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縁の下のバイオリン弾き
106 ディーベンコーン
2015年1月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ ディーベンコーン「オーシャン・パーク#79」
私は毎年自作の絵をカードに印刷してクリスマスカードにして家族・知友に送っている。去年のカードはサンフランシスコのポイント・ロボスというところで描いた海岸の遠景だった。描きながら「うまく行くとちょっとディーベンコーンみたいになるかもしれない。そうなったらいいな」と思った。たかだかハガキぐらいの大きさの水彩画にそんなことを思うのはおこがましいにもほどがあるけれど彼の「町の風景」という絵に構図がすこしだけ似ていたのである。


リチャード・ディーベンコーン(1922−1993)は20世紀アメリカの画家だ。アメリカ画壇の中心であるニューヨークではなく、カリフォルニアのロサンジェルスやサンフランシスコで活躍した。そのためにカリフォルニア派、と呼ばれることがある。

抽象画家として出発したのだが、途中で具象画(つまり何が描かれているか分かる絵)を描き始めた。そのころには抽象画家としてすでに一家を成していたのにこの方向転換は画家として大胆きわまりないことだった。

ふつう絵描きは自分の得意分野を変えないものだ。 特に抽象画ばかり描いていた者が急に具象画を描き出すなんてことはめったにあることではない。

もちろん描き方を変える、ということはよくある。その代表はピカソだろう。あの人ぐらい自分の殻をこわすことに熱心だった画家はいないと思う。ピカソというと「なんだかよくわからない」と浮かぬ顔をして言う人が多い。かくいう私もその一人だ。

しかし彼が一生を通じて変化を求め続けた態度はりっぱなものだと思う。そうはいうものの、ピカソははじめからおわりまで具象画家だった。どんなにへんてこな描き方をしていようともそれが何を描いているかはわかる。

ディーベンコーンはそうではない。彼の初期の絵は純粋な抽象だ。それが途中でがらりと変わって具象画を描き始めた。といっても抽象画をまったくやめたわけではない。生涯の最後には抽象画にもどって彼独自の世界をうちたてた。


私は彼の具象画に強い愛着をおぼえる。それはなぜかというと抽象画家としての目が「恐れを知らない単純さ」を実現している、と思うからだ。

絵を描くときに何がかんじんかといって「シンプリファイ」(単純にすること)ということぐらい大事なことはないと思う。よけいなものはけずりにけずって、あとに残ったものだけを出す。いうのは簡単だけど、それができないから苦労するのだ。

具象画といっても写真じゃないのだからそこには自然に取捨選択がある。その時に何を選び、何を捨てるか。その目がどれだけきびしいかによって絵のねうちが決まる。

画家は「ビジョン」を持っていなければならない。何が描きたいのか、どう描きたいのか、事前にわかっていなければならない。もちろん描いているうちにそのビジョンからどんどん離れて行ってしまう、ということはよくある。むしろそれがふつうかもしれない。しかしビジョンを実現しつつあるのか、離れて行ってしまっているのかはっきり意識していなければならない。

それができないとあれもほしい、これもほしいということになってどっちつかずの絵になる。私の絵はその典型だ。いつもそれで悩んでいるからディーベンコーンのいさぎよい態度にあこがれるのだ。

抽象画というのは究極のビジョンだ。自分が描きたいもの、ただそれだけを描く。それが結果としてどんなものになったってかまわない。そういう修練をしてきた者が具象画を描いたらその単純化は容赦がないだろう。


私は抽象画はわからないと長年思ってきた。それが変わったのは妻のリンダのおかげである。彼女は美術学校を出ているので抽象画におそれをいだいていない。というか、彼女が絵を勉強したころは「抽象画にあらずば絵にあらず」という風潮だったのでむしろ抽象画にこそ親しみを感じている。

具象画だと人は自然にうまい、へたを評価の基準にする。なにが描いてあるかわかるからだ。しかし画家はそのために描いているのではない。だからそういう評価をゆるさない抽象画を描きたいと思うのは自然なことだ。

私はリンダと美術館に行って絵をそのものとして見ることを学んだ。別の言い方をすれば絵の歴史的背景とか流派の違いとかにわずらわされずにその絵と自分だけの関係をうちたてることを身につけた。


ディーベンコーンは「オーシャン・パーク」シリーズという一連の抽象画でもっとも有名だ。これは彼が1967年から1988年ごろまで描き続けたもので、番号がふってある。120番とか130番とか書いてあるから100枚以上あるのは確かだけれど、ぜんぶで何枚あるのか知らない。

