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126 ラファエル前派
2012年4月11日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。
▲ ラファエロ「キリストの変容」
▲ ミレイ「オフィーリア」
▲ ロセッティ「愛の杯」
西村さんが書かれた「ジャージー・リリー」を、たいへん面白く拝読しました。人間の歴史には、本当にいろいろなことがあったものだと、あらためて感動しています。いつも心豊かな書き込みをありがとうございます。

ところで、その記事の冒頭に掲載された1枚の絵を見て、どうしても書きたくなったことがありますので、ちょっとおしゃべりをさせていただくことにしました。

それは、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」と、その作者のミレイが中心人物の一人として活躍した芸術運動、「ラファエル前派」のことです。

美術にかなり関心をお持ちの方は別として、19世紀半ばにイギリスで短期間ながら開花した、「ラファエル前派」という芸術運動の内容については、あまり一般的には知られていないように思います。

日本語では「ラファエル前派」と表現されていますが、本来の名称は、「Pre-Raphaelite Brotherhood」 と言いまして、直訳すると、「ラファエル以前兄弟団」とでもなる名前です。

この場合の「ラファエル」とは、あのルネッサンス期に活躍したイタリアの画家、建築家、ラファエロ・サンツィオ(Raffaello Sanzio 1483年 〜 1520年)のことです。

そして、この「ラファエル前派」とは、そのルネッサンスの巨匠、ラファエルを賛美したものではなくて、その反対にラファエルを否定することから始まった芸術運動だったのです。

ちなみにラファエルの時代に活躍した多くの芸術家達の中で、とりわけ有名な他の2人が生きた年代を見てみますと、こんな具合になります。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 1452年 〜 1519年)
ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti 1475年 〜 1564年)

レオナルドが生まれたのが他の2人よりもちょっと早かったのと、当時としてはたいへん長寿であったミケランジェロが亡くなったのがちょっと遅かったことを除けば、この3人はほぼ同時代に生きて活躍したことがわかります。お互いに意識したこともあったことでしょう。でも、そうした競合関係がお互いの芸術の水準を高めたということもあったと思います。

ともかく、37歳で早生したものの、ラファエルはルネサンス絵画を完成させたアーティストとして、その様式は、以後長くヨーロッパ美術の模範とされていました。(ちなみに、ラファエロ 『Raffaello』 の名前は、英語名では、ラファエル『Raphael』と書かれることが多いようです。)

こうしてルネッサンス期の16世紀に完成されて以来、調和のとれた古典的な美、対象をより美しく美化して描く様式美、そうしたことが、ヨーロッパの美術アカデミズムの基本となっていったのです。それに公然と異を唱えたのが、19世紀半ばのラファエル前派のメンバー達でした。彼らは当時の絵画アカデミズムを支配していた画風は、あまりにもわざとらしく、不自然なまでに対象を美化しており、その結果、絵画をつまらなくして、閉塞感を作り出していると主張したのです。

1848年、現在でも存在しているロンドンのロイヤル・アカデミー付属美術学校の画学生であった3人が意気投合して結成したのが、ラファエル前派でした。その3人というのは、次の画家達です。

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ (Dante Gabriel Rossetti)
ジョン・エヴァレット・ミレイ (John Everett Millais)
ウィリアム・ホルマン・ハント (William Holman Hunt)

その後、何人かが加わり、かなりの影響力を持った芸術運動となったのですが、活動期間は短く、結成から数年で「派」としての活動は終わりました。でも、その後の象徴主義への影響を含め、現在まで及ぶ人気の高さからして、英国で起きた芸術運動としては、稀有なものであったと思います。ちなみに、3人の内、ロセッティだけはどう見てもイタリア人の名前ですが、そのはずでして、彼の両親はイタリアから移ってきた生粋のイタリア人でした。でも、ロセッティ自身はロンドン生まれです。

時代的な背景もありました。歴史に残るようなアイルランドの大飢饉が起きたのもこの時期でしたし、産業革命の進展により、農村を離れて都市の産業労働者となった人々の数が増え、社会の新興勢力となってきたのもこの頃でした。そして、極めて劣悪な労働環境の中で、その人々の不満が次第に大きくなっていたのです。カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの「共産党宣言」が発行されたのも、奇しくも1848年のことでした。

ですから、従来の確固たる伝統、因習、盲目的継続に対する反発が社会全体に発生しつつあったことが、絵画の世界にも影響を与えたと考えてもよいのかもしれません。

上段の絵をご覧ください。これはラファエルの作品、「キリストの変容」 (Trasfigurazione) です。この絵の実物は、当時も今もローマのヴァチカン美術館にありますが、1840年代には、この絵の複製が、ロンドンのナショナル・ギャラリーに常時展示されていました。絵画のあるべき姿を象徴する見本として。

