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もう一人の上司 |
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2008年7月12日 |
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 | 吉田 美智枝 [よしだ みちえ]
福岡県生まれ、横浜市に住む。夫の仕事の関係で韓国ソウルとタイのバンコクで過ごした。韓国系の通信社でアシスタント、翻訳、衆議院・参議院で秘書、韓国文化院勤務などを経て現在は気ままな主婦生活を楽しんでいる。著書に『朝鮮王朝の衣装と装身具』(淡交社、共著)『韓国の近代文学』(柏書房、翻訳)などがある。現在、文化交流を目的とした十長生の会を友人たちと運営、活動している。 |
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▲ 小粒のライス型淡水パールでブレスレット。 パールには金属的光沢があり、シルバーパーツの代わりに使うことも多い。
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T氏とともに私の人生に大きな影響を与えたのはY氏であった。
T氏の秘書として働く前後、私はY氏のもとで働いた。彼は、朝鮮半島のニュースを扱う小さな通信社の代表で、その会社は日本の大手通信社ビルの一角にあった。
T氏を自由奔放、融通無碍な人というなら、Y氏はその対極にあるような、地道さと渋さを絵に描いたような人であった。
Y氏は、厳格かつ頑固な人であった。ごく少人数のこの通信社の主な仕事は、韓国の通信社から送られて来るニュース、ラジオの平壌放送のニュースを翻訳・編集し日本国内の通信社や新聞社などに流すことであった。
毎朝電車の中で数紙に目を通し、誰より早く出勤し、夜は最後まで机に向かった。昼食は、ほとんど同じものを自室でとり、食後そそくさと仕事に戻った。彼の生活は、たまの出張をのぞけば、会社を閉じ(50数年ぶりに)帰国するまで変ることはなかった。
韓国人であるY氏が韓国大手の通信社の駐在員として日本に勤務した後、会社を興したのは、戦後間もない頃だと聞いている。私は、20代後半から約8年間、彼の目の前あるいは真横の机で過ごしたが、彼の家族のことや彼が毎日飲む漢方薬のこと以外、彼の経歴、会社を興したいきさつなど知る機会はなかった。
一度職場を去った私を、アシスタントとしてではなく今度は翻訳者として迎えてくれたY氏が、酒を一切口にしない理由を話してくれたことがあった。
韓国南部のある地方で育ったY氏は、幼い頃、酒に酔った父親を迎えに行くのが自分の役目だったこと、そして酒を飲めば酔狂を回してしまう父親を、夕暮れ時の寒い屋外でいつもひとり延々と待つのが辛かったこと、だから父親をこんな風にしてしまう酒というものを自分は口にすまいと子ども心に思ったこと…そんな内容だった。そしてその決心は生涯守られた。
彼はまた、儒教における徳を日々積むことを自らに課した人であった。彼の伝統的価値観は、お気楽主婦の私にはときに目前に立ちふさがる壁のようなものであったが、かくしゃくとして動じない彼の姿勢は、私が自分自身を見直し、ときに乗り越え、より強くなる上で必要なひとつの基準でもあったように思う。
確固とした『枠』を持ち続け、一つの視点から半世紀以上をかけて朝鮮半島を見続けたのがY氏であった。
「この目で(朝鮮半島)統一が見られるかな…」
仕事の合間にこうつぶやくことがあった。
彼が果たした役割、この小さな通信社が果たした特殊で重要な役割は、時代とともに終わった。日本の通信社、新聞社のほとんどが、語学に堪能な特派員を自ら派遣するようになったことが大きな理由であろう。
いぶし銀のような光を放ち続けたY氏。私にとってもう一人の父のようであり、もう一人の偉大な上司であった。彼の訃報がソウルのご子息の名で届いたのはこの春、90歳だった。
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