オーシャン・パークというからには海岸にある公園だろう。たぶんこぎれいな芝生があり、かもめが飛ぶ市民の憩(いこ)いの場なのだろう。と私は想像をたくましくしていた。

私がそれらの絵をはじめて見たのはまだ抽象画になれていないころだった。それで、抽象といってもまったく事物からはなれてしまった絵というものを考えることができなかった。

肩のところに焦点があるような絵を見て、私はなんとなく上空から見た景色を抽象化した公園の絵だろうと考えていた。画面の大部分をしめる部分は地面でその上に海の青と空の青がかさなっているような。そう考えるとどう解釈していいかわからない絵にもロマンチックな詩情がただようような気がした。

ところが実はそのオーシャン・パークは公園ではなく、ロサンジェルス近辺にあるただの住宅街だったのである。海の近くなのでオーシャン・パークという魅力的な名前がついているのだった。

ディーベンコーンは家賃が安いという理由でそのオーシャン・パークにアトリエをかまえた。そしてそこで生み出される自分の作品にかたっぱしからナンバーをふっていったのだ。

それがわかってから彼の画業をふりかえると、なるほど「バークレー何番」とか「アルバカーキ何番」と番号をふった絵がたくさんある。いずれもその時に住んでいた場所の名前だ。

要するに彼にとっては絵のタイトルなどどうでもよかったのだ。じっさい「無題」と題された作品もたくさんある。でもただ「無題」というタイトルで何百枚も絵を描くわけにもいかないから(それでは全然区別ができない)、それでおおまかなタイトルとして自分の住んでいる場所の名前を借りたのだ。

これらの絵はオーシャン・パークという町にも、窓からの眺めともまったく関係がない。番号をふるだけ、というのは抽象画家として究極の自信のあらわれだ。彼にとって絵はそれだけでそこに立っているもので、なんの支えも必要としないのだ。ましてや題名がその絵を理解するための手がかりになる、なんてことは考えたこともなかっただろう。

オーシャン・パークだなんて、その名前にうっとりとあこがれていた私は馬鹿だった。ディーベンコーンはそんな甘っちょろい男ではなかったのだ。


1998年だったと思うが、サンフランシスコの近代美術館でディーベンコーンの大回顧展があった。その時に一堂にあつめられたオーシャン・パーク・シリーズは壮観だった。

彼はバッハやモーツァルトを聴きながら絵を描いたそうだ。そう思ってみるとこれらの絵には音楽が流れているような気がする。

同じときに「葉巻箱のふた」と題されたたくさんの小さな絵を見た。ディーベンコーンはふだん葉巻をすっていたのだろう。葉巻箱の木のふたにオーシャン・パークのようなイメージの絵を描いた。彼はこれらの小さな絵を知友に贈り物にしたそうだ。私はそれを見て彼の画家魂に感じ入った。この人はいっときも絵のことが忘れられなかったに違いない。キャンバスの大小にかかわりなく、これらの絵を描かずにはいられなかったのだ。

彼が死んでから20年あまりになる去年、同じくサンフランシスコのデ・ヤング美術館で1953年から1966年までのいわゆるバークレー時代(バークレーはサンフランシスコの対岸にある)、彼の具象画を中心とした時代の画業を展覧する展覧会があった。

そこには素描も展示されていた。具象画を描くようになってから裸婦のデッサンをたくさん描いている。基本にたちかえる、という簡単なようでいて実はむずかしいことを真剣にやっている。

しかし私は風景を描くから、自分にとって特に関心が深いのはディーベンコーンの風景画だ。実物を見てもらわなければわからないかもしれないけれど、人物を描いても風景を描いてもその単純化は徹底している。あれだけ緻密な、細心のデッサンを描きながら、油絵になるとそんなことは忘れたように大胆に、いらないものはばっさり切っている。

たった一筆の絵の具の置き方でいかにたくさんのことを表現しているか。うらやましい。


絵の価値は金銭で決まるものではない。絵のねだんなんてあってないようなものだ。価格が高いからといってそれがいい絵だとはかぎらない。でもディーベンコーンが現在の美術界でいかに大きな名前かということを知ってもらうためにつぎのことをつけくわえたい。2012年にクリスティーズのオークションでオーシャン・パーク・シリーズの#48がおよそ13億五千万円で落札された。
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