱射事件で犠牲となった人々の追悼式の演説で、オバマ大統領は政治の対立はもっと礼儀正しい議論で乗り越え、アメリカをまとめていくべきだと述べました。オバマ大統領の演説は、民主党はもちろん、共和党の中でさえ肯定的に評価する声が多かったのですが、それが実行されていくかどうか… アメリカは自分たちの民主主義を足元から崩している。それを阻止できるかどうか… 私には疑問です。
喉元過ぎれば熱さ忘れる式に、この事件の教訓も忘れられてしまうような気が私にはします。1月8日以来垂れ込めていた重い雲は、私の頭の上からはなかなか去って行ってはくれないでしょう。
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