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スージー・ウォンの世界 |
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2011年10月12日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ かわいくてたまらないニキ。でも、人間のおとな同士はまず対等であってほしいものです。 |
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たいへんご無沙汰してしまいました。春からずっと大きなプロジェクトに取りかかり、必死の思いでやってまいりましたが、それもやっと完了近くに漕ぎ着けました。徐々にもとの生活(?)に復帰して、エッセイにも励むつもりですので、よろしくお願い申し上げます。
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私が初めてアメリカ本土の地を踏んだのは1973年の2月末。そのときどういうわけか、私は会ったばかりのアメリカ人に、スージーと呼ばれることが多かったのです。カズコという名前が発音しにくいからだったのでしょうけれど、それならどうしてスージーなのか… カズコの「ズ」の音に引きずられたのかもしれません。でも、私はスーザンでもなければスザンナでもない。だからスージーと呼ばれる所以はまったくない、と内心憤慨したものです。
かといって、私は「カズコ」と呼んでほしいとも思いませんでした。どうせきちんと発音できず、「カズーコ」と呼ばれるに決まっています。「カズーコじゃないの、カ、ズ、コ、ですよ」なんて言えば、「ああ、そう、カァズコ、ね」と言われるのが関の山。違うんだなぁ…
いえ、たとえきちんと「カズコ」と発音できたとしても、そう呼ばれるのはご免です。なぜって、母や親類には「かこちゃん」、友人のあいだでは「かずこさん」と呼ばれていて、「かずこ」と呼び捨てにしたのは、父と父方の祖父ぐらいで、母の影響でしょう、そう呼ばれるのは好きじゃありません。ましてや他人に「かずこ」と呼び捨てにされるのは、まっぴらです。
でも、私がすぐスージーと呼ばれたのは、どうも「ズ」の音のせいだけではないような気がしました。東洋から来たばかりの若い女性、というと、スージーという名前がすぐ頭に浮かんだのではないかと思われました。(当時は、東アジアは一般に「東洋」=「オリエント」、アジア人は「オリエンタル」と呼ばれていましたし、私も若かった。)そして多分、そういう東洋人の私を見て、スージー・ウォンのイメージが思い浮かんだのかもしれません。
スージー・ウォンといってもピンと来ない人が多いかもしれませんね。特に若い人にはチンプンカンプンでしょうね。なにしろ「スージー・ウォンの世界」とは1950年代後半に書かれた小説で、1960年に映画化されたものですから。
1972年に香港にいたとき、私はたまたまその本と出会い、読んでみました。ストーリーの舞台が香港なので、興味があったのだと思います。映画も香港で観たような気がします。(その記憶は確かではないのですが、日本を出てから、そしてアメリカに来る前だったことはたしかです。)主人公のスージー・ウォンは、鼻っぱしが強い美人。でも、実は娼婦で、安宿に滞在して香港の庶民を描くイギリス人貧乏画家のロバート・ローマックスに惹かれていきます。彼女を描きながら、彼女が何かを隠しているのが気になるロバート。とまあ、いろいろあるのですが、結局はハッピーエンドという他愛もない話です。当時はエキゾチックで神秘的という東洋の女性像が欧米には蔓延していましたが、スージー・ウォンはそれを十分体現していたと思います。そんなイメージが、1970年代初頭でも、アメリカ人の頭には残っていたようです。
スージーと呼ばれて居心地が悪かったのは、美人といっても娼婦のスージー・ウォンと同列にみられるのがいやだった、というのではありません。東洋の女性とはこういうもの、という勝手な先入観念でまず見られるのがいやだったのです。
そんなことを思い出したのは、ちょっと前に、このサイトの掲示板にコメントのあった「中国嫁日記」という漫画を見たときです。それが大人気だという書き込みがあり、それに対してちょっとやりとりがありましたね。中国人女性の目を線のように描くなんて、アジア人に対する偏見の表れを、アメリカですらやらなくなったのに、日本人自身がやるとはなにごとか、というコメントや、「嫁」という言葉が差別的だという意見もあるという指摘があったりして、アメリカ在住の女性として、私の意見も尋ねられた、と記憶しています。でもそのときは、より目になるんじゃないかと思ったほどコンピューターのスクリーンを見つめて仕事に集中しておりましたので、「中国嫁日記」をちょっと覗いてはみたものの、コメントする余裕がまったくなく、失礼しました。
「中国嫁日記」の私の感想ですが、一言で言うと、ヘキエキ。何にって、不対等な男女関係に。いや、上から自分の妻を見下ろして、かわいいと思っている男の見方に。そう見させる要素の1つは大きな年齢差でしょう。それから、いくら中国が世界第2の経済大国とはいえ、一般庶民の生活水準はまだ低いので、物質的にもっと生活が豊かな日本人の優越的態度も感じられます。そして、東洋女性をかわいいと思う男の潜在的な感情。作者がこんなに年下の中国人ではなくて、同年代のヨーロッパ人女性とでも結婚していたら、こういう漫画は生まれてはこなかったでしょう。東洋人の目を線のように描くのは東洋人をカリカチュアとしか捉えない偏見だとか「嫁」という言葉は差別的だとかという前に、女をかわいい対象としてしか見ない男の目に、私はもううんざり。
自分とは文化も環境も国籍もまったく違う個人といっしょに生活していたら、「ヘェー、同じものを見てもその見方がこうも違うのか」と教えられることが多いと思うのですが、関係が対等でないと、自分が学んでいけることにはまったく気がつかなくて、相手が自分の文化に順応することしか頭に浮かばないのです。
そこにはやはり東洋女に対する男の見方(東洋の男であっても)と、生活水準格差とが、作用していると思います。たとえば、フランスやイギリスやドイツ女性と結婚した日本の男性が、「中国嫁日記」のようなものを書くと思います?
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