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162 紫紺の闇 (しこんのやみ)
2016年1月1日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。
私は1970年(昭和45年)に大学を卒業しました。今から46年前のことです。今年は、卒業後半世紀近くを生き延びた者達が集まって同窓会を開くことになりました。末席ながら私も出席する予定です。

私はその大学の教養課程の2年間、キャンパスの隅にあった学生寮で過ごしました。東京都小平市に今でもあるその寮は、当時は見るからに古い木造で、地元消防署からは、もしも出火したら、5分間で全体に火が回るでしょう、と警告されていました。(学生達のずさんな生活ぶりにもかかわらず、幸い火事は発生しませんでしたが。)

北寮、中寮、南寮の3棟からなるその学生寮は、全体で1、2年生併せて200人以上の学生達が住んでいたと記憶しています。徹底した学生自治による運営がなされていた寮でした。私にはとても居心地がよく、今でも楽しい思い出ばかりです。

部屋は4人部屋で、1年生と2年生が各2人ずつというのが原則でした。「同じ釜のメシを食った仲」とよく言いますが、今回のような同窓会の幹事やら、出席者の顔ぶれの中に、寮生活経験者が多く居るのを見て、さすがに「同じ釜のメシ」を食べると、知らない内にある種の連帯感ができるというのは本当なんだと、あらためて思います。

ところで、この記事のタイトル「紫紺の闇」は、その学生寮の寮歌の名前です。昭和10年代に作られたこの寮歌は、今でも学生達に歌い継がれています。かつての旧制高校的な、生硬な言葉を使ったこの歌が私は妙に好きでして、今でも時折口ずさむことすらあります。この記事では、そんな寮歌の持つ歴史をちょっとだけおしゃべりさせていただきます。

寮歌の歌詞の中に、こんな文言があります。

「紫紺の闇の原頭に オリオンゆれて鶏(とり)鳴きぬ
 ・・・
 自由の砦(とりで)自治の城
 ・・・
 思想(おもひ)の空の乱れては 行くすべ知らぬ仇し世(あだしよ)に
 あゝ伝統の舵をとり 濁流ルビコン渡らんと
 纜(ともづな)ときし三寮よ 自由は死もて守るべし」

これは当時の寮生が作詞し、それにまた別の学生が曲をつけたもので、プロの音楽家の手によるものではありませんので、音楽的に見るとどういう水準なのか、わかりませんが、入寮直後に、この歌とその歴史を教えられた私には、以来、半世紀近く、決して忘れることのない歌となりました。

この歌が作られたのは、1936年(昭和11年)のことでした。昭和11年と言えば、二・二六事件が起こった年で、翌1937年には、日中戦争が本格的に始まりました。日本全体が、戦争に向かって奈落へと突き進んでおり、それに逆らう者達はむろんのこと、不服従者達や、さらには非協力な態度の者達までが、非国民、逆賊として徹底した弾圧の対象になっていた時代でした。

私が今でも、何よりも自由を大切に考え、反戦、非戦意識を強く持ち続けているのは、もしかしたら、この寮歌と、それに関わった人々の人生を知ったことが一因なのかもしれないとすら思います。実はこの歌は、皇国日本が狂気の時代に入っていた時に作られた、命をかけた反戦歌だったのです。

作詞者は、依光 良馨(よりみつ よしか)氏という当時の学生でした。1936年(昭和11年)に大学構内にできたばかりの学生寮では、寮歌が募集されました。30数編の歌詞の応募の中から、寮生達の投票の結果、1等には、依光 良馨 氏の「紫紺の闇」が選ばれました。でも依光氏は、普通の学生ではなかったのです。その前に、当時の悪法、治安維持法違反で検挙され、獄中生活を送った経験を持っていた学生だったのです。

依光氏は1912年(大正元年)、高知県香美郡美良布村(旧香北町、現香美市)の染色業の家に生まれました。小さい頃は病弱で、少年期にはポリオにもかかりました。その後、小学校を終えると、宮城県・白石で公立病院の院長をしていた20歳年上の兄・馨氏のもとに預けられ、旧制白石中学校(現・宮城県立白石高校)を卒業しました。

1930年(昭和5年)、その兄のアドバイスもあり、氏は東京商科大学予科に入学しました。当時は社会的諸矛盾がその度合いを増し、困窮した家庭や人々の悲惨な状態が大きな社会問題となっていました。

そうした状況を見ながら、学内で様々な社会思想にふれる中で、依光氏は急速に社会主義思想に近づいていきました。真面目で誠実な人柄だったのです。

1932年(昭和7年)、予科最終学年の3年生になると、彼は学内左翼運動の中心人物のひとりになっていました。現世的利益の享受を放棄して、イバラの道に入っていったのです。そして彼は当然のごとく、当時の共産青年同盟(共青)のメンバーとなりました。当時の支配権力者達が、最も目の仇にした思想と団体のひとつでした。共青の活動に加わってほどなく、氏は大学から放校処分を受けました。1933年(昭和8年)のことでした。