ラファエル前派のメンバーは、この絵をこんなふうに批判しました。「簡潔な真実に対する大げさな侮辱、使徒達の仰々しいポーズ、救世主の精神性の欠如は糾弾に値する」と。

つまり彼らの絵画に対する考え方は、一言で言えば、「自然をありのままに再現すべきだ」 ということだったのです。対象から受ける印象を素直に、取捨選択することなく、劇的に美化することもなく、素朴に自然と向き合うということでした。

そしてそのためには、ラファエルに象徴される美意識をいったん捨てて、それ以前の状態に戻ろうと考えたのです。でも彼らの主張は、懐古趣味からラファエル以前の絵画を崇拝したり、ラファエル以前の絵画に戻ろうとしたというわけではないのです。因習的な規範にしばられることなく、絵画に対する考え方をラファエル以前にいったん戻して、そこから新しい表現を生み出す、もしくは絵画の持ちうる力を見出そうとしたのだと考えた方が正しいようです。

1840年代末から1850年代と言えば、フランスでは印象派が旗揚げをする少し前で、やはり若手の画家達が、ル・サロンを中心とする既成画壇の在り方に大いに不満を募らせていた頃でした。進んだ方向は違いましたが、両国でほぼ同様なことが起きていたのです。

中段の絵が、西村さんが紹介してくださった、ラファエル前派の代表的な画家、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」です。シェークスピアの作品「ハムレット」に登場するハムレットの恋人で、小川で溺死してしまう女性を描いたものですが、実は私はこの絵がとても怖いのです。最初に見た時から、何故か恐怖を感じました。絵の中のオフィーリアは、既に亡くなっているのか、あるいは亡くなりかかっているのか判然とはしませんが、怖い絵をあまり知らない私が本当に怖がっている数少ない1枚です。

でもその後、このモデルをめぐる逸話を読んで少し救われました。このモデルさんは、後に同じラファエル前派の画家ロセッティの妻となったエリザベス・シッダルという女性なのだそうです。彼女はミレイの要望に従って、お湯の張られたバスタブの中で長い時間ポーズを取り続けたために、とうとう風邪をひいてこじらせてしまい、彼女の父親は、ミレイにその治療費の支払いまで請求したのだそうです。

また背景は、サリー州にあるホッグスミル川の風景を元にして描かれているのだそうですが、自然主義的な美的理念に基づき、描写されている草花には象徴的な意味が込められています。柳は見捨てられた愛、イラクサは苦悩、ヒナギクは無垢、パンジーは愛の虚しさ、首飾りのスミレは誠実・純潔・夭折、ケシの花は死を意味しているのだそうで、細部にまで作者がこだわっている様子がうかがえます。

この絵からも感じられるかと思いますが、ラファエル前派の絵画の特色はおおよそ以下のようになると思います。

1)主題として中世の伝説や文学、さらに同時代の文学にも取材している。これは当時としては目新しいことでした。

2)従来のキリスト教的テーマを扱う場合も、伝統的な構図を無視して新しい構図を採用している場合が多い。

3)画風は、初期ルネサンスや15世紀の北方美術を一部取り入れていることもあり、明暗の弱い明るい画面、鮮やかな色彩、そして細密描写などが特色。

4)高度な写実性や明暗対比など表現技巧に凝った多様な色彩描写が多い。

5)耽美主義やヴィクトリア朝美術など当時の英国の美術様式を巻き込み、その後の英国芸術に大きな影響を与えたほか、象徴主義の先駆的な役割を果した。

下段の絵は、上野の国立西洋美術館所蔵の、ダンテ・ガブリエル・ロセッティの作品、「愛の杯」です。「愛の杯」とは、親しい者、特に恋人同士でくみ交わす杯のことであり、杯にはそれにふさわしくハートの模様が付けられています。背景には見事な刺繍が施された布と4枚の真鍮のお皿(左端と右から2枚目は鹿、左から2枚目は「約東された土地からブドウを持ち帰るホセアとヨシュア」、右端は「禁断の木の実を食べるアダムとイヴ」が描かれています。造形的にはもちろん、私には十分くみ取れませんが、意味内容の上からも、作者の周到なる配慮があったものと思われます。

ラファエル前派は、1848年の成立から数年間で派としては分解しますが、その影響はその後もずっと続きました。常に現在を否定して、新しい境地を開拓することが芸術の宿命なのだと思いますが、イギリスで興った数少ない絵画運動として、たいへん興味を惹かれます。

今回は、私が怖れている数少ない絵画、「オフェリア」を見て、衝動的に書かせていただきました。でもあの絵、あなたは怖いと思いませんか?

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