潜伏活動中の同年5月、神田神保町で特高の刑事に逮捕され、西神田署に連行され、死を覚悟せざるを得ないほどの、ひどい拷問を受けました。「這うようにして留置場に戻ると、泥棒が一晩中、頭を水手ぬぐいで冷やしてくれた。」と氏は、後に言葉少なに語っています。

数日後、郷里の土佐から両親と兄が警察署に面会に訪れました。父は終始無言、母は泣くばかりでした。「迷惑をかけることになってしまったな」と心の底から思ったそうです。こうした「思想問題を起こす」若者達は、真面目で誠実な生き方をして来た人々がほとんどです。親や親族に迷惑や負担をかけることを、何よりも嫌うタイプの人間が大半だったはずです。当時の司法権力や特高は、こうした弱みをフルに使ったわけです。真面目な依光氏も、本当に辛かったと思います。

4ヵ月後、それでもまだ非転向のまま、市ヶ谷刑務所へ未決囚として移されました。そして市ヶ谷刑務所で約1年たった昭和9年秋、転向声明に署名しました。「自分のような、ひ弱な体では革命運動は無理。拷問されたら秘密を漏らすかもしれない」とも思ったのだそうです。身を切るような決断だったと思います。

この後、まもなく裁判が始まり、東京地裁で懲役2年、執行猶予3年が言い渡され、即日出所しました。転向に同意すれば、執行猶予付きで釈放。しなければ、虐待と拷問で獄死か、または未決囚としていくらでも投獄しておく。当時の特高や司法の常套手段でした。

出所後、高知に戻り、農業をするつもりでいると、大学の恩師達の計らいで、復学への道が開けました。1年間、文部省の国民精神文化研究所で研修すれば、復学を認めるというのです。

国民精神文化研究所(略称は精研)は文部省の直轄機関で、学生の左傾化対策を目的として品川区上大崎に設置されたものです。ここには各大学から、思想問題で追放された学生達などが送り込まれていました。まさに思想改造のための収容所だったわけです。そこでは毎日、国家主義者達の講義を聴かされ、日曜ごとに目黒駅近くの寮から徒歩で明治神宮に参拝させられました。

依光氏はここで1年間受講しました。学問を好んだ氏のことです、どうしても大学に戻りたかったのでしょう。1年後、提出した論文の合格を受け、大学の教授会が放校処分を取り消し、氏の復学が決定しました。そして1936年(昭和11年)5月、予科3年生として復学、できたばかりの寮に入ったのです。

元々、氏は1932年(昭和7年)に予科3年生になっていたのですから、4年間の辛い回り道でした。あの時代の空気と猛烈な圧力の中で、ともかく復学できたのは、依光氏が極めて優秀な学徒であったことと、その大学が当時の状況の中では、リベラルな学風をかろうじて保っていたということが原因だったと思います。

こうして復学したばかりの依光氏が、この曲を作詞したのです。<紫紺の闇> とは、当時の闇のような時代を意味し、強固なファシズム体制をオリオン星座になぞらえ、いつの日か、それが揺れて、希望の朝が来るぞ、という願いを込めた歌詞でした。

<自由の砦 自治の城> とか、<自由は死もて守るべし> という言葉に、氏はどんな思いを込めたことでしょうか? 復学できたばかりなのに、歌詞の真意が見破られ、問題になれば再び拷問と虐待どころか、命を失う事態に追い込まれる恐れが十分にあったわけです。氏も後の懐古で、「高いがけから飛び降りるつもりで書いた」と言っておられました。あの時代環境の中、「自由を守る」とか、「自治」などという言葉は、危険思想のシンボルのようだったことと思います。

でも、「まもなく戦争になると思った。寮の俊秀を戦争で殺させてなるものかと思った」という氏の勇気と信念には感服するばかりです。

かろうじて戦中を生き抜いた氏は、戦後、東京経済大学・経済学部長や、高崎商科短大(現・高崎商科大)の初代学長などを務めました。経済史の立派な研究者でした。

「思想(おもひ)の空の乱れては 行くすべ知らぬ仇し世に
・・・・・
自由は死もて守るべし」

この漢文調の堅い表現は、「若い学生の感傷的な思い入れ」などということだけでは済ませられない、重い史実を背負っています。言論の自由や、思想・信条の自由には最後までこだわっておられた、作家の故・城山三郎氏も、この大学の出身で、寮歌の意味を知っておられた方でした。

不肖の後輩ではありますが、私も残りの人生を、こうした史実を決して忘れることなく、生きていきたいとあらためて思った次第です。同窓、同期の雨宮さんも、きっと似たような感慨をお持ちだろうと思います。卒業から46年、あっという間だったような気もします。